『試行錯誤に漂う』(保坂和志 みすず書房、2016年)を読んだ。
★カザルスの演奏は彼に先行した弦楽器を鳴らした人たちの試行錯誤を一緒に鳴らす。優れた奏者というのは、自分に先行した楽器をいじった人たちの試行錯誤を鳴らす人のことで、”歴史”や”記録すること”が人間の営みの中心だと思っている人は、「カザルスの演奏家らは彼に先行した人たちの試行錯誤が一緒に響く。」と、歴史に名を残す人=特異点を主にした言い方をし、私もまたそのような言い方ばかりを子供のころから浴びて育ってきたために、ふだんはついついそういう言い方をしてしまうのだが、「先行した人たちの試行錯誤の厚みの中からカザルスの演奏が響く。」あるいは、「先行した人たちの試行錯誤の厚みがカザルスの演奏を響かせる。」という言い方が、きっと本当のところだ。13p
★作家に限定せず人は書くという行為によって社会とつながる。人々とつながるのではなく社会とつながる。人々とつながりたいのなら声だけでじゅうぶんだ。言い方を換えれば、書くという行為に習熟すればするほど人は社会化される。ということは、どれだけ自堕落なことを書いたり、反社会的なことを書いても、書くという行為をするかぎりにおいて社会の側に立つことになる。「言葉(文学)とはこんなにも自由だ」とか「言葉(文学)はこんなにも危険だ」とかいう言い方はよく聞くが、書くという行為においてなされるかぎり本当の危険も自由もない。――いや、この言い方は大上段に構え過ぎだ。人は書くという行為によって社会とつながる。人々とつながるのでなく、社会とつながる。…それはいま、ブログによってとてもよくわかる。ブロガーはみんな最初に自分の関心領域を明らかにして、ブログの文章それ自体でなくブログが属する関心領域で読者を得ようとする(私はそのことを批判していない)。104p
★私は平坦で中立的な文章が好きでない、バイアスがかかって癖があって多少、あるいはかなり、読みにくい文章が好きだ、一つに私は気が散りやすく油断しやすい、私は車の運転をしないが運転をしてい…210p
読み進めて、どこまでが一文?と疑問を持つ。もしかして「、」ばかりの文章で「。」はないのか、と読むのをやめて書き方ばかりが気になりだす。それについては3番目に挙げたように筆者ご本人が「読みにくい文章が好きだ」と書いていることでもわかる。確かに読みにくい。どうやったらこれほどの長い文章が書けるのか、それも気になる。
「一文は短く書け」が基本と思う。だが、プロの人はそうでもないのだろうか。ともあれ何とか本を一冊読み終える。「人々とつながるのではなく社会とつながる。」と筆者は傍線を示す(本文では傍点で示している)。ブログで社会とつながる、ならばそれはそれでよいこと。あまり深く考えずブログを開始してもうすぐ丸8年になる。ブロガーといわれるほどのブログではない。だが一応ブログをアップしている。筆者は「ブロガーはみんな最初に自分の関心領域を明らかにして、ブログの文章それ自体でなくブログが属する関心領域で読者を得ようとする」というが、我ブログは、ただ暇つぶしをかねて自分の関心領域をほぼ毎日アップしているに過ぎない。とはいってもブログを見た!と言ってもらうとなぜか嬉しい!
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