2018年2月4日日曜日

「美輪明宏『ヨイトマケの唄』名曲誕生の秘密に迫る!」&日本画

 昨夜のNHK・BSプレミアム「美輪明宏『ヨイトマケの唄』名曲誕生の秘密に迫る!」を見る。これは本当に感動した。もう涙失くしては見られないほどの感動だった。番組欄には「歌に命が宿るとき『美輪明宏 ヨイトマケの唄 その愛と秘密』」とあり、さらに「美輪明宏の『ヨイトマケの唄』はいかにして生まれ、名曲になったのか?その謎をひもとく未公開テープが中村八大の遺品から見つかった。名曲誕生の知られざる秘話に迫る!」とある。

 番組の内容としては「美輪明宏の伝説の名曲『ヨイトマケの唄』。この歌が人々に愛されるまでには数々のドラマがあった。その謎をひもとく未公開テープが作曲家・中村八大の遺品に残されていた。そこには若き日の美輪の肉声が。美輪が自らの人生を投影し、底辺で精一杯生きる人々の姿に心を動かされ、書き上げたこの曲は数奇な運命をたどりながら時代を越えて歌い継がれていく。美輪本人や関係者の証言からこの歌が人々の心をとらえ続ける秘密に迫る」となっている。

 中村八大の息子である中村力丸。音楽関係に携わる仕事をしている。自宅を整理していて美輪のリサイタルの模様を録音した録音テープ2巻を見つける。生前、中村八大は美輪と親交があった。美輪(その当時は丸山)が誰が好きかとメディアで問われると「男性が好き」と返答する。これが同性愛者との批判を受けて人気があった芸能界から干される。紆余曲折の後、街中で出会った昔の同級生との出会いから「ヨイトマケの唄」が生まれる。

 その楽譜をもって八大宅を訪れる。中村八大は手帳に簡単な日記をつけていた。某日、美輪が八大宅を訪れた記憶は一致する。その時の模様を美輪のリサイタルのパンフに中村は記していた。此のリサイタルこそが美輪の作った曲に八大が編曲し、指揮した「ヨイトマケの唄」のリサイタルで録音したテープだった。

 八大の影響なのか「夢で逢いましょう」の番組に美輪は出演する。作曲した「ヨイトマケの唄」が世に出るまでの物語は民放にも影響する。民放の朝の番組でこの歌が披露される。しかし曲の中に「土方」の言葉があり、これが当時の放送禁止用語に当たり、またも美輪はメディアから干される。しかし、民放での放送時間内や放送後の美輪に対する影響力はすごいモノがあった。

 労働組織の音楽団体からの応援で美輪はこの歌を引っ提げて全国を歌い歩く。これが功を奏してこの歌は大ヒットする。

 ヒトにはそれぞれの人生がある。メディア上の美輪は華やかさだけが目につく。しかし、対談番組やエッセイを読むとそれとは真反対の人である。今の地位を得るまでには紆余曲折があった。みんなそうかもしれない。そう思ってテレビを見ていたから余計感動してしまったのだろう。

 それと同時に、自分が小さい頃の母を誰もが思って見ていたかもしれない。戦後すぐに生まれたものとしては小さい頃のことを想うとどの家も貧しかった。親たちも苦労があったに違いない。「ヨイトマケの唄」ほどではないにしても多かれ少なかれ裕福な家はなかった。小さい頃を思えば今は何でも手に入れることができ、何でもやろうと思えばやれる社会。

 話は変わって昨日の日本画教室。地塗りした木製パネルにトレースした絵を再度トレースする。カーボン紙の青を使用してトレースした。ところが全くと言っていいほどトレースができていない。再度、赤のカーボン紙をはせてトレースする。大丈夫だった。次は色を施す。すべての絵具を元の教室に置いたままにしている。ヒトのモノを借りて色付けするも、思うようにならない。あと1回だけこの教室で習う。それが終わると元の教室に戻る。色付けは元の教室に戻ってから再開する。この方がいいかもしれない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
 

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