『ラオスにいったい何があるというんですか?紀行文集』(村上春樹 文藝春秋、2015年)の「大いなるメコン川の畔でルアンプラバン(ラオス)」を読んだ。筆者である村上が日本からラオスのルアンプラバンへ行く途中、直行便のないハノイのトランジットでヴェトナム人から「どうしてまたラオスなんかに行くんですか?」と質問されたことから文が始まる。
村上は「その何かを探すために、これからラオスまで行こうとしているわけなのだから。それがそもそも、旅行というものではないか。」という。それは読者も同じようなものではないかと推察するという。
辺境の地へ旅する度、こう聞かれることはよくある。行き先が何もかもわかっているよりも村上が書いているように何かがわからないから行く。
これに似たような話がある。先日のモロッコの旅。早朝のサハラ砂漠の日の出を見るために四輪駆動車に乗って砂漠まで行く。車から乗り換えてラクダや徒歩で砂漠の目的地に出かけて日の出を待ちわびる。ところが旅の参加者の一人は体がしんどかったのか、前日、「日の出はどこで見ても同じでしょ?」とのこと。これを聞いて「サハラの日の出を見るのが今回の旅のハイライト!」と言って行くように勧める。
このようにモノゴトを冷めた感覚で語るともう話にならない。そして、夢も何もなくなってしまう。じゃ、旅に来なければ…と思ってしまう。
ラオスは3年前に出かけているので記憶に新しい。どこの国よりも料理が抜群に美味しかった。仏教国。早朝の托鉢姿のお坊さんたち。村上は緋色の袈裟に合わせて雨傘も黒ではなく、緋色の傘を誰かが作ってあげれば、という。
ラオスのルアンプラバンでの体験が綴られている。その最後に筆者は先のヴェトナム人の質問に明確な答えを持たない。しかしいくつかの記憶の光景があるという。それは「その風景には、匂いがあり、音があり、肌触りがある。そこには特別な光があり、特別な風が吹いている。何かを口にする誰かの声が耳に残っている。そのときの心の震えが思い出せる。それがただの写真とは違うところだ。それらの風景はそこにしかなかったものとして、僕の中に立体として今も残っているし、これから先もけっこう鮮やかに残り続けるだろう。…結局のところたいした役には立たないまま、ただの思い出として終わってしまうのかもしれない。しかしそもそも、それが旅というものではないか。それが人生というものではないか。」と。(173p)
このほかにも村上が訪ねた国が記されている。追って読むことにしよう。
今日は母の月命日。暑くなるので今からお墓参り。午後は日本画教室へ。そういえば今朝の地元紙に県美展の入賞者発表がある。所属する日本画の会から数人が入選されている。そのうちの2人はご夫妻で習われている方たちで共に奨励賞を受賞、すばらしい!今日も元気で!
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