『ポーランドに殉じた禅僧 梅田良忠』(梅原季哉 平凡社、2014年)を読んだ。先日『梁啓超』の本を探す際、隣にあったのがこの本。日本の禅僧が何故ポーランドで殉じたのかを興味を持って読む。本の裏表紙には次のように書いてある。「彼は、禅の修行を積んだ仏僧だった。しかし、海を渡り、ポーランド語をはじめとする外国語の達人となった。歴史・考古学者として学籍を残した。ヴァイオリン弾きで、詩をもものとした。外交官として大物と渡り合ったかと思えば、新聞社に頼まれ、異国の戦地だったブルガリアの首都ソフィアから特派員としてレポートを送った。女性たちをひきつける素顔も持っていた。人を愛し、人に愛された。美しきものを愛でた半面、人道にもとるような悪、特に戦争を憎んだ。日本人として生まれたが、ポーランド人として死ぬことを願い、その願いに殉じた。ただ、謎が残っている。それは彼が『スパイ』だったかどうか。これは、梅田良忠という、日本と欧州を生き抜いた男の実話である」。
第一次大戦が終わったころに祖国を再建するため世界各地のポーランド人は国に帰って来た。同時代に梅田はそれを目の当たりにする。それは「この駅(国境駅ズボンシン)で列車を換えるのであるが、帰国の群れのうちには、ポーランドの地にひざまずいて――あたかもサン=ペテロ大聖堂の内で今日もみうけるように――大地をいだき、これに接吻するものすらいたのである」。37p
梅田は欧州へ行く際、欧州航路に乗船する。その時知り合ったミホウスキのようにシベリア・ロシア極東に住んでいたポーランド人の孤児がいた。このような「シベリア孤児」たちを救援してほしいと要請を受けた日本赤十字社は7百人以上の孤児を救出した。その孤児たちを日本に連れ帰り面倒を見た後ポーランドに送り返す。この温かい行為がポーランドで知られるようになり、孤児たちは「極東青年会」を作って日本とポーランドの交流の機運が盛り上がった。こうした経緯のあったポーランドへ梅田はその時期に飛び込んだ。46p
元はヴァイオリンの腕を磨くためにドイツへの留学が目的だった梅田。それがポーランドへと国も目的も変わる。第二次大戦後の梅田はポーランドではじめて日本語を教えた日本人となる。苦学の末、ワルシャワ大学を卒業した梅田はポーランドの人たちの支援を得てポーランド外務省の管轄の教育機関に勤め日本語を教える。55p
第二次世界大戦でポーランドは自らの意図に反して独ソ不可侵条約でヒトラーのナチス・ドイツととスターリンのソ連に分割される。1939年ワルシャワを離れる時点で梅田はポーランドにとどまる決意をするが、ルーマニアへ脱出する。68p
戦後、日本に帰国した梅田は紆余曲折の末、関西の大学で教授として勤めている。しかし、ワルシャワを離れる時点で交際していた女性との間に娘が生まれていた事実を知る。ドイツ系ポーランド人の母親は亡くなっていたが成人した娘が日本を訪れ、闘病中の梅田と対面。しかし、日本に帰国後、梅田は縁ある人と結婚した。禅僧として修業を積み、欧州に渡ってからもずっと「異教徒」としてキリスト教世界に接していた。その梅田も死の床にあって洗礼を願う。それにはポーランドへの思いが残っていたようだと筆者はいう。234p
「洗礼名はスタニスワフ。自分との交友を罪に問われて『スパイ』として処刑され、この世を去っていた親友、ミホフスキと同じ名だった」。235p
この本を読む前から日本とポーランドは友好的と聞いたことがある。これには梅田のたどった人生が少しは影響を及ぼしているのかもしれない。
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