2011年6月2日木曜日

何歳で?

昨日107歳の母親を介護している知人とTELで話した。話の中で知人の不注意で起きた数年前の親の骨折が悔やまれるという。親の骨折に関しては知人同様、アサちゃんにも当てはまる。7年前の早朝トイレに行くときどうしても眠たくて付き添わず1人で行かせたことから骨折させてしまった。それが結果的に…。

人はよく親が亡くなったと話すと「何歳で?」と聞く。「〇〇歳」と答えるとその年齢ならば仕方ないというニュアンスで話をする。昨夜もそういう経験をした。その当人もいつ寝込んでもいいような状態なのによく言えるものだと感心する。

そのときいつも思うことは人が何歳で亡くなろうと「年だから…」という言われ方は納得できない。

げんに先の知人のように今年108歳になろうとしている母親の骨折が原因で元の元気さをなくしたことを悔やんでいるからでだある。知人の後悔は100歳の人の元気な姿をTVで見たことにあった。その母親は市内の某区の最高齢である。その母親を抱えている知人でさえ骨折させたことを悔やみきれないのに、ましてや何歳で亡くなろうと悔やみきれないのは当然である。それともある年齢以上になると亡くなることはあたりまえであるというのだろうか。

年齢的なことに関しては病院の医者でさえも同じコトをいう。「年ですからね…」と。アサちゃんの入院中何度この言葉を聴いたことだろう。年を重ねると手の施しようがないというのだろうか。それとももう亡くなってもいいと思うのだろうか。

その経験から、人に対して「年齢」でモノゴトを片付けることだけはやめようと思った。

ではどういえばいいのか。我が身を照らしてみると「最期までよく看てあげたね」「寂しくなったね」「がんばろうね」などが嬉しい言葉だと思う。

その意味でも決して「年齢がね~?」とか「寿命よね~?」などとは言わないようにしたい。

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