2023年2月4日土曜日

またも『燃えよ剣』を読む

 1週間くらい前まで図書館で借りた『燃えよ剣』を期限内に返却しようと必死で読んだ。読んだのはいいのだが、読んだ後で司馬遼太郎読書一覧表で確認すると2年前の3月にブログにアップしている。今回、読みながら土方歳三は読んだ気がすると思いながら読んだ。司馬作品を読んでいるといろんな本に登場人物が重なる場面がある。同じ本を何度読んでも罪にはならないのでこれはこれで由としよう。

 以下は今回読んだ『燃えよ剣』(司馬遼太郎 文藝春秋、二〇二〇年第1刷)から気になる箇所をメモした。前回と重なる部分があるがこれもまた由としよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★ 歳三は、にべもなくいった。あるのは男一匹だけさ、と心中でおもっている。なるほど新選組は尊王攘夷の団体だが、尊王攘夷にもいろいろある。長州藩は、どさくさにまぎれて政権を奪ったうえで尊王攘夷をやろうとしている。これとはちがい、親藩の会津藩の尊王攘夷は、幕権を強化した上での尊王攘夷である。歳三は、新選組が会津藩の支配を受けている以上その信頼に応えるというだけが思想だった。しかし男としてそれで十分だろう、とおもっている。(もともとおれは喧嘩師だからね)歳三は、ひとり微笑った。(326p)

★(剣に生きる者は、ついには剣で死ぬ)歳三はふと、そう思った。軒端を出たときには、月は落ちていた。歳三は真暗な七条通を、ひとり歩きはじめた。星が出ている。(390p)

★「おれが、――総司」歳三はさらに語りつづけた。「いま、近藤のようにふらついてみろ。こんにちにいたるまで、新選組の組織を守るためと称して幾多の同志を斬ってきた。芹沢鴨、山南敬助、伊藤甲子太郎……それらをなんのために斬ったかということになる。かれらはまたおれの誅に伏するとき、男子としてりっぱに死んだ。そのおれがここでぐらついては、地下でやつらに合せる顔があるか」「男の一生というものは」と、歳三はさらにいう。「美しさを作るためのものだ、自分の。そう信じている」「私も」と、沖田はあかるくいった。「命のあるかぎり、土方さんに、ついてゆきます」(395p)

★余談だが、慶喜はこの後、場所を転々しつつ逃避専一の生活をつづけ、その逃避恭順ぶりがいかに極端であったかは、かれが、ふたたび天皇にごあいさつとして拝謁したのは、なんと三十年後の明治三十一年五月二日であった。かれは自分の居城であった旧江戸城に「伺候」し、天皇、皇后に拝謁した。明治天皇はかれに銀の花瓶一対と紅白のチリメン、銀盃一個を下賜された。政権を返上して三十年ぶりでもらった返礼というのは、たったこれだけであった。推して、慶喜の悲劇的半生を知るべきであろう。(397p)

★沖田は、じっと天井を見つめていた。(青春はおわった。――)そんなおもいであった。京は、新選組隊士のそれぞれにとって、永遠の青春の墓地になろう。この都にすべての情熱の思い出を、いま埋めようとしている。歳三の歔欷(きょき)はやまない。(400p)

★京に錦旗が翻った時、慶喜はこれ以上戦をつづければ自分の名が後世にどう残るかを考えた。「第二の尊氏」である。その意識が、慶喜に「自軍から脱走」という類のない態度をとらせた。こういう意識で政治的進退や軍事問題を考えざるをえないところに、幕末の奇妙さがある。「歳、いまは戦国時代じゃねえ。元亀天正の世にうまれておれば、おまえやおれのようなやつは一国一城のあるじになれたろう。しかし今はどうも違う、上様が、暮夜ひそかにお城を落ちなすったのもそれだ」それだ、といいながら、近藤の頭にはそれは緻密には入っていない。なんとなくわかるような気がするのである。(461P)

★慶喜の落涙を察するに、譜代の幕臣の出でもないこの二人(注:近藤と土方)が最後まで自分のために働いてくれたことに、人間としての愛憐の思いがわき、思いに耐えかねたのであろう。同時に、かれらを恭順外交の必要上、甲州へ追いやったことも思いあわされたのかもしれない。揮毫をことわったのは、慶喜の維新後の生活信条による。このひとは、生涯、世間との交渉を絶って暮らした。なお篆額の記号はやむなく京都守護職会津藩主松平容保がひきうけ、碑は明治二十一年七月完成、不動堂境内老松の下に南面して立っている。(518p)

★「歳、自由にさせてくれ。お前は新選組の組織を作った。その組織の長であるおれをも作った。京にいた近藤勇は、いま思えばあれはおれじゃなさそうな気がする。もう解きはなって、自由にさせてくれ」「……」歳三は、近藤の顔をみた。茫然とした。……近藤は、ふたたび門を出た。歳三は追わなかった。(534p)

★歳三は死んだ。それから六日後に五稜郭は降伏、開城した。総裁、副総裁、陸海軍奉行など八人の閣僚の中で戦死したのは、歳三ただひとりであった。八人の閣僚もうち、四人まではのち赦免されて新政府に仕えている。榎本武揚、荒井郁之助、大鳥圭介、永井尚志(玄蕃頭)。……お雪。横浜で死んだ。それ以外はわからない。明治十五年の青葉のころ、函館の称名寺に歳三の供養料をおさめて立ち去った小柄な婦人がある。寺僧が故人との関係をたずねると、婦人は滲みとおるような微笑をうかべた。が、なにもいわなかった。お雪であろう。(662-663p)

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