2018年2月6日火曜日

『緩やかな生き方』&『記憶の海辺』インタヴュー

 一昨日の地元新聞「読書」欄にエッセイストの池内紀氏が写真付きで掲載される。「著者に聞く」とのタイトルで最近出版された『記憶の海辺』のインタヴューがある。いつもブログに書くようにこの人のファン。市内にある泉美術館で開催された2度の講演会はいずれも聞いている。権威や名誉を嫌う人らしく、物腰は柔らかい。「語るほどの素材ではない」とのことでこれまで一切自伝的なことや回顧録は拒み続けたそうだ。ところがそれも「僕はいつも自分に問い掛け、主体的に責任を取りながら生きてきたつもり。それを書くことには意味があると思ったんです」、のことから「私的な記録を通した時代とのかかわり」を書いている。

 よく観察し、気になったものはメモし、雑誌や新聞の切り抜きと共にファイルするという。これは自分自身もやっている。そして「情報源は自分でつくる。スマホなしで何もできなくなるという『持つことで生じる不便』を皆忘れているのでは」という。最後に「自由は一切譲らない。年寄りの仕事にぴったりでしょう」と。

 『記憶の海辺』、これは読まないといけない。「自由は一切譲らない」、これはいい言葉だ。いつまでもそうありたいものだ。ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下の『緩やかな生き方』(五木寛之 実業之日本社、2014年)は最近読んだ本で、本文の中に出てくる知らない言葉を羅列しよう。

★思わず笑って、あとでしんとした気持ちになるところがあるのです。外国語ではアフォリズムとかいいますね。アフォリズムというやつには、どこかもっと硬質なものがあるんじゃないでしょうか。緑雨の言葉のほうが、かなり人間くさい卑近なところがあって、ぼくはそこが好きです。「筆は一本也、箸は二本也」と彼は言います。「衆寡敵せずと知るべし」と。要するに、ものを書いても食っていくことは難しいんだ、ということですね。原稿料を稼ぐのは一本の筆。それに対して飯を食らう箸は二本である。二本と一本ではとても勝ち目がないじゃないかと、というわけです。45 p

★「見テ知リソ、知リテナ見ソ」というのは柳宗悦(むねよし)の言葉です。私は「心偈(こころうた)」という画文集のなかでその呪文のような短い言葉に出会いました。一瞬、ハッとして、それからずっと忘れることがありません。202p

★「知テナ見ソ」とは、先入観でものを判断しがちな私たちをいましめる言葉です。知識を持つのは悪いことではありません。しかし、いったんイメージをふり捨てて、裸の目で世界を見ることが大事なのです。そして、きのうの世界ときょうの世界はちがうということ、きょうの目の前にある世界が、明日は決して同じでないことを覚悟する必要があるでしょう。205p

★寒い。辛い。怖い。禅に対してこんな偏った印象を抱くのは私だけかもしれない。「慧可断臂(えかだんぴ)」という話がある。慧可は達磨太子のあとを継いで、中国禅の第二祖とされる人だ。この僧が達磨に入門を乞うたときの故事にまつわる話である。弟子にしてほしいと何度たのんでも達磨の返事はNOだった。そこで慧可は、自分の左臂(ひじ)を刃物で切断して決意の固さを示し、ようやく入門を許されたという。このエピソードはすこぶる有名で、古くから画のテーマとしてしばしば取りあげられている。しかし、この話も、なんだかなあ、という感じがなくもない。233p

★エッセイという、どこか格調ある表現より、フェリエトンという、なんとなく間の抜けた言葉の響きに共感するのは、私自身が雑に生きている自覚と反省の故である。297p

★「フエリエトン」とは、「雑録」「雑文」というようなニュアンスの表現らしい。296p

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