2011年6月17日金曜日

『知的余生の方法』

渡部昇一の『知的余生の方法』(新潮社、2010年)を読んだ。

今春生活リズムが大幅に変わった。余った時間、本を読もうと思って図書館の新刊蔵書検索中に、目に付いたのが本書である。

著者の渡部氏は相当前に似たような『知的生活の方法』という本を著している。そのときは買って読んだ。渡部は定年後も20年以上あると思える「余生」をどう生きるかが問題だとしている(8P)。

その問題も「楽しむ境地の人は、定年退職しようがずっと楽しみ続けていける。だから問題はない」としながらも、「大多数の、好きでやっているだけの人は、定年になった途端に、何もやる気が起きなくなってしまいやすい」(44P)という。

それには「定年退職をチャンスだと考え、その抑えてきたものを復活させてやればいい。やりたいことを、思う存分やればいい。楽しくて仕方がないことならば、犯罪行為でなけれ何でもかまわない。楽しければ、知的な興味もどんどん沸いてくる。それこそが『知的余生』なのである」(45P)と述べる。

リストラ組みなので定年退職は我が人生に当てはまらない。だが、リストラ当時は相当ショックだった。けれども、それをチャンスと捉えてさらに働くことは断念し、すぐに大学に入り直した。

その意味では渡部氏のいう「知的余生」とは違う少し早い「余生」である。

氏は定年退職後のボランティアについて「壮年の時代に社会人および家庭人としての義務を果たした老人にふさわしい活動だと思う」(50P)という。そのボランティアについて「いつでもやめることができることである。自由がある。親の面倒や子供の面倒は義務である。義務より自由がよい。義務から逃れるというやましさをなくしてくれるのがボランティア活動である」(49P)といいきる。

そして親をみることについて”Charity begins at home”を引用して「人がもしその親族、特に自分の家族を顧みることをしないならば、その人は信仰を棄てたものであって、不信者よりもっと悪いのである」(47P)といっている。それは「完全義務」であると。

それに対して哲学者カントの言葉を借りて「やらなくても非難されたり処罰されたりしないが、やればほめられるような行為」をボランティアと考え「不完全義務」とした(50P)。

それを全うした人がするのにふさわしいのがボランティア活動だという。

氏がいうように親を最期まで介護したモノでもボランティア活動は簡単な活動ではない。それよりも今はまだまだ遣り残したことのほうが多い。定年後に何もやる気が起きないどころか、である。

渡部氏は長生きについて「恥など多くてもかまわないから、九五歳以上は生きたいと思っている」(55P)と希望している。

95歳まで知的生活を送るためには何といっても「フィジカル・ベーシス」(肉体的基盤)が必要だという(56P)。それには白川静の「脳健康法」というやり方を参考にすると、年齢に関係なく学び続けることができるらしい。それには「毎日規則正しく」ということがその健康法としてあげられるという(58P)。

95歳まで生きたアサちゃんを例にとってもそれは当てはまる。本当に規則正しい生活だった。

さらに「神様や仏様といった宗教的なことに興味をもつと、人は飽きることなくやり続けることができる」、「これにより知的生活を形成していく」という(60P)。

これについては今のところ・・・という感じ。あまり信心深くない。もう少し年齢を重ねればそういう心境になるのかもしれない。

長寿の心得として岸信介の「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」をすすめる(81P)。岸が提唱したとはこれまで知らなかったが、我が家でも大きく書いて貼っていた。年をとっての骨折は転んだことが原因となる。アサちゃんもそうであった。

時間についてはカレルの『人間-この未知なるもの』から引用している。カレルによると時間には物理的な時間と「内なる時間」があるという。「内なる時間」は「年とともに時間の質が変わってくる。そしてシニアはこの質の変化にとまどう。あまりの速さについて行けず、結局は無為に時間を過ごしてしまうことにもなりかねない」と「内なる時間」の捉え方を問題にする(103~105P)。

他にも「読書」、「友」をあげている。年を取ってからの「ダメな友」として第一にベースになる思想・信条が違う人。第二に支払い能力の違う人。第三に教養の差が大きい人をあげている(182~184P)。

最後に「余生に見る夢」として「若さは必要条件ではない」とする(218P)。当然といえば当然だ。これからもじっとせず夢を追い続けて動き回ろう!

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