2024年1月27日土曜日

『花妖譚』

 『花妖譚』(司馬遼太郎 文藝春秋、2009年第1刷)を読んだ。この本は司馬遼太郎の本名である福田定一名で発行されている。雑誌「未生」に掲載されたもので花にまつわる話題が10編収めてある。「森の美少年」「チューリップの城主」「黒色の牡丹」「烏江(うこう)の月」(謡曲「項羽」より)「匂い沼」「睡蓮」「菊の典侍」「白椿」「サフラン」「蒙古桜」の10編である。このなかでタイトルの「サフラン」はこの小説のどこを読んでもそのキーワードが見当たらない。3度読んだがわからなかった。たぶん、サフランの赤を亡くなった2人の赤い血で表しているのかもしれない。

 今朝の地元紙の週刊誌記事見出しにエアープランツがある。これは植物の育て方かと思ったら植物の名前のようだ。土も肥料も要らず、ただ水さえ与えれば育つとか。

 以下はいつもの如く気になる箇所を記した。

★その松齢。八十五歳のとき、彼の庭で一茎の牡丹が黒色の花を開いた。牡丹は当時の通念として紅もしくは白色の花であり、培養種には黄またはその系統の色はあったが、黒というのは。かつて聞きおよばない。ついでながら、牡丹は、中国本土の固有花である。大唐の永昌期には最も流行をきわめたが、漢民族がこの花を賞ではじめたのはさらに有史前後に遡り、培養しはじめてからも、すでに数千年を経る。美称した代表的な詩語としては、例の欧陽脩の「天下真花独牡丹而巳」(てんかしんかひとりぼたんのみ)があり、周茂叔は、この花の性格を一言に評して「富貴」とよんだ。人生の栄華と天下の太平を最も豊かに象徴するものとして、シナ代々の風流人は、ボタンを限りなく愛したのである。(『黒色の牡丹』30-31p )

★このとき以来、中国では芥子の名を虞美人草と称(よ)んだ。その色は虞美人の血を吸っていよいよ朱く、烏江(うこう)の岸辺には、暮春ともなれば地を蔽って、今なお繚乱と血色の花をひらいている。(『烏江の月』56p)

★子青はあとで、寝台の上に、一ひらの皓(しろ)い花弁を見出した。沈丁花の花であった。……子青は、その翌夜、つまり明日は科挙の試験が始まろうという夜に、沼へ身を投じて、不思議にも死体さえ浮かばなかった。宋以来、中国の書生の間で、沈丁花を忌花(いみばな)として固く避ける風習が生まれた。(『匂い沼』71p)

★黒砂の漠々とした不二の山肌から降りてきた小角にとって、この一茎の睡蓮の花は、妖しいばかりの美しさをもって彼の網膜を染めた。やがて初秋の天を蔽っていた銀色の鰯雲に茜の色がさしはじめ、それがしだいに黯(くろ)ずみを増して、陽は西のかたに落ちてゆく。暮れなずむ秋の光のなかで、小角は沼の水際にしゃがんだまままるで痴呆のように花と遊んでいたのである。水面に夜の靄がたちはじめて、やっと小角はわれにかえり、ぼう然と闇の中に立った。……美しいものへ放心できるこころ、これこそ世尊の説く正覚(しょうがく)というものではあるまいか。かれは、豁然として悟った――。この心を、常住坐臥(じょうじゅうざが)、一分の迷いも瞬時のみだれもなく持続しうるものこそ、仏というものであろう。小角、いや優婆塞役ノ行者(うばそくえんのぎょうじゃ)はここで仏となった。……大峰をとりまく山なみは花びらのごとく重なり、結跏するこの岩こそ、その蕊(しべ)のごとくであろう。あの不二の麓でみた睡蓮、この岩に結跏すれば、あたかも巨大な蓮台に座るような心地がする。浄土とはおそらくこういうところであろうし、仏たるものまたは仏たらんと思うものの座るべき場所は、地上ただ一カ所、ここをのぞいてはもとめえまい。(『睡蓮』82-84p)

★山茶、わけても白椿が好きである。つばきは、正しくは椿といわない。椿はセンダン科のチャンチンの漢字であり、山茶というのが正しい。(『白椿』101p)

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

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