読売新聞中国取材団著による『メガチャイナ 翻弄される世界、内なる矛盾』(中央公論新社、2011年)を読んだ。
何やかやいっても図書館で新刊の棚から本を探すときどうしても目に付くのは「中国」の二文字だ。その「中国」に対して最近頓に嫌気を覚える。中国語を習い始めた頃の「中国」に対するイメージを忘れるかのように…。
その心情は我のみにあらず日本人全体にあるのではないか。そう思ってこの本を読んだ。
この本は「はじめに」と「おわりに」を読めば中身を読まなくてもいいほど端的に「中国異質論」が描かれている。
「はじめに」では1804年のアヘン戦争以来1世紀に渡って列強支配に苦しめられた歴史を持つ中国の「民族的トラウマ」を精神的バネとし、それに経済力、軍事力を物質的なバネとして「中国民族の偉大な復興」を目指している。それは中国の13億強の民が欲望を満たすために大量生産と大量消費の循環に身をおき、民族の自尊心とナショナリズムを燃え上がらせる。その中国の一挙手一投足はあらゆる面で国際社会に影響を及ぼし「メガチャイナ」となって出現する。
ところがそのように巨大となった中国が国際社会に対して、国力に見合った責任を負い、協調的で理性的なパートナーである「責任大国」ならば問題はない。残念ながら2000年代以降の中国の動向は、内政対外関係における振る舞いが国際社会の信頼を得ていない。むしろ、内政における民主改革や人権改善の遅れ、対外関係においては不透明な軍事増強、高圧的外交などの「中国脅威論」「中国異質論」をあおっている。
2010年の事件を見てもノーベル平和賞問題、米グーグルの中国撤退を招いたインターネットの検閲、尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件で見せた対日威圧事外交、レアアースの輸出規制、核開発を続ける北朝鮮への融和姿勢などの「中国異質論」がある。
中国のこうした異論は封殺され国策には決して反映されない。そこには中国の人々の民意はなく独善性にとんだ政治が異質論を拡大再生産させる。
このような中国の虚像に振り回されあやふやなイメージや好き嫌いの感情で中国を眺めるのを避ける。それには我々が歴史的な勃興の道を歩みつつある中国の等身大の実情を知り、その強さともろさを観察していかに付き合うかを真剣に考えることが求められている。
その結果を「おわりに」では読者へのメッセージとして2つあげている。その1つは中国を見る場合の多面性と複雑性である。中国のどこに座標軸をおいてみるかによって目に写る中国像は変わってくる。2つ目は「中国について考える」ことは「日本、ひいてはアジア、世界について考える」ことにつながる。それには「親中」「反中」「嫌中」といった短絡的なアプローチではなくグローバルな視野から中国を捉えることが中国に関心を寄せる人々に求められると述べている。
確かにそれが一番と思う。けれども人の心の中、なかなか難しい面もある。それも乗り越え互いを理解することからモノコトははじまるのだろう。それにしても中国を理解しようとすればするほどわからない国と思えてくるのはなぜなのだろう…。
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