この何日間でやっと秋の訪れを感じるようになった。猛暑の夏は過ぎても秋は本当にやって来るのだろうかと思ったりした。が、「暑さ寒さも彼岸まで」と日本の慣用句にあるようにやっと秋の到来を感じている。
以下は『街道をゆく(四十)』「台湾紀行」(司馬遼太郎 朝日新聞社、一九九九年第一五刷)から気になる箇所をメモした。このなかに「どんな人生でも、その終末から逆算すればちゃんと帳尻があっている、という考え方がある」のくだりがある。長く生きてきて自分自身を振り返ってみても、この考えは合っている、と思う。とはいえ、まだ生きているのでこの先の人生はさてさて。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★明末の日本の海獠の代表的な者が鄭芝龍(一六〇四~六一)だった。その子が”国姓爺”とよばれた鄭成功(一六二四~六二)である。平戸の武士田川氏の娘を母とする人物で、学際と武勇があり、長じて明を回復すべく獅子奮迅の働きをした。日本では近松門左衛門の「国性爺合戦」で知られる。(11p)
★戦争をはさんだ人生は、みな数奇である。ここでことわっておかねばならないのは、漢語としての数寄には不幸という語感があるものの、李登輝さんの場合は、不幸はまったくあてはまらない。ただ、不思議な運命であることには、変わりがないのである。……この総統を生んだ台湾島そのものが、数奇なのである。(43p)
★中国は前漢の武帝以来、儒教が国教とされ、二千年もそれがドグマとしてつづいた。つらぬいて人治主義だった。身もふたもなくいえば、歴朝の中国皇帝は私(し)で、公であったことがない。その股肱(てあし)の官僚もまた私で、たとえば地方官のばあい、ふんだんに賄賂をとることは自然な私の営みだった。この台湾にやってきた蒋介石の権力も、当然私であった。一方、勝者になった毛沢東(一八九三~一九七六)の権力も、多分に私だった。毛沢東の権力が私でなければ、プロレタリア文化大革命のような私的ヒステリーを展開できるわけはないのである。歴朝の私(し)が人民にとって餓えた虎でありつづけた以上、ひとびとはしたたかに私として自衛せざるをえなかったのである。国族主義どころではない。王朝から害をふせぐには宗族で団結するほかなく、このため、国家という場からみれば”ひとにぎりの砂”たらざるをえなかった。ただ、台湾にあって、ふしぎなことがおこった。……台湾にとってありがたかったのは、持ちこまれた国家の体系が、孫文の理想である法的国家だったことである。(53-54p)
★「きょうは、尾牙(ベエゲ)の日です」そのように老台北(ラオタイペイ)が教えてくれたのは、正月八日である。……牙(ゲ)には、民間のある種のお祭りの意味があるらしい。「あ、尾牙(ベエゲ)ね」と陳舜臣大人(たいじん)、はすぐさま反応してくれた。お店で働く人達が、店主夫妻のもてなしでごちそうを食べる日だという。牙とは、旧暦で毎月二日と十六日、主として商家で土地の神様を祭ること。尾牙は、年の最後の牙の日で、旧暦十二月十六日のことだそうである。(115p)
★帰国して、小学館の『万有百貨大事典』の動物篇を繰ってゆくと、この動物は「白鼻心(はくびしん)」というものだった。ジャコウネコ科の一種だという。「台湾では、母親がよく泣く児に”バーアーのように泣かないで”と叱りますが、しかし私は菓子狸(かしだぬき)がなくのを聞いたことがありません」と、最後に頼芳英さんは、才女らしくユーモアで締めくくった。菓子狸のおかげで、私は台湾人の愛国心にふれることができた。ここまで書いて思いだした。高雄のホテルのフロントの女性は、菓子狸ブローカー(?)らしい私におもいとどまらせるために、「動物園に行ってごらんなさい」といったのである。国民的威厳というものだろう。(210p)
★高雄のホテルで、迦旗化氏の『台湾監獄島』を読んだ。迦旗化氏は、英語学者であり、高雄で出版社を経営している。……一九二九年、高雄から遠くない左営でうまれた迦旗化氏は、一九五一年、二十二歳のときに無実のまま思想犯として逮捕された。……「台湾に自由を、本島人に名誉を」といっただけで、この刑になった。(227-228p)
★『台湾監獄島』の著者は、当時、台北市の師範学院に在学していて、故郷の高雄のことを心配していた。台北に端を発した暴動は、一時期、政府側を圧迫した。やがて大陸から軍隊が送られてきて、政府側は鎮圧に出た。……この無用の政府の威信の誇示が、このひとつの島のなかで、「中国人」(大陸系)と「台湾人」(本島人)という、ふたつの人種を作る結果になった。本来、おなじ漢民族だったもの、がである。「中国人は、野蛮だ」と。台湾で話されているのを聞けば、それは台湾人のことではないと心得なければならない。(230-231p)
★清朝は、音楽教育を怠ったままで亡んだ。漢民族世界は、孔子が音楽好きであったように、古代は音楽がさかんだった。……ただ漢民族世界は、王朝が亡ぶたびに、音楽も亡んだ。前王朝に仕えた伶人が、殺されるのを避けて逃げてしまったからである。(246p)
★医院のなかでは、田中準造氏が、一個の涙袋になりはてている。伊沢理論どおり、純化された幼児にもどっている。軒下にいる画伯も、伊沢修二の教育理論どおり、純化されたままでいた。夕刻になって、画伯は、傍観者の私から”田中準造帰郷物語”のいっさいを聞き、すべてを知るのである。田中準造氏が、二十四年前、新営の駅前から沈医院をめざし、しかしたずねあぐねて路傍にすわって泣いた話も、画伯は知った。画伯までが、涙袋になり、ボロボロと涙をこぼした。同時に、二個の涙袋は、自分が涙袋になっているのがおかしくて、体がやぶれそうになるまで笑った。……こんな人間の精神現象は、台湾でこそありえたのだろう。なんだか、伊沢修二の偉大さが、実証されたような気がした。(251-252p)
★明末、私貿易者のことを”海獠(かいりょう)”とよんだ。獠というのは、野蛮人とか無法者といった意味で、ギャングという語感に似ていなくもない。……明からみれば、オランダ人も一種の”海獠”だった。十七世紀にオランダ人が台湾を根拠地にして活躍しはじめると、福建省の海獠が、大いに活気づいた。明はこれに手を焼き、海獠のなかでも知識人ともいうべき鄭芝龍を抱きこみ、官位をあたえた。ついには、都督にした。毒をもって毒を制したつもりだった。鄭芝龍のほうもしたたかで、かれは自分の官権を私物化し、同僚の海獠たちをつぎつぎに倒し、ついには富は王侯をしのぐといわれるまでになった。要するに中国世界は、上(かみ)は皇帝から海上の海獠にいたるまですべて私(し)だった。むろん魅力的な男だったろう。(271-272p)
★佐藤愛子さんの『スニヨンの一生』(文藝春秋刊)を読んだ。”高砂族”出身の兵士だった中村輝夫一等兵(アミ族としての名は、スニヨン)の生涯について書かれている。……「中村輝夫一等兵」が、同島の谷間で発見されるのは、終戦から二十九年経った一九七四年十二月だった。すでにうわさがあり、インドネシア共和国によって捜索された。……スニヨン・中村輝夫の出現について、新聞が盛んに報じた。……彼女は、夫の帰りを十年待った。ついにあきらめて、別の男を婿にとった。その婿も、仰天したはずである。かれはスニヨンが残した妻子を養って二十一年のあいだ、よく働いた。天に苦情を言えるとすればこの人こそ叫ぶべきだったが、かれにはかれの堅牢な道理があったらしく、だまって家を去った。七十二歳だった。……当人にとってそういう過ごし方がよかったとすれば、いうことはない。どんな人生でも、その終末から逆算すればちゃんと帳尻があっている、という考え方がある。とすれば、スニヨンの一生も、最後の四年間で、帳尻があったことになる。五十九歳だった。(377-385p)
★国家を造ったばかりの明治政府は、欧米の諸国家がキリスト教の上に成立しているのをみて、自国に何やらそういう塩味が欠けていることを感じたかと思える。それが、”国家神道”になった。といって、稲荷信仰のようにご利益があるわけでもなく、教義があるわけでもなかった。それを、固有の信仰をもつ台湾や朝鮮、あるいは南洋諸島にまでひろげたのは、乱暴だったといえる。台湾神社、台南神社などがそう。だが、戦後、一空に帰したのは、当然だった。(395p)
★この時代、河井継之助は新しい国家の青写真を盛った唯一に近い――坂本竜馬も持ちましたが、。――人物だったのに、歴史は彼を忘れてしまっている。台湾の運命がそうならないように、むしろ台湾が人類のモデルになるように、書きながらいつも思っていました。(対談・場所の悲哀 李登輝/司馬遼太郎 502p)
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