2024年4月16日火曜日

『司馬遼太郎が考えたこと』(1)

 さっぱりしないお天気だ。

 『司馬遼太郎が考えたこと』(1)(司馬遼太郎 新潮社、平成十七年)を読んだ。またいつものように気になる箇所を記そう。 

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★天孫族である天穂日命は、出雲大社の斎主になることによって出雲民族を慰撫し、祭神大国主命の代行者という立場で、出雲における占領政治を正当化した。奇形な祭政一致体制がうまれたわけである。その天穂日命の子孫が、出雲国造となり、同時に連綿として出雲大社の斎主となった。いわば、旧出雲王朝の側からいえば、簒奪者の家系が数千年にわたって出雲の支配者になったといえるだろう。いまの出雲大社の宮司家であり国造家である千家氏、北島氏の家系がそれである。天皇家と相ならんで、日本最古の家系であり、また天皇家と同様、史上のいかなる戦乱時代にも、この家系はゆるがず、いかなる草莽の奸賊といえども、この家系を畏れかしこんで犯そうとはしなかった。その理由は明らかである。この二つの家系が、節和上、日本人の血を両分する天孫系と出雲系のそれぞれ一方を代表する神聖家系であることを、歴代の不逞の風雲児たちも知っていたのであろう。血統を信仰とする日本的シャーマニズムに温存され、「第二次出雲王朝」は、二十世紀のこんにちにまで生存をつづけてきた。(「生きている出雲王朝」232p-233p)

★南都北嶺という。北嶺とは叡山のことであり、南都とは、奈良の興福寺のことだ。(「僧兵あがりの大名」376p)

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