昨年6月、中村岳志の講演会に出かけた。講演会は以下に記した本のタイトルと同じだったと思う。図書館ですぐにこの本を予約。先日やっと順番が回ってきた。講演内容は本に書いてあることと同じだと本を読みながら改めてそう思った。中島氏が講演で一番初めに取り上げられたのがボランティア。ボランティアは「人の為」にとよくいわれる。しかし、この「人の為」は「偽」になる。「偽」を電子辞書の『新漢語林』で調べると【⑥「人為」自然のままなのに対して、人が意志や手をくわえること。用例[荀子、性悪]人之性悪(ひとのセイはアクなり)、其善者偽也(そのゼンなるものはギなり)。⇒人間の本性は悪である。それが善であるというのは人為の結果である。】とある。
以下は『思いがけず利他』(中島岳志 ミシマ社、2021年初版)から気になる箇所を記そう。
★京都の東本願寺を本山とする浄土真宗大谷派は、このとき、テーマとして次のような言葉を掲げました。――「今、いのちがあなたを生きている」私は、特に大谷派の檀家ではありません。組織に属している人間ではありません。しかし、この言葉は親鸞の世界観を表す素晴らしい言葉だと思っています。生きていることを、主格でとらえています。しかし、この言葉は「いのち」の与格性を表現しています。……自力の限りを尽くした末、それでもなおどうにもならない場面に出会ったとき、私たちは決定的な無力を知ります。この「無力の場所」に立ち尽くしたとき、聞こえてくるのが仏の救済です。他力は常にやって来るもの。仏の声は「聞くもの」ではなく「聞こえてくるもの」与格的な存在です。……親鸞はボランティア的な活動に対して、そのように先行的に意義を考えようとする態度自体を否定していうことである。親鸞の場合、ボランティア的活動のみならず、他のすべての活動について、事前に異議を設定したい実践者の衝動を拒絶する。[木越2016:Ⅴ](91-95p)
★不二一元論(ふにいちげんろん)を説いたインドの宗教思想家・シャンカラは人間には利他を行うことなどできないと言います。利他は、人間の意図的行為ではない。人間の中を神が通過するときに現われるものである。そう説きました。利他的になるためには、器のような存在になり、与格的主体を取り戻すことが必要であると私は思います。数学者や職人のような「達人」は、与格的な境地に達した人たちであり、そこに現れた自力への懐疑こそ、利他の世界を開く第一歩ではないかと思います。(98p)
★「贈与」や「利他」の中には、支配という「毒」が含まれていることがあり、これが「利他」と「利己」のメビウスの輪となっています。自分の思いどおりに相手をコントロールしようとする「ギフト」は、「利他」の仮面をかぶった「利己」ですね。(112p)
★――利他は死者たちからやって来る。私たちはそのことに気づき、その受け手となることで、利他を起動させることができます。つまり、死者を「弔う」ことこそが、世界を利他で包むことになるのです。私たちは、死者と出会い直さなければなりません。そして、その存在や行為、言葉の上に私たちが暮らしていることを自覚しなければなりません。死者と対話し、自己の被贈与性に思いを巡らせるとき、そこに「弔い」が生じ、「利他」が起動します。私たちは死者たちの発信を受け取り、まだ見ぬ未来の他者に向けて、発信しなければなりません。歴史の静かな継承者になることこそが、利他に関与することではないかと私は考えています。(133-134p)
★人は不意に大切なものや人と出会うと、驚きます。何気なく手に取った一冊の本が人生を切りひらいてくれたり、たまたま美術館で目にした一枚の絵が、自分の心を開放してくれたりすることってありますよね。そのとき、私たちは「はっ」となり、驚きの表情を浮かべます。そして、不思議な力に導かれているという感覚を持ちます。――偶然性という「脅威」は、「形而上的情情緒」である[九鬼2012:235]。九鬼はそう言います。これは重要なポイントです。……すべては、私が意志を持って選択したものではありません、偶然という脅威によって成立しています。あらゆる存在は、与えられたもの、被贈与的なものです。そして、この被贈与性を「私」として受け止めたとき、「偶然」は「運命」へと姿を変えます。私は私という摩訶不思議な運命を生きていこうとします。……私は、私をめぐる「偶然」を、意志を持って引き受けることで、私を生きることができます。私を生きることは、私という偶然的な被贈与性を受け入れ、運命を能動化する作業です。――受動こそが能動。そんな反転した構造が、生きるということの根底にはあるようです。(151-160p)
★有限なる人間には、どうすることもできない次元が存在する。そのことを深く認識したとき、「他力」が働くのです。そして、その瞬間、私たちは大切なものと邂逅し、「あっ!」と驚きます。これが偶然の瞬間です。重要なのは、私たちが偶然を呼び込む器になることです。偶然そのものをコントロールすることはできません。しかし、偶然が宿る器になることは可能です。そして、この器にやって来るものが「利他」です。器に盛られた不定形の「利他」は、いずれ誰かの手に取られます。その受け手の潜在的な力が引き出されたとき、「利他」は姿を現し、起動しはじめます。このような世界観に生きることが、私は「利他」なのだと思います。だから、利他的であろうとして、特別なことを行う必要はありません。毎日を精一杯生きることです。私に与えられた時間を丁寧に生き、自分が自分の場所で為すべきことをなす。能力の過信を諫め、自己を超えた力に謙虚になる。その静かな繰り返しが、自分という器を形成し、利他の種を呼び込むことになるのです。(176-177p)
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
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