冷たい朝を迎える。これから春にかけて冷たい日が続いたり暖かい日が続いたりして気温が落ち着くのだろう。それにしても今朝は寒いよりも冷たい!
『街道をゆく』を読んでいたがいつの間にか司馬作品の長編小説を読みだした。そのため『街道をゆく』の「奈良散歩」を読み終えて『街道……』を中断している。「奈良散歩」を読めば奈良に行きたくなる。昨日は友だちとの電話で春になれば県北部の三次で会おうとのなった。その頃にはコロナも落ち着いて遊びに行きやすくなるかもしれない。まだまだ元気があるのか友だちとの話題は遊ぶことばかり。
以下は『街道をゆく』(二十四)「奈良散歩」(司馬遼太郎 朝日新聞社、2000年第7刷)から気になる箇所をメモした。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★とくに一カ所をあげよといわれれば、二月堂あたりほどいい界隈はない。立ちどまってながめるというより、そこを通りすぎてゆくときの気分がいい。東域の傾斜に建てられた二月堂は、懸崖造りの桁や柱にささえられつつ、西方の天にむかって大きく開口している。清風を啖(くら)い、日没の茜雲を見、夜は西天の星を見つめている。二月堂へは、西の方からやってきて、大湯屋の食堂(じきどう)のずっしりした建物のそばを通り、若狭井のそばを経、二月堂を左に見つつ、三月堂と四月堂のあいだをぬけて観音院の前につきあたり、やがて谷を降りてゆくという道がすばらしい。(262p)
★われわれが、芝生と松林の静まりのなかで、かつて二十五円で売りに出された国宝五重塔の下をすぎてゆく幸福を得るようになるのは、明治政府が正気をとりもどしたおかげである。考えてみれば、日本における強烈な国粋主義が、国家と国民に損害以外のものをもたらしたことがあるだろうか。……奈良にある多くのすぐれた建造物を千数百年にわたって守りぬいてきてくれたこのまちの精神というものに敬意をささげるべきではないか。(293p)
★みな、なま公卿だった証拠に、このとし、いっせいに頭髪をたくわえ、春日大社の僧職になってしまうのである。僧には本来苗字がなかった。還俗したために苗字もつけた。……前後のかくれた事情はともかく、みずからすすんで興福寺を捨てたのである。……どうか俗人にもどしてください、と官に願い出るなど、仏教の権威、信仰ともども片鱗さえうかがえない。カトリックやマホメット教に、こういう現象がありうるだろうか。(304-305p)
★僧が、いっせいに還俗することによって寺をすてた以上、寺も仏像も宝物も持ち主なでぃで路上にほうりだされたのと同然だった。軽薄といえばこれほどすさまじいものもないが、一方、明治維新の革命性ということからみれば、興福寺におけるそのことほどはげしいものは他になかった。……のちに成立する奈良公園のうつくしさは、興福寺を毀(こぼ)つことによって成立したのである。いまここを散策する私どもが、なにものかに感謝せねばならぬとすれば、旧興福寺の末期の僧たちの無信仰に対してその意を捧げるべきだろうか。このことは、末期の僧たちを侮辱しているのではない。私ども日本人には、大なり小なり、旧興福寺の気質がある。(307-308p)
★阿修羅は私にとって代表的な奈良人なのである。(310p)
★仏教の伝播というのは、伝播そのものがロマンティックなのである。仏教はその誕生の地から歩き出してやがてペルシャ語地域に入り、さらに東にむかって流郷の地にゆき、オアシス国家の樹陰に入った。私どもが西域とよび、またシルクロードとよぶ地である。その辺りはいまは中国に属し、新疆ウイグル自治区とよばれている。仏教という酒は、このタクラマカン砂漠の周辺で第二の醸造期に入ったのである。紀元前一、二世紀ごろとみていい。仏教はそこで足踏みするようにながくとどまり、容易に中国に入らず、オアシスの王や農民や商人たちから鑽仰(さんぎょう)され、気配としていくつかの経典も編まれた。そのなかに、有力なオアシス国家として、古代于闐国(うてんこく)がある。……正確にいえば、東大寺は古代于闐国の文化がゆきついた端であるともいえる。……古代インド人は、于闐国のことを「クスタナ」とよび、チベット人はリーとよび、あるいはウテンとよんでいた。ウテンの音を、古代の中国人が漢字にあてはめたのが、于闐である。(315p)
★華厳の理論は十分科学にも耐えうるものだが、しかし、――それでどうなる。という宗教的な面となると、やや弱い。奈良仏教が平安仏教に置き去りにされたのはそういう面の弱さにある。が、別の面からいえば、平安仏教が加持祈祷のようなオカルトに堕したのに対し、東大寺は華厳という雄渾な世界観のおかげで、知的な清雅さを保ちつづけているともいえる。(343-344p)
★仏教は、本来、葬儀をするための宗教ではなかったのである。クシナーラーの野で、弟子たちに看とられつつ死んだ釈迦についても、葬儀が営まれたというはなしはない。かれの遺体は、当時のインドの火葬のやりかたどおり、新しい布や綿でつつまれ、油をたっぷり入れた鉄の槽(おけ)におさめられて、火が点じられただけであった。……東大寺が建立された奈良時代では、仏教は生者のみのものだった。このため、東大寺ではなお創建以来の精神が息づいていて、葬儀というものはやらない。いかに東大寺に大きな寄進をした分限者であっても、葬儀をひきうけることはない。また管長以下、塔頭の僧たちが死んでも、東大寺の僧がその導師をつとめることもない。東大寺の僧が死ぬと、町方の寺の住職をよんで、葬儀をさせるのである。その専門というべき寺があって、寺号は空海寺という。(368-369p)
★聖というのは官僧ではない僧形の者のことで、中世、とくに室町期、民間における巨大な勢力だった。聖のなかには、”お大師さん”を奉ずる者もいれば、念仏ばかりを唱えている者もいた。そういうひとびとが、高野山への納骨を勧めて歩いたり、また京の鳥辺山などの共同墓地に定住したりして、葬儀を受けもったりした。やがて、高野聖や念仏聖たちが寺を持ち、本山をもち、規制教団化してゆく(室町時代だろう)うちに、葬儀は寺と僧がやるものという風儀が一般化した。(370p)
★人間が海や山を見たいと思うのは、不動なものに接して安心をえたいからではないか。自然だけでなく、人事においても修二会のような不動の事象が継続していることは、山河と同様、この世には移ろわぬものがあるという安堵感を年ごとにたしかめるに相違ない。(383p)
★「咒師」(しゅし) これは練行衆の第三座であることはすでにふれた。この役名には、いかにも天平のひびきがある。咒は呪と同じ文字である。東大寺では伝統的に「咒」と書き、シュと音ずる。(413p)
★死者に戒名をつけるなどという奇習がはじまったのはほんの近世になってからである。インド仏教にも中国仏教にもそんな形式も思想もない。江戸期になって一般化したが、おそらく寺院経営のためのもので、仏教とは無縁のものといっていい。戒名がさほどの歴史性もなく、仏教の教義にも関係がないというのは、わが国最古の過去帳をもつ修二会がそれを証明している。(423p)
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