2023年11月30日木曜日

YOU TUBEほか

 スマホのアプリ一覧のなかにYOU TUBEがある。暇つぶしに見ていると田原総一朗 の動画がある。芸人でなく著名人の動画を見ることはほぼない。何と30年間続いている朝食のルーティンだ。朝食を作るのは田原総一朗御年89歳自らだ。20数分の動画だがほとんどしゃべらずにやっている。キッチンでの撮影だが食卓テーブルは本と書類の山となっている。その山も一山ふた山でなく10も20もの山に本が高く積まれている。その一角に作った朝食をお盆に入れて食べている。が、トーストを食べるにも焼いたときバターを塗ればいいのに食べる直前にバターをつけるので冷えてしまって塗るというよりもバターを置く感じになる。いちご2つがお皿に並ぶがこれも食べる直前に練乳がないと気づいて冷蔵庫に取りに行く。飲みものは幾種類も飲んでいる。食パンを食べおえるとそれで終わりでなく、次は袋に入ったあんパンを食べる。卵は水を入れたフライパンに卵を割って入れて火にかける。殻のないゆで卵のようでそれが大きなお皿に一個乗る。

 見ていて栄養に気を配っているのはいいのだが、キッチンからお盆などに入れて本の山になっている一角に置く。が、その場所が狭くて、しまいには本の上に置いている。もしも何かの拍子で本などがひっくり返ったならば大変だ。食事後はすぐに洗って元の場所へ置いている。誰に教わったのか知らないが30年間も同じルーティンで朝食を作って食べる。ましてや89歳。これを見てまだまだ元気でいないといけない、と励まされる。

 田原総一朗その人については何の感慨も抱いていない。が、自分のことは自分でするという生き方は素晴らしい。

 昨日は月命日に大幅に遅れてお墓参りをする。毎月参っているので参らずにいると何か両親に早く参れと急かされる気がする。参った後は気分も晴れる。家に戻ってすぐに自転車に乗ってスーパーへ行く。途中、帽子が吹き飛んだ。そばに背が90度くらいに曲がったおばあさんが歩いている。シルバー人材センターは何処か?と聞かれた。その時、聞かれたのは我が町ではなく隣町のシルバーの名だ。隣町ではなく我が町のシルバーを教えてあげる。すぐ近くにあるのだが旧山陽道沿いにあるのでヨボヨボのおばあさんが歩くのは車が危ない。気をつけて、と教えてあげたが、あとで気になる。それはこのおばあさんがシルバーに登録するのかそれともシルバーを利用するのか、である。いずれにしても大変、と妙に気の毒になった。

 田原総一朗のように元気な89歳もいる。昨日のおばあさんはまだ到底その歳までには至ってないはず。しかし、背中は90度に曲がりヨボヨボだ。ヨボヨボと言ってもこのおばあさんも自分の足で歩いて自分のことを人に頼らずにやっている。これは素晴らしい!二人を見習う!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 追記)善通寺のお坊さんの話で一つ忘れていた。それは三門などの出入り口での右足と左足の出し方である。入る時は右足から入り、出るときは左足から出る、といいそうだ。

2023年11月29日水曜日

2023年最後のツアーその2

 2023年11月26日(日)から27日(月)までの2日間、バスツアーに参加した。ツアー参加者は29名で今回は添乗員のほかにバスガイドが付く。8時40分、広島駅新幹線口2階のペデストリアンデッキに集合し、8時50分、バスは出発。瀬戸内しまなみ海道を通って四国へ行く。

1日目 2023年11月26日(日)

 途中、来島海峡SAでお昼を兼ねた買い物などの休憩がある。この日はJB本四高速がイベント「せとうち魅力発見」を開催しており、マルシェもあった。

 今年はこのSA に何度か立ち寄っている。1か月前にも行った。ここでの昼食も要領を得て、前回とは違う鯛だし入りのうどんをいただく。

 バスは新居浜市にある愛媛県総合科学博物館に向かう。日程表を見ると「世界最大級のドームスクリーンで星空を楽しみ」、とある。あまり期待せずに館内に入る。科学博物館、と名がついているがここは大人向けというよりも子供向けのように思えた。とはいってもドームスクリーンは迫力満点で恐竜の出現に興味をもって眺めた。また、当日の月は満月よりも1日まえであり夜空の星座もプラネタリウムで楽しめた。宿で見た実物の月も満月に近かった。
ドーム型の館内
 プラネタリウムを見た後は館内を見て歩く。4階の自然館に入ると自らが試せるコーナーがある。子供がやっているのを見てまねして試す。例えばランプのボタンを押してランプがつくとジャンプする。その秒数で年齢を予想する。子供のやるのを見て面白そうなので試してみた。運動神経は鈍くても結構早く反応できた。ほかにもいろいろと試した。子供が楽しむところ、と思ったが大人も結構楽しめる。愛媛のゾーンでは西日本最高峰の石鎚山と愛媛県に関する動植物の生態を映像で紹介していた。館内ではこの箇所が一番気に入る。

 2時間ばかり遊んだ後、バスに乗って石鎚神社に向かう。石鎚神社はお社が4社ある。一番上の山頂には頂上社、7合目の中腹にある成就社と土小屋遥拝殿、そして国道沿いから近くに位置する本社の4社である。9年前にツアーで石鎚神社に来ている。が、今回とはどう思いだしても違う。石鎚神社が4社あり、以前出かけたのは成就社であり、今回は一番初めにある本社だった。この日は日和もよかったのかお宮参りの家族でにぎわっていた。石鎚神社の本社までは何段もの石段を登る。上り始めに竹で作られた杖が置いてある。どの人も杖を持って石段を登る。まねしてもって上ったが途中で邪魔になる。紅葉はまだ残っていた。
 
 
石鎚神社三門
石鎚神社口の宮本社
 石鎚山参拝後、バスでひうちなだ温泉国民休暇村瀬戸内東予に向かう。ここへはツアーでお昼のランチを2度いただいたことがある。今回の夕食はお膳でなく、ビュッフェ。ビュッフェでも席は決まっており、海の幸をいただく。と同時に生ビールも。ホテルの料理も部屋もいいのだがただ和室でベッドはない。これは少々いただけない。

 太陽が沈まないうちは大浴場もさぞかし眺めが素晴らしいはずに違いない。生憎、日は沈み満月より1日前のお月さんだけが顔をだす。露天風呂にも入ったが外は真っ暗。明るければ瀬戸内の海が見渡せる!?この日の万歩計は9398歩。

2日目 2023年11月27日(日)

 行楽日和とはいいがたい朝を迎える。8時半、宿を出発してバスは産直市があるという周ちゃん広場に向かう。旅先でお土産を買うほうではない。が、柿の実が5キロ、10キロ入りの袋で売られている。価格を見ると500円という風にとても安い。柿は渋柿でなく丸い柿。(誰が買う?)と一瞬、思ったが、車で来る人も多いので柿を求めてやってくる人もいるのだろう。ツアーの人も1泊2日なのにスーツケースの人が多い。これにはびっくりだが、お土産目当てのツアー参加者がいるのかもしれない。1,2泊の旅はリュックで出かけるのでなるべく買わないようにしている。しばらくバスが進むと豊浜SAでまたもお買物休憩だ。

 総本山善通寺についた。今回の旅はバスガイドが付く。旅慣れたガイドも入り口に戸惑っていると三門でお坊さんが出迎えてくれていた。三門前でお坊さんの案内がある。善通寺は以前来たような気もするが覚えていない。1時間半ほどお坊さんの案内で行動する。このお寺は空海弘法大師が生まれたところとか。また善通寺の善通は空海の父である佐伯善通からのようだ。
善通寺三門

 三門を入ると右手に五重塔がそびえている。善通寺は弘法大師三大霊跡の一つ(残る二つは京都の東寺、和歌山の高野山)で篤い信仰をあつめているとか。今の五重塔は4代目であり1902年(明治35年)に完成した。この五重塔の心柱は懸垂工法で地面から浮いているという。しかしこの心柱の浮き具合が年々、縮まっているそうだ。そのため「40数年後には……」「その時また見に来てください」とお坊さんは話される。と聞いてもツアー客の中にさて誰が40年後に見に来られる!?このお話を聞いて笑いに包まれる。


五重塔

善通寺
 境内をお坊さんについて歩くと樹齢1300年ともいわれる大楠が2本ある。巨木は神様が宿る木らしく、この木の下でヨガなどをするとどんな名人でもうまくできないらしい。大木の「気」が勝るようだ。

 お坊さんから鳥居についても聴いた。鳥居の横に伸びた2本のうち下の方が短いのは神道で、上下が同じ長さの鳥居は神仏習合の鳥居とか。善通寺の鳥居は神仏習合のものである。
樹齢1300年とも言われる大楠

鳥居
樹齢1300年とも言われる大楠
 ほかにも面白い話を聞いた。左右にある仁王像である。善通寺の左の仁王さんは筋肉たくましいがなぜか丹田あたりのお腹が膨らんでいる。これは作者がよく学んだ人らしく丹田呼吸をしているとお腹がふっくらになるという。
お腹が膨らんでいる仁王さん

遍照金剛閣
 お坊さんのお話は御影堂に入っても続く。この奥にはたとえ事務方が30年勤務してもいっさい入ることはできないそうだ。が、お坊さんは毎朝のお勤めで入ることができるとか。この入られない場所を戒壇巡りとして造られたお堂がある。真っ暗なこの場所に入って自己を見つめるとか。とはいっても真っ暗な中をただ通り過ぎるだけで自己を見つめるどころではない。その後は善通寺の宝物殿を見学する。この中に家康書状と秀吉書状がある。これは実物らしくお坊さんによるとボンボン育ちの家康は漢字遣いが多く、学のない秀吉はひらがなが多いと言われる。確かに書状を読むとそうだった。

 善通寺を後にしてバスは中津万象園に向かう。お昼は万象園内にある味処懐風亭でいただく。食事後は各自万象園を散策。もらったチケット裏に書いてある地図を頼りに園内をめぐる。よく行き届いた園内を歩きだすとまだ紅葉も見られた。
園内の紅葉
 半分くらい歩いたところで石投げ地蔵尊があった。100円をお賽銭箱に入れて石を1つ手にして地蔵に向かって投げる。勢いよすぎて跳ね返って落ちた。願いは「元気で!」と記したが落ちてしまって残念!
石投げ地蔵尊看板

地蔵さんに向かって石を投げる


稲荷社
 園内は伏見稲荷を模したかのような朱の鳥居がある。散策後、園内に隣接する丸亀美術館に向かう。ヨーロッパの絵画の展示があった。丸亀といえば団扇も有名。そのミュージアムもあった。この日の万歩計は9548歩。2日間よく歩いた。楽しい旅は終わった。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年11月28日火曜日

2023年最後のツアーその1

 今年、旅行社に申し込んだツアーは昨日とおととい出かけた1泊2日の旅が最後になった。コロナ禍になって以降、大手旅行社は広島から撤退した。そのため、利用するツアー会社は市内のバス会社が運営する2社のみ。その2社のうち、1社はほとんど利用しないので同じバス会社のツアー参加になる。以前は添乗員は同じでも参加者が同じ人はまずいなかった。ところが、同じ会社を利用すると見慣れた人も出てくる。

 今年のツアーでは四国方面の旅が多かった。バスツアーなので四国への旅は瀬戸大橋をわたる。車を運転しないので瀬戸内しまなみ海道を渡っても来島海峡SAと与島SAを渡る違いがよくわからずにいた。昨夜、今回のツアーで立ち寄った来島海峡SAでJB本四高速がやっていたイベント「せとうち魅力発見」でもらったパンフ一式の中に「本州四国連絡高速道路SA ・PAのご案内」の地図を見てこの2か所のSAの違いがわかった。与島SAは倉敷から坂出方面の瀬戸中央自動車道で来島海峡SAは西瀬戸自動車道、いわゆる瀬戸内しまなみ海道だ。

 もらった地図は中四国の旅に出かける際はよく見て出かけよう。

 出かけた場所は初日が愛媛総合科学博物館と石鎚神社参拝。石鎚神社は9年前にツアーで行った。しかし、今回は一番低い場所にある口の宮本社。歩きながら前回とは違うと思って帰宅後調べる。前回の石鎚神社は上から2番目にある成就社まで参拝していた。なお、石鎚神社は頂上まで4段階に分かれている。宿はひうちなだ温泉瀬戸内東予で国民休暇村になっている。1か月前にここでお昼のランチをいただき、周辺の散策をした。今回は夕方の到着で宿から外に出ずじまい。2日目は総本山善通寺参拝と池泉回遊式の江戸時代の大名庭園である中津万象園を散策。善通寺は以前、参拝したと思われるが覚えていない。今回はお坊さんの案内でいろいろと教えてもらった。また戒壇めぐり、という真っ暗な堂内をまわった。眼がよくないのであらかじめ懐中電灯を用意した。が、戒壇めぐりは目の良しあしは関係なく真っ暗な中を歩く。もちろん懐中電灯は使えない。

 歩きはじめて真っ暗になると左手で壁を伝って歩くようにと教わった。しかしこの時、盲目の人の気持ちがわかる気がした。というのも左手を壁に触って歩くのだが触る壁が遠のいていくように思えてくる。伝って歩かないと全く歩けない。前を歩いていた人の声も聞こえなくなる。後ろを歩く人たちの大きな声はするのだが自分の歩く速度が遅くて申し訳ない。と言ってもこちらは必死で前に進もうと歩く。仕方なく途中から両手を壁に添えて横歩きで歩いた。途中で薄明かりの場所に出た。それもつかの間でまた真っ暗だ。

 以前、祖谷(いや)のかずら橋を渡ったことがある。その時も怖くてなかなか渡れなかった。今回もまさに同じで夜、悪夢にうなされるかと思ったら疲れていたのか夢も見なかった。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年11月25日土曜日

未登録の電話

 携帯電話が鳴った。番号をみると050から始まっている。電話帳に登録していない電話番号へは出ない。そのまま電話が切れるまでほっておけばいいものを切りたくなる。が、慌ててしまってすぐには切れない。またかかってきた。すぐに迷惑電話に設定する。その時、メールが入る。受信メールを読むと一昨日ネットで予約したホテルのクーポン券云々の元であるところからの返答のメールだ。予約時、クーポンに関してわからなければ問い合わせるようにと問い合わせ先の掲載があった。その日は祭日だったのでメールで問い合わせた。その問い合わせの返答電話とメールだった。それによると個人での宿泊は奈良県の場合、7月末で終了していた。

 固定電話も携帯も番号を登録していなければ電話に出ない。こういう人がほとんどと思われるのか、旅行社も非通知の番号を登録して受け取るようにと促す。ホテルのネットの予約も予約確認メールを受け取れるように設定変更を求める。以前、スマホへのメールをパソコンからの送信は受信拒否にしていた。これだとホテルなどの予約確認メールが取れないと気づいて受信拒否設定を解除した。

 元を言えばパソコンで送ってくる一斉送信の迷惑メールが届くのを拒否するのが目的だった。しかし、パソコンからのメール送信を拒否するといろいろと不都合も出てくる。

 受信拒否ではないが同じことが家のチャイムでもある。チャイムが鳴ってもまずでない。後でモニターを見て誰なのかを確認している。変な世の中である。一部の変な人の為に世の中全体が振り回される。これから先はどうなる!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年11月24日金曜日

不染鉄

 ネット記事を見ると日本画家、不染鉄(ふせんてつ)の展覧会が奈良県立美術館である。あまり馴染みのない画家だが、この人の作品にひどく惹かれるものがある。ウイキペディアで不染鉄について調べるとつぎのように書いてある。

「不染の作品は、『克明な描写と、古絵巻に学んだ大和絵的手法を融合した作品』と評され、『俯瞰と接近の相まった独創的な視点』も特徴として挙げられる。その自由な表現と一つのものへのこだわり方からアウトサイダー・アートを思わせ、生き方は同時代の田中一村や高島野十郎を想起させる。……『芸術はすべて心である。芸術修業とは心をみがくことである』を信条とし、きれいでなくても小さくても。立派でなくても。淋しいんだから淋しい一人で眺める画を描こうと思った……『野心作だの大努力作よりも小さな真実をかこう』という芸術観をもち、『いゝ人になりたい』という言葉を残している」。

 この中に田中一村や高島野十郎が出てくる。来春、田中一村の絵を見に行く予定にしている。高島野十郎は数年前に出かけた海外旅行の帰りに見に行った。福岡空港に予定よりも早く到着した。新幹線チケットは「おとなび」を買っていた。博多から新幹線乗車まで3時間くらいあった。当時、新聞で高島野十郎の記事を見てとても魅かれるものがあった。幸い、その頃、福岡の美術館で高島野十郎展が開催されていた。スーツケースを駅に預けて、タクシーで展覧会場まで出かけた。自分で「これっ!」と思ったヒト、モノ、コトはすぐに舞い上がるところがある。かなりの舞い上がりようで絵を堪能した後は分厚い画集を買って帰った。

 その人と同じジャンルに不染鉄がいる、と知って昨日は午後からすぐに行動開始。不染鉄の展覧会は来春の始めから3月10日まで開催される。是非とも見に行こう、となって予定を決める。2月の中旬に決めた。次は宿である。あれこれ考慮して1泊2食付きのホテルを予約。素泊まりや朝食付きと違って2食付きは結構高い。が、この齢まで生きると好きなことのために使うお金に躊躇しない。元気であればこそ遊びにも行ける。その思いが年々強くなる。ましてや海外旅行のことを思えば金額的にも桁が一つ違う。

 ホテルを予約した。ところが、予約確認のメールが届いたのはいいのだが「stay navi クーポンの申請」を個人でするようにとの掲載がある。(奈良県はいつまでクーポンが付く?)と思いながらURLをクリックしてクーポンの申請を試みる。何度試みてもできない。途中で気づく。奈良県のクーポンはいつまでか、を調べると今月末までとある。たまたま今月、予約したので2月の予約も自動でメールが返信されたようだ。

 田中一村の絵は3月に予定している。これは遠く離島まで行かねばならない。ツアーを申し込んでいるが催行されるのを願うばかりだ。

 それにしてもこの3人に魅かれるとは……。よほど淋しい!?

 というか、何か遊ぶ目的を探して見つかればそこへ飛んでいく。その気持ちがそうさせるのかもしれない。何であれ、自分が「これっ!」と思ったことはできる限りやりたい。そうすれば後悔することもない!?そう思ったり。

 コロナ禍でくすぶっていた行動が昨年の長府に始まって京都、今年の臼杵、司馬遼太郎記念館の新大阪と奈良、そして来年の奈良、と一人旅をしたり、また予定もある。コロナ禍は自分にとっては一人旅に出かけるきっかけとなった。その点ではコロナ禍も悪いことばかりではなかった!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 追記)そういえば数年前に堀文子の絵を神戸や三次まで一人で見に出かけた。その時も堀文子の画集を買って帰った。予定している不染鉄や田中一村の画集も見に行ったならば買って帰ろう。本は増やすまいと思っても増える!?

2023年11月23日木曜日

ああ、ススキ!

 今朝は濃霧注意報が出て晴れていても薄暗く感じる。気温は22度まで上がるようだ。天気予報では明日からまた気温が低くなるとか。暖かいうちにと昨日、県立美術館で開催中の日本画五人展とそごうの画廊で開催の棟方志功展を見に行く。棟方志功の作品は是非とも実物を見てみたかった。デパートの画廊は作品の販売が目的のためか会場にいる人は少ない。ある小さな作品の価格を見ると150万円。たとえほしくても買うのは不可能。それにしても誰が買う!?

 テレビで棟方志功が目を近づけて必死になって木を彫っている姿を見ると感動してしまう。人々をひきつけてやまない感動がすべて作品となって表現されるのかもしれない。

 日本画の五人展は習っている先生たち5人の展覧会である。各自5,6点の作品を展示されている。中でも先生の「芒野の道」がよかった。秋になるとススキが生えている場所に行きたくなる。10月の作品展の時、その話をするとある人から我が家はススキの中に建っている、と。しかし、この話はどうも違うようだ。

 「俺は 河原の 枯れすすき~」と歌にあるように近くを流れる二級河川の河原へススキを見に行った。が、ススキは生えてない。県北部の芸北や深入山などに行くとススキ野原があるようだ。先生の絵も芸北のススキ、と話された。ススキといえば戦場ヶ原のススキが有名。高校の修学旅行で一度行ったことがある。しかし、それはひと昔もふた昔も前だ。

 近場では秋吉台が有名だ。以前、バスツアーで出かけたけど秋にツアーがあればまた行ってみたい。

 絵を見に行ってススキに感動してしまった。これも、まあっ、いいか。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年11月22日水曜日

姉と電話で話す

 しばらく会っていなかった姪の次女が突然やってきた。チャイムが鳴っても変な人が鳴らしたと思って出ないようにしている。昨夕も出ずにいたがモニターを見ると制服姿で立っている。玄関を開けると姪の次女だ。母がいたころは次女はまだ小学生。近年は会っていなかった。用があって訪ねてきたので少しだけ立ち話をする。高校3年生になり、話す声も雰囲気も全くと言っていいほど姪とそっくりだ。これにはびっくり。次女の下に姪の長男がいる。

 子どもが成長するのは早い。「〇〇〇も大きくなった?」と次女に聞くと大きくなっているようだ。あまりにも姪親子が似すぎているのですぐに姉に電話する。しかし、趣味の会へ行っていたらしく夜に電話で話す。久々に姉ともこのことで長話になった。

 姉と話していると最近、歌にハマっているという。舞台で歌うと張り切っている。人前で歌う度胸もついたと笑って話す。姉は元来、母に似て運動選手。走るのも早いし球技もできる。それに引き換え、自分自身は運動音痴。小さい頃、弱かったので親の過保護で育った。姉妹と言えどもこれほど違う!?姉は今でも球技が特異で体を動かしている。他にも姉の特技は書道。これは父親似で今でも書を書いているという。歌と球技、それに書道で週3日ほど忙しいらしい。ただ一つ姉は悔やんでいた。それは早めに免許返納をしたことだ。しかし、義兄が運転するのでよかった、という。

 今年パソコンに接続していたプリンタが壊れた。姉が書道を続けていると聞いて手書きの年賀状を頑張って書こうと思いつく。しかし、パソコンやスマホで指は使っても字を書く習慣がない。年賀状を手書きで書くには字を書く癖をつけなくてはいけない。この期に及んでいきなり字を練習してもうまくは書けそうにない。少しずつボールペンで書く練習をする!?とりあえず年賀ハガキは買った。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年11月21日火曜日

etSETOraに乗車する


 人に誘われてetSETOraに乗車する。エトセトラはラテン語。これになぞらえて命名されたのが観光列車etSETOraだ。広島弁で「たくさんの」「多くの」という意味がある「えっと」。これに瀬戸の魅力を感じてほしいという想いを込めてロゴマークがつくられている。

 誘ってくれた人は観光列車に乗るのが大好きのようだ。エトセトラもこれまで3回乗車しているという。個人的には観光列車にそれほどの思いはないが初めて乗車した。乗車区間は往路と復路があり、広島駅⇔尾道駅間の呉線経由で走っている。昨日は広島駅から竹原駅まで乗車した。ちなみに乗車運賃は1520円でグリーン席券は1000円の計2520円。グリーン席はあっても観光列車は普通列車並みかそれよりもゆっくり走る。広島⇒竹原駅間は2時間で尾道駅までは3時間の乗車だ。

 観光列車と名がつくように乗客は多くの荷物を持った観光客が多い。車内ではグッズの販売やドリンクなどの飲み物に加えて老舗洋菓子店のショコラやタルト類の販売もある。

 広島駅ホームで数人に見送られて観光列車が発車した。乗車予約が遅かったのか席は海側でなく山側。といっても瀬戸内海は見飽きるほど見て育っている。しかし他所からの観光客は海が見えるとしきりに写真を撮っている。それも当然のことかもしれない。自分自身、見慣れぬ観光地に出かけると何でもかんでも撮ってしまうから。

 竹原駅で降車する。しかし、降りる人は数人もいない。皆さん、尾道まで乗車のようだ。竹原駅に着くと女性の駅長さんが出迎えてくれた。多分、無人駅と思われるがこの時ばかりはお出迎え!?

 2年ぐらい前、GO TOなどのキャンペーンを利用して竹原の観光をした。その時は一人での観光だったこともあり、地図を携えてあちこちを歩いた。昨日は誘ってくれた人にスケジュールをすべて合わせた。そのためどこを見たいとかの希望はなく、ただエトセトラに乗ればそれでよかった。それでも9149歩とよく歩いた。

 竹原の帰りは高速バスの「かぐや姫」号に乗車する。乗車前、竹原駅のトイレに入るととてもきれいだ。それもそのはず、今朝の地元紙を見ると竹原駅トイレリニューアルとの記事がある。最近新しくなったようだ。

 高速バスは70分で広島駅に着く。観光列車と高速バスに乗った竹原観光は終わった。幸い昨日はお天気も20度近くになり、歩いていても吹く風が心地よかった。この陽気はいつまで続く!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年11月19日日曜日

新刊紹介記事から

 今朝の地元紙「読書」欄に碓井広義は『二人の美術記者 井上靖と司馬遼太郎』(ホンダ・アキノ 平凡社)の新刊紹介記事を書いている。二人には新聞社の美術記者だったという共通点がある。しかし、両者には芸術家に対する思考の違いがあった。井上が傾倒したのはゴヤ。ところが司馬が夢中になったのはゴッホ。ところが両者ともに宗教記者だったのは共通している。井上は僧侶の試験を受けたこともあるとか。それは「敦煌」に。また司馬は高野山で出家を考えたことがあるそうだ。それが「空海の風景」に。最後に碓井は次のように書いている。「井上にとっての美は『自分を引き寄せて永遠をみせてくれる』ものであり、司馬にとっては『人間にとって永遠とその精神を考えさせる』ものだった。」と。

 この紹介記事は興味深く読んだ。この本を是非とも読まねばならない。自分にとっての二人の共通点は中国。それもシルクロードである。これは自分自身の関心事なので二人に魅かれるものがある。司馬遼太郎にハマる前、とくに日本中がシルクロードブームに巻き込まれていた頃、自分自身もシルクロードに出かけ、ハマっていた。今から30数年前のことだ。当時は井上靖の本にハマっていた。「西域」ものである。そのため、司馬遼太郎にハマる5年前までは家にある本は司馬遼太郎よりも井上靖の方が断然多くある。

 ところが司馬遼太郎にハマった5年前からは井上靖にハマった勢いよりもハマり具合が半端なく深い。どういっても司馬作品を読む量も速度もこれまでの人生で一番ハマっている。しかし、読んでいる司馬作品はほとんど図書館の本である。

 話は変わって昨日は日本画教室の日。一気に冬到来となって着る服もダウンになる。半端なく寒い中、教室に出かける。描く絵は睡蓮。教室の5人のうち3人が睡蓮を描く。しかし、睡蓮と言っても同じではない。このあたりが面白い。ティータイムになった。昨日はいつもの自販機が故障中。仕方なく別の自販機でペットボトルの珈琲を購入。教室が終わると寒いにもかかわらず皆でカフェへ。今朝も寒い。

 ともあれきゅも元気で楽しく過ごしましょう!

2023年11月18日土曜日

マチュア

 先日、アプリの開発者である88歳の若宮正子が ChatGPTを使ったデジタル生活を楽しんでいるという記事を目にした。このChatGPTとは何か、と問われると今一歩わからない。若宮はこれを目覚まし代わりに利用するとも書いている。全く情報を知らないときはAIのロボットのような形のもの、と思っていた。ところがパソコンを起動すると検索画面にChatGPTとある。もしかしてこれは既存のパソコンやスマホで利用できる?と思ってスマホで試みる。が、途中で有料や無料などとある。面倒になってすぐにやめた。もっとChatGPTが何なのかを知らないと何も前に進まない。

 昨日、デジカメで撮った写真をコンビニへ行って現像する。今回は2度目の現像なので係の手を煩わせずにプリントアウトできた。写真の現像も以前だったらカメラ屋で安くしあがった。が、コンビニだと1枚当たり40円。40円が高いか安いかは別として以前ほど写真をプリントアウトしなくなった。その点では40円は安いかもしれない。というか自分にとってのプリントアウトは写した写真を絵のモチーフにするためにある。そのため、プリントアウトの枚数もそれほどの数ではない。

 ネット記事を見ていると毎日のように知らないキーワードを目にする。昨日はマチュア。マチュア世代、などと使うとか。成熟を意味するらしい。電子辞書で調べると掲載されている。このごろはわからなければスマホに聞け、とばかりに聞いているが。わからない言葉は一日に一つどころではない。というのもニュースになっているツイッター(X)やブログを見ているとわからない言葉だらけだ。これも時代について行く楽しみ!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年11月17日金曜日

クラシックTVを見る

 久しぶりにクラシックTVを見た。ゲストは多久潤一朗。この人を知ったのはコロナ禍で思うように行動ができなかった頃、フルーティストの神田勇哉のツイッターやブログで知った。多久は神田や梶原との3人でマグナムトリオを組んでいる。3人ともフルーティストだが多久は吹いて音が出るものはなんでも演奏できるとか。昨夜の番組でもテーブルにいわゆるフルート以外にも各種笛を並べて吹いていた。そのなかでも変わった楽器(?)がある。それはちくわ。ちくわで曲を演奏する話は神田からの情報で知っていた。ちくわで吹くのを見るのが楽しみだった。いわゆる普通のちくわを1本口に当てて音を出す。初めて見る光景で興味深く見た。

 聞きなれたフルート曲から即興の曲まであらゆる分野の曲を披露する。小さい頃、リコーダを親から与えられ、耳にする音を何でもリコーダで吹いたそうだ。それが昂じてフルートを吹くようになったとか。

 放送中、画面にQRコードが出る。それをスマホで撮ると、そのままNHKプラスになった。テレビでなくてもスマホで生放送が見られるようになっている。これは初めてのことだった。NHKプラスをパソコンやスマホで見ている最中に生放送はよくある。しかし逆パターンもあると初めて知った。

 どういってもスマホデヴューは1年2か月前と遅かった。買い替えのころは数日、電話の受け答えがうまくできなかった。ところがこの頃は「スマホがわからなければスマホに聞け」とばかりに何でもスマホに問えば応えてくれる。ネットニュースでアプリを開発した88歳の若宮正子の記事を見た。その人が本を書いている。『88歳、しあわせデジタル生活』。これを読んでデジタルに強くなる!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年11月16日木曜日

「老いは『十分生きた証拠』老年期は自分のために生きよ」

 今朝のネット記事に「老いは『十分生きた証拠』老年期は自分のために生きよ」に同感する。これは日経ビジネスに小川仁志が書いている。これからは高齢者の「事実」を受け入れたビジネスが鍵になるとか。

 それによると「老いという人間にとって不可避の現象を、『生産性』や『生涯現役』『アンチエイジング』といった不自然な形でビジネス化しようという方向性は間違っているように思います。誰もが安心して老い、それでいて人生を楽しめる社会をつくるためにも、『消費』『働かない』『成熟』といった事実を素直に受け入れてビジネスに結び付けたほうが自然であるように思うのです。それこそが、本当に目指すべき高齢化社会なのではないでしょうか。」とある。

 同感しつつもこの意見には賛否両論ありそうだ。いずれにしても健康でなければどちらも選べない。自分の人生だから自分にあった道を選べばいい。究極は人生が終わるまで人生を楽しめたらそれでもう大満足。そのためにも元気は欠かせない!?
 
 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年11月15日水曜日

日帰りバスツアーに参加その2

  2023年11月13日(月)、バスツアーに参加した。紅葉は今一歩だったが多くの写真を撮った。その中から絵になりそうな写真とタコ料理をアップしよう。出かけた場所が山間の地域にあり、また小雨も降っている。急遽、ダウンを着てのツアーとなった。家を出た際、首のあたりに寒さを感じる。それくらい冷たい朝だった。幸い午後からはお天気も回復。しかし、一日中、冬の到来を感じるツアーとなった。この日の万歩計は14868歩。 

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

三景園の滝
三景園
三景園内の柘榴の盆栽は絵になりそうだ 
仏通寺

仏通寺の絵になりそうな多宝塔 
三原名物登喜将のタコ料理
三原名物登喜将のタコ料理

2023年11月14日火曜日

日帰りバスツアーに参加その1

  一昨日から一気に冬になった。昨日は朝から小雨模様のお天気。起床5時50分。すぐにエアコンをつける。日帰りバスツアーの日だ。旅は雨に左右される。お天気であればその旅は8割がた成功とか。急に寒くなったので出かける10分前に急遽、今季初の軽めのダウンを着る。また持参するナップサックも急遽、軽めのリュックに替えた。このリュックは1か月半前に友だちの家に行った際、レクト内の蔦屋で買った。携帯リュックは折りたためば小さくなる。さらには先日購入したポシェットも出番だ。

 出かける前に持って行くものなど計画を変えるとよくない。何もかも慌てた感じになる。これは怪我のもと!?広島駅新幹線口のペデストリアンデッキに8時10分前に集合する。この日のツアーは久々に利用する旅行社だ。参加者は29名。大半は1人参加だ。旅行社によっては1人参加は相席になることがある。ところがコロナ禍になって良心的な会社は相席にはしない。これがいい。

 このツアーは2年前の11月16日に同じコースで同じ旅行社で参加している。その際の幽玄の世界のような光景が忘れられず今回も参加した。ところがこの夏の異常な暑さで紅葉は今一歩だった。出かけた場所は広島空港そばの三景園、さらには仏通寺。お昼は三原港近くのタコ料理の登喜将でいただく。お昼としては豪華な料理でタコのやわらか煮、生きタコの刺身、タコピリ辛鍋、タコ天、タコ釜めし、お吸い物、果物などのタコ尽くしだった。

 テーブルには1人参加者が自由に座る。いつものことながら互いに引き合うものがあるのか気が合う人たちになる。午後からこの3人で観光しているとなんと血液型が同じだ。次に向かうは御調八幡宮。そして究極は今高野山。紅葉としては仏通寺と今高野山に期待していた。ところが前回とは打って変わって紅葉は期待外れ。自然が醸し出す風景なのでこれも仕方がない。

 午前中の雨も午後には上がる。しかし気温は低い。冷たいバスツアーとなった。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年11月12日日曜日

サムホールに箔を貼る

 日本画教室で先生からサムホールに箔を貼るように勧められる。最近、動きすぎて今一歩気が乗らない。が、先生は各種箔を持参されている、と思い直して睡蓮を描くのを中断する。幸い、以前に買って教室に置いていたサムホールがある。それに鳥の子紙を貼ろうとすると先生から釘が出ていると言われる。しかし、サムホールのどこを見ても釘を打った跡がない。しかし、釘は出ている。

 この釘を引っ込めないと鳥の子紙を貼れない。いろいろと皆で釘らしきものを打ち付けるもダメだ。その時、教室の人が大工さんの作業を見て知ったというやり方で釘を引っ込めてくれた。器用な人はなんでもできる、と感心してしまった。

 サムホールに鳥の子紙を貼ってその上に箔を貼る。貼ると言っても糊で紙を張り付けるのとは違って薄い箔を竹ばさみで剥がし、それを揉んで小さくする。このようにした箔は近くで息をすると飛んで行ってしまう。1枚目の箔は小さくしすぎてしまったのでパネルに貼っても同じ模様になる。これでは面白くない、とのことで結果6枚の箔を使って貼った。何とか面白く貼れたようだ。このサムホールに絵を描くのだが、何を描くかを決めていない。

 教室は3時間ある。前半はエンジン全開とはならなかった。が、ティータイム後、本来の元気を取り戻す。ティータイムでは各自持ち寄っておやつにする。車で来る人からはドリンクやミカンをもらった。毎回いろいろといただく。が、家に持ち帰ってもいただきものがたまってしまう。昨日はミカンを4個もらった。

 子供のころはミカンを一度に何個も食べた。しかし、このごろは一日に1個で十分だ。歳を取った!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年11月11日土曜日

『韃靼疾風録』(下)

 『韃靼疾風録』(下)(司馬遼太郎 中央公論社、1991年)を読んだ。清は明を征服する際、漢人に辮髪を強いた。漢人と女真人(満洲族)を髪型によって見わけ、それに逆らう者は刑に処した。このくだりは最初に記す。辮髪が明から清に代わる時の大事な役目を担っていたとは、なんとも驚き!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★”清朝”と称してはみたものの、その点の心もとなさは、一山の蟻を一人でのこらずつまみとろうとする空想に似ていた。女真人の人口は、せいぜい五、六十万人で、兵となると後方勤務や病人まで入れて十数万でしかなかった。この人数で中国大陸を征服しようとしている。ここまでくれば制服しかなく、もし長城外の故郷へ退きかえせば、士気がおとろえ、それにひきかえ旧明の勢力が勢いをえて逆にこの辺境の少数民族を押しつぶすだろう。征服するには、強制辮髪しかない。……すでにふれたように庶民をも辮髪にさせてきた。……さからう者はこれを殺す。殺すべきものがひとめでわかるのである。ひとびとは殺されまいとして辮髪にしたし、以後もそうなるであろう。……「辮髪」なんと異様なものであろう。それにしても、辮髪を国是とし、それでもって領域を広げて行った帝国は、世界史にない。……辮髪について、以下は余談になるが、主な地方において、旧明の勢いがつよい反発をみせつつも、清の勢力がかろうじて固まりはじめた時期、睿親王は容赦なくこれを強制することに踏みきった。反抗する者は、見せしめとして次々と刑殺した。床屋が、臨時の警吏になった。かれらは、剃刀の入った道具箱をかついで、町々をふれまわったのである。(476-478p)

★人は生物として臆病にできていて、本来、勇気のある者がいるとすれば、精神になにごとかが欠ける者といわねばならない。勇気は訓練と条件によってうまれるもので、そういうことでいえば武科の出身でもない袁崇はその種の訓練をうけたことがなかった。かれの勇気は、主知的にみずから作ったものであった。この点でも、かれは将としての性格をもっていたことになる。(37p)

★このあと袁崇煥はかれの部屋の諸将をあつめ、ひたすらなる忠義を説いた。袁はついに激し、刃をぬいてわが腕を撃ち、あふれる血をもって、忠義という文字を書いた。諸将はこれによって奮ったといわれる。忠とはマジメという意味であり、義は自然の情(じょう)にそむく無理なことを倫理上の要求でもってやることをいう。明室への忠義など、明人の感情には乏しいものであった。袁崇煥というのはこの時代の一希士であったといっていい。(39-40p)

★明の歴世のくるしみは、北虜南倭であった。北虜とは、明の領域の北部をさわがすモンゴル人のことであり、南倭とは、領域の南(揚子江とその南)を侵す日本海賊をさす。……北虜といい、南倭といい、明初や明の中期からみるといまははなはだしずかな状態になっているが、意外にも明朝の歴世が軽視し、警戒の必要もないほど団結力がないとしてきた女真族が、蜘蛛のように沸き起こっているのである。蘇州商人の若い手代が話している日本についての不安は、おそらくこういうことであったろう。(56p)

★天が皇帝の姓を他の姓に易(か)える。つまりは天命を革(あらた)める。そのことを易姓革命という。(62p)

★野蛮人のことを中国では、夷といい、胡といい、狄(てき)といい、また蛮という。いずれにしても、――沼沢で魚やスッポンにまみれてくらしているか、それとも草原で五畜とともに暮らし、動物同然のきたならしい連中。というのが、古代以来の野蛮人観だった。かれらは人ではなかった。(104p)

★「満洲」ということばが出てくる。新語にちかい。満洲とは、ホンタイジは民族呼称のつもりで使っているのである。当初は地名ではなかった。ついでながら、満洲というのは、漢民族がつくりだしたことばではない。先代のヌルハチ(太祖)が、民族名についてこれを女真とよぶことを好まず、しばしばマンジュ・グルン(グルンは国)とよんだ。マンジュについて漢族は満住などという文字をあてたが、ホンタイジは、漢字表記として満洲をあてた。人をさし、まれに地名をもあらわす。……「清」という独立国だけを、マンジュの地につくったのである。……――人を捕る。これが、ホンタイジ一代の政策の一つといってよかった。人を刈り捕ってマンジュにし、人口をふやし、国らしくするのである。(118-119p)

★女真の側から見てのホンタイジの功は、まず第一に蒙古賊を帰順させて武力を強化したということになるであろう。ついで、略奪した漢人に農地を拓かせることで、慢性的な女真の食料不足をすこしは改善したということになる。ともかくも、ホンタイジの存在は、巨大だった。漢人の官吏たちは、この異民族の皇帝のために、中国皇帝のような廟号をえらんだ。「太宗」なんときらびやかな廟号だろう。(131p)

★鄭成功はのち明の流亡の王から朱という国姓をもらい、忠公伯に封ぜられたことから、国姓爺(こくせいや)とよばれたりした。その呼称は日本にもつたわり、近松門左衛門が「国爺合戦」として書き、上演された。鄭成功の後半生は華麗で、悲壮だった。しばしば清軍をおびやかす一方、オランダ人の拠る台湾を攻め、降伏させてここを中国領として確定させたりもした。ただ寿は短かった。三十八歳で急死し、その雄図(ゆうと)もはかなくなった。(203p)

★洪承疇にあたえられたあたらしい軍職の呼称は葪(けい)遼総督というものだった。葪とは北京付近の地名である。葪という文字があることから、その軍事権は北京付近までおよぶ。遼という文字は、その後のいわゆる満洲を示している。北京周辺から満洲にいたるまでの広大な地域の指揮権を持ったのである。(223p)

★毅宗は北京を守るべき優勢な軍のないことに狼狽し、明朝最大の軍ともいうべき呉三桂の軍をよびかえした。呉三桂は寧遠城を空(から)にし、将兵および住民五十万をひきい、山海関をくぐって北京に急行したが、その途中、信じがたいことに北京城は李自成によって陥された、という報に接したのである。……明は瞬時に亡び、この大陸を統治することに百七十六年という王朝の末路にしては、ほとんど瀕死にちかかった。(316p)

★順王朝と”皇帝”李自成が歴史に公認されることなく、単なる賊としてあつかわれたのは『明史』の編纂態度にもよる。ついでながら、中国の雄大な慣習として、一つの王朝が終わると、それに取って代わったつぎの王朝が、前王朝の正史を編纂することがある。その慣習に従って、明のあとの清は『明史』を編纂した。(330p)

★「山海関の門を開けろ。――」この一声が歴史を変えた。清軍が明の本土になだれ込ませろ、といったも同然だった。明のために山海関の大関門を守ってきたこの将軍が、その任務を放棄したばかりか、異民族を洪水のようにこちら側に入れさせるという。史上、呉三桂ほど、劇的な立場にいた者はいなかった。……山海関を開けることによって、異民族の清が成立した。かれは、異民族国土そのものを売った。動機は、女だった。漢民族の一将が、陳円円をうばったことに憤り、面当てとして異民族に国を売ったことになる。(381-382p)

★女真。――これは、古称である。自称はマンジュ(満洲)、蔑称は満韃子(マンダーツ)、東韃など、民族の呼称さえ定まらぬこのツングース系のひとびとは、ついに、「清」と自称し、広大な旧明の城内に乱入したのである。(438p)

★阿蘭陀通詞(おらんだつうじ)の場合は通と書き、唐通事の場合は、慣例上、通と書く。おなじ身分の職で、外国文書の取り扱いと通訳、さらには事務官として貿易の業務をあつかう。身分は堂々たる士分である。(504p)

★清朝以後、現在にいたるまで、中国では「満洲」または満洲族とよばれている。……満洲とは本来地名ではない。(地名なら満とでも表記するところである。)満洲とは民族名で、こんにちでも中国においてはその使われ方はかわらない。(525p)

★清朝のころは、北京の満洲人たちは”旗人”とよばれ、貴族というほどの語感と内容をもつ階層を形成していた。減満興漢の大合唱のなかで清朝がくずれ去ったあと、遺民たちは満洲人であることを秘し、中国の姓名を称した。故郷の東北地方にいたひとびとも、満洲人であることを積極的にいわず、固有満洲語をつかうこともはばかったため、ことばも死語同然になった。二十世紀初頭まで中国を支配していた王朝の言語が死語同然になるなど、劇的といっていい。(533p)

★漢族の文化に同化したといえば、旗人たちは北京では中国語をつかった。かれらのつかう中国語が、北京官話とよばれたのである。キングス・イングリッシュというようなものであった。「北京官話」とは、新中国以前に存在した標準中国語のことをさし、また清朝高官(マンダリン)のことばでもあった。ここには多分に満州発音が入っている。(535p 女真人来り去る――あとがきにかえて

★モンゴル高原のオルホン河川流域で遊牧していたタタール族の名が北アジアの遊牧民ぜんたいの呼称になったのである。さらにひろがって、十三世紀のチンギス・ハーンの民族そのものをさすようになった。が、この作品に登場する民族は、韃靼(タタール)――モンゴル人――のように世界史のブロード・ウエイを往来したひとびとではない。現在でいう中国東北地方の山間や河川に散居していた小さな素朴民族のことを、ここでは韃靼とよんでいる。かれらにつては、モンゴル人たちが「ああ、豚を買っている連中か」と、一格下げのようにみていた。かれらのことを、漢民族は、古来、女真人とよび、ときに満洲(マンチュウ)とか、”満韃子(マンダーツ)”とよんだ。(554p 文庫本のために)

2023年11月10日金曜日

ポシェット

 昨日のネット記事president on-lineに「これができないと孤独な老後が待ち受ける…87歳医師が『老年になったら徹底すべし』と説く生活態度」から自分の都合のいい箇所だけを記そう。それは「人といつでも交流できることは、幸福の一大条件」と「自分を発信できていれば孤独ではないのです」である。まあ、これはともかくとして孤独な老後だけは避けたいものである。

 昨日は人からもらったチケットをもって松本明慶仏像彫刻展を見に行く。会場は福屋八丁堀店。しかし、出かけた目的はそれ以外にもある。それはポシェットの購入である。数日前、用事を済ませた後、福屋駅前店でポシェットを物色した。が、他の売り場にもいいものがあるのでは、と思って買わなかった。彫刻を見た後、ポシェットを見て歩く。しかし八丁堀店で軽くて安いものがあったがファスナーが付いていない。場所を移動して本通りを抜けてそごうへ行く。ここも今一歩の感じでバスに乗って福屋駅前店に移動する。

 先日、下見した1階の売り場に行くとこれもあまり気が進まない。2階へ移動してポシェットを探すが先日物色したものが見当たらない。係に数日前にあったものが売れた?と問うと、どんな商品かを聞かれる。係に探してもらうとあった!すぐにそれを購入。

 ポシェットが欲しいと思ったのは旅に出たときである。これまではショルダーバッグをかけて歩いていた。ところが、このごろはなんでも荷物は軽くするに限る、と思うようになった。観光するときは軽量のリュックやナップサックを背負って歩く。その際、その中に貴重品などをポシェットに入れ、そのポシェットをそのままナップサックやリュックに入れれば何も手にすることなく歩ける。

 ポシェットをそごうで物色中、自分には相応しくない高級な売り場に入った。手にするとなんと36000円。もしかしてそこはブランドショップ!?係は驚く私を見てよくぞ見てくださった、みたいに言われる。そうかもしれない。高級な売り場に入っただけでも恐ろしい。今回購入したのは9900円。これは福屋駅前店のバッグ売り場にあった。軽量で小さくて柔らかいポシェットだ。

 その後、ティータイム。すぐに買ったポシェットを袋から出して眺める。大いに気に入る。近いうち、日帰りツアーに参加する。その時、このポシェットはデビュー!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年11月9日木曜日

『韃靼疾風録』(上)

 『韃靼疾風録』(上)(司馬遼太郎 中央公論社、1991年)を読んだ。この上巻のほかに下巻もある。長い小説だが興味深く読んだ。まだ下巻の100頁ほどは読み終えていない。この時点で『司馬遼太郎全仕事』のこの本の「読みどころ」を見ると次のように書いてある。それは「『自分は何者なのか?』壮大な大陸歴史絵巻の裏から浮かび上がる、孤独な男の自分探しの物語。切なくて力強いその結末を、胸いっぱい味わってほしい。」と。下巻の最後の100頁をこれを参考にして読もう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★まず平戸島の北端 の田ノ浦まで行った。そこで、三日とまり、日和(ひより)を見た。こういう入念な性格のことを、この当時、島では念者(ねんしゃ)といった。庄助は念者だった。わずか一里半の北にうかぶ島にわたるのに三日も日和を見るということだけでも、庄助は風変わりな男であった。(33p)

★タタール(漢字表記して韃靼)とは、もともとモンゴル民族内部での一部族の呼称にすぎなかった。元以前の宋代の漢民族が、モンゴル人全体を韃靼とよびはじめ、元代ではそのようによぶことをはばかって表面ではそういう呼称をつかわなかった。元がほろぶとき、中国大陸を支配していたモンゴル兵は。土地に執着せず、風のように騎馬で北の草原へ帰っていった。そういうふしぎな滅亡の形態を当時、北帰とよんだ。明帝国では、草原に北帰したモンゴル人のことを、卑しんで韃靼とよぶようになった。(69p)

★日本には明の商人の口から仄かに伝わっていたものの、「愛新覚羅(アイシンギョロ)・奴児哈赤(ヌルハチ)」という異様な名は伝わらず、それを耳にした最初の日本人は庄助であった。(128p)

★「旅順」奇妙な地名というほかない。……遼東半島の先端にある大きな「口」に入りこみ、安堵するのだが、その口を「旅順口」と船乗りたちはよぶのである。つまりは、山東を発し、廟島群島を経、遼東にいたる船にとって旅程の順路にあるがために旅順という。(281-282p)

★ 「アゴよ。漢人(ニカン)の地には人の数奇(スウキ)はある。しかし胡地(こち)にはない。胡地とは、この場合、この韃靼の地をさしているのであろう。数奇。人が人間の関係においておちこむふしぎな不運。――こういうことばは女真語にはないため大夫人はここだけことさらに漢語でいった。数奇は胡地にはない、という大夫人のことばのあやしさに庄助は驚き、つい、「数寄は胡地にないとは?」と問うた。「胡地にあっては」大夫人は、ふと嫌悪を表情にうかべ、「人はことごとく数奇です。すべて数奇であるがために数奇はないにひとしい。漢土にあって人はまれに数奇におちこむ。従って王昭君の数寄もまれなるがために千載に伝えられる」大夫人のいうとおりならば、文明というものは人をして数奇たらしめない状態をさし、野蛮とは数奇が大地に盛りあげたようにある状態をさすことになる。その真否はいずれであるにせよ、大夫人があやまって胡地にうまれたわが身を悲しんでいるのに違いない。(386-387p)

★明は、日本の室町の将軍義満のころ、蒙古帝国である元をほろぼすことによって中国を統一した。中国を支配していたモンゴル人たちは、占領地に執着せず、潮がひくように馬に騎って漠北に去った。ひとびとはこの奇現象をモンゴル人の北帰とよんだ。北帰したモンゴル人は遊牧生活にもどり、その後、しばしば辺境を侵した。英雄が出ると、その勢力が強大になり、英雄が死ぬと衰えた。……かれらの勢力は、微弱になった。……女真は古来、モングを怖れ、かれらに従属するかたちをとってきたのである。それでも、ヌルハチはモング対策に腐心した。(403-404p)

★中国は、歴世、大乱によってくずれる。乱にあっては律儀者が忠臣になり、放埓物が大小の賊になる。賊の小なるものは大に吸収され、やがて巨魁になった者が、英雄になる。そのうちの幸運な者が、つぎの王朝を興すのである。(459p)

★庄助は石伏魚のことばをききつつ、(なるほど明は大きい。その天下は天地をおおっている)と、おもった。皇帝は官吏を傭って統治組織をつくるだけで、王朝を成立させているのである。王朝にとって民は、食餌でしかない。田畑を耕して王朝を食わせ、機(はた)を動かして王朝に衣服を着せるのである。民にとって王朝が忠誠の対象であった歴史は一度もなく、王朝もそれを期待したことがない。王朝が崩れようとするときには、民は鍬を戈(ほこ)にして、王朝に対し病犬(やみいぬ)でも打つようにして打つ。そのくせ、民にしてしかも仁や義のあるものとなると、日本国よりもずっと多いように思える。この場合、石伏魚の仁も義も、庄助にそそがれている。石伏魚にすれば、庄助が、庄助であるという理由のみで情をそそぎ、庄助が日本国の人間であるという属性はかれにおいて何の意味ももたない。(540-541p)

2023年11月8日水曜日

500m泳いだ!

 自転車に乗ってプールへ行く。前回までとは違って久しぶりに500m(10往復)泳いだ。しばらくは500mを泳ぐようにしよう。500mのうちのほとんどは背泳ぎ。最近、草臥れているのかクロールで泳ぐと、きつく感じる。無理してクロールで泳がなくても、と思って背泳ぎで泳ぐ。プールは浅い方で泳いでいる。というのも背泳ぎだとクロールよりも泳ぎが遅い。人に迷惑をかけないようにと泳ぐ人がいない浅い方で泳ぐ。

 クロールで泳ごうとすると隣のレーンを泳ぐ人がいる。この人にどれくらいついて泳げるか、無意識のうちに競争する自分がいる。真ん中あたりでその人と並んだ。そして最後はちょっとだけ前に進んだ。泳ぎ終えてその人の泳ぎを見るとゆっくりだ。自分自身もそれくらいゆっくりと泳いでいると知る。いまさら人と比べても仕方がない。それなのにどこかで意識しているのかもしれない。

 泳ぎ終えて何年振りかで隣接するスーパーに拠った。そこで濡れた水着やバスタオルで重たいにもかかわらず牛乳などを購入。さらに荷物が重たくなる。これがいけなかった。自転車で帰路に向かう途中の踏切で遮断機が下りだす。自転車を押していたサドル部分が遮断機にはさまれてどうやっても動かなくなる。仕方なくそのままにして踏切を出た。一度警笛が鳴ったが貨物列車は通り過ぎた。遮断機が上がるとサドルも動く。その時、反対側から人が駆け寄ってくる。「大丈夫!?」と心配してくださる。また「怖かったでしょ?」とも。何とも親切な人だ。

 いつも利用する踏切は3か所ある。しかし他の2か所は遮断機がソフトなのでたとえ降りたとしても自分であげて通られる。ところが昨日の遮断機は重たくて頑丈にできておりどうやっても動かなかった。また遮断機が降りた際、頭があったのか眼鏡の鼻にかける部分が動いていた。何もかも大丈夫だったけどこれからはここの遮断機は気をつけよう。どういっても踏切の幅が半端なく広い。元気な者でも自転車を押して渡ると遮断機に引っかかる。もしも足が悪い人ならばどうなる!?

 そのためもあって長い年月をかけて踏切横断をなくすべく高架化が進んでいる。しかし、その完成はまだまだ先の事。とはいえ工事は着々と進行中だが。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年11月7日火曜日

ラジカセの出番!?

 今朝はこれぞ秋晴れ!というようないいお天気だ。雨も上がった。長年愛用しているトランジスタラジオ。一か所壊れかけている。それはアンテナを兼ねた一本の細い線。ラジオは聞けるが買い替えを、と思ったり。と同時にラジオはラジカセで聞けば、とも思った。ラジカセは母がいたころはずっとつけていた。ところがその必要もなくなり使わなくなった。それでも以前はCDなど聞いたりしたが今ではそれもない。音楽を聴くのは手っ取り早くパソコンやスマホのYOU TUBEで聞く。

 昨日、何を思ったか眠らせているCDラジカセをパソコンのそばに移動した。移動するというたったそれだけのことなのに長い月日がかかった。ラジカセでFMを聞くと小さいトランジスタと違って音もまろやかに聞こえる。なぜ早くラジカセを手もとに、としきりに悔やむ。といってもちょっとしたことをやらないことはよくある。それもすべてはそのこと自体をそれほど必要としないことにあるのかもしれない。

 昨日 、某会の忘年会の知らせがハガキで届く。某会での忘年会はもしかしたら4年ぶり!?コロナ禍で忘年会など皆での食事会はほぼなかった。

 ネットによると忘年会も年々廃れているとか。職場を離れて20余年も経つと忘年会の出席も少なくなる。視力がよくないので夜は外へ出ない、と決めていた。しかし忘年会は夜にある。この時ばかりは夜であっても出席しよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 追伸)12月初めに行われる忘年会。この日はもともと、ツアーに参加を決めていた。が、そのツアーは何かを感じて先月末に変更して出かけた。今思うと旅を変更したのは幸いだった。

2023年11月6日月曜日

「したくないことははっきりと断る」

 今朝、ブログを投稿しようと思った。と、その前にパソコンを立ち上げてネット記事を見ると今の心境に当てはまる記事があった。それは「一度きりの人生、思うままに生きていい。鎌田實さんがすすめる『ちょうどいいわがまま』な生き方とは?」である。それは「したくないことははっきりと断る」。しかし、NO,というのは難しい。それでも意を決してNOといったことで最終的に好結果に結びつくこともあるとか。人生長いようで短い。かぎられた時間を年長者こそわがままに生きてもいいらしい。

 自分の意に適わない生き方をしているとそれがストレスとなり病気になる元になるかもしれない。それよりも思うように生きたい。今のところ元気。これを維持するためにも意のままに生きたい。今朝は電子辞書で「意」に関する項目を調べた。自分が使っている意味とは違うと知った言葉もあった。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年11月5日日曜日

『街道をゆく』(34)「中津・宇佐のみち」

 昨日は日本画教室の日。睡蓮を描いている。今朝は寝すぎて文が思いつかない。ずっと前に読んだ『街道をゆく』(34)「中津・宇佐のみち」(司馬遼太郎 文藝春秋、1997年第3刷)から気になる箇所を記そう。宇佐や中津はこの秋、行こうと思っていた。が、12月のツアーを10月末に変えたので宇佐へは行きそびれた。いつか必ず行こう!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★もともと八幡神は、古代、豊の国(豊前と豊後。今の大分県)から興った。豊の国のなかでも、豊前にあり、いまの中津市とそのとなりの宇佐市がこの神の故郷である。(198p)

★中津のとなりの宇佐市に大いなる神域を占める宇佐神宮(宇佐八幡宮)の最大の宗教行事は、神職たちが薦神社の池にやってきて真薦を刈ることである。刈られた薦は宗教上の手順をへて、これで枕がつくられるのである。その枕が宇佐神宮のご神体(御験・みしるしとも神座・かみくらともいう)とされ、八つの神社を巡幸するのである。行事は六年に一度だという。真薦生(お)うる池といい、薦枕(薦枕)と言い、ことごとく古代の風が吹きわたっている。音楽までがきこえてきそうである。(207p)

★目の前に大きく池がひろがっている。神格のようにも、人格にもうけとれる。もしこの家のような人格の人にめぐりあえれば、生涯の幸いにちがいない。……この池は、三角池(みすみいけ)、三角ヶ池、御澄(みすみ)池などと表記されるが、さほどにいい漢字ではなく、どうして漢字以前の古代人のように、「みすみが池」と、表音式に書かないのだろう。平安朝以後の神社は、社僧とよばれる僧侶たちの影響なのか、ひらがな蔑視で漢字をやたらと用いすぎる。伊勢神宮の行事の名称にもその弊があって、”おはらい”を”修祓”(しゅうばつ)などと書く。「こも神社」と、表音文字で書けば、古代以来のにおいがいっそうするとおもうのだが。(215p)

★私どもは、宇佐神宮の杜にいたった。まことに雄大な神聖森林で、まわりは堀にかこまれている。表参道をとおり、堀を見、かつ朱塗りの橋をわたると、大いなる朱塗りの鳥居の前に出た。くぐると、池がある。この神は、池を好むのである。薦神社のご神体が池であることを思いあわせたい。池は、いうまでもなく、農業用の用水池を象徴するもので、築堤能力をもつ秦氏の氏族的象徴でもあったろう。(243p)

★春宮同(とうぐうどう)という摂社のそばから林のなかに入った。林のなかは印象派絵画の世界だった。あのころの画家たちは、光を印象づけるために影を淡く紫色でえがいたのだが、この細長い林のなかは、それを証明するように落葉の一枚ずつが無数の紫の影をつくっていて、上からの木漏れ日のなかで輝いたり、ゆらめいたりしている。(253p)

★「登るか」自分に言いきかせて、のぼった。頂上は、朱と黄であふれていた。屋根は黒っぽい茶の檜皮でふかれている。建物のほうは朱塗りで、黄金の金具が打たれ、樋までが、黄金であることにおどろかされる。「宇佐の黄金樋(きんとい)」というのは、神社建築のなかでも、聞こえたものであるらしい。(253p)

★本宮を辞し。こんどは若宮坂の石段をくだることにした。坂は、イチイガシやクスの原生林のなかにあって、じつに気分がいい。柱の標柱をみると、この神宮はこの森のことを、「社叢」とよび、国指定の天然記念物の標柱を立てている。(258p)

★城下町には、寺町がある。中津にもある。もともと寺町は織豊時代の城下町づくりの一特徴で、いざ籠城というときの防衛線にするために、寺々を一ケ所にあつめておいたらしい。合元寺(ごうがんじ)がある。建物の塗もあわない。、塗塀も赤い。「赤壁(あかべい)」というのは一般的に印象的なもので、中国の宋・元のころの寺に多く、江戸期の長崎でたてられた中国ふうの寺も、赤壁である。日本人の好みでいうと、赤壁はかならずしもあわない。(277p)

★長政は、城にやってきた鎮房に酒食を供し、そのさなかににわかに殺した。また合元寺で待たせてあった鎮房の手勢については軍政をさしむけ、みなごろしにした。その血しぶきのあとが壁のあちこちにのこり、事件後、幾度塗りなおしてもなおあらわれるので、寺ではついに赤壁にした、というのが、合元寺伝説である。(285p)

★私どもは、福沢旧居にいる。……中津の家中は千五百人で、厳格に格づけされ、ペットの店で鳥獣が種類ごとに棚檻に入れられているように同身分のなかで跼蹐(きょくせき)し、婚姻縁組なども身分をこえることはなかった。(331p)

★私はこれを見てもそばから一人立腹して泣いたことがある。後年、かれが『学問のすゝめ』の冒頭に、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と書いたのは、万感がこめられているといっていい。右(ここでは上)の場合も、家老の不条理をみて、憤るだけでなく泣いたというのは、かれが、天成、独立自尊の性格だったことを思わせる。(333p)

2023年11月4日土曜日

グラナドスのアンダルーサ

 「陸海空 絶景全部見せます!世界自然遺産白神山地」がNHKのBSで放送された。白神山地と聞いても名前を聞いたくらいではっきりとは知らない。興味をもって番組を見た。見ているうちに「絶景」の意味がわかる。ブナの林が映し出される。見ながら是非とも一度は行きたい気持ちにかられる。場所は青森県と秋田県の境に位置するとか。青森県は一度出かけたことがあるが秋田県はさてさて。

 番組HPによると「秋田・青秋田・青森にまたがる白神山地。原生的なブナの森が広大な規模で残され、貴重な生きものの生態系が維持されている。 1993年に、国内でいち早く世界自然遺産に登録された。森が持つ水を蓄えるチカラや生物多様性も注目されている。しかし、この森はずっと手つかずだったわけではない。マタギの狩猟や木の切り出しなど、伝統的に人々が利用してきた。なのになぜ豊かなブナ林が守られてきたのか。紅葉が鮮やかな季節、森と水辺を中継で結び、ブナの森の生命の豊かさや人と森の交流の物語を伝える」とある。

 戦後、ブナ林は一部伐採されて杉が植えられたそうだ。杉は成長が早いがブナほど水を貯えないとか。そのため杉の栽培はやめて再びブナを植えた。ブナの落ち葉はたい肥となって土にかえる。こうしてブナ林は守られた。クマはブナの実を好む。しかしクマがブナの実を食い尽くすとブナが育たない。この辺もクマとの共生で折り合いがついているようだ。
 
 日本は小さな国と言ってもいいところがいっぱいある。特にこの季節、ブナ林からの中継は見ているだけではなく行きたい気持ちに誘われる。テレビ越しに写真を、と何度か試みるもゲストの姿が映ってしまい、思うように撮れなかった。残念!これは見に行くしかない!?
 気持ちを変えて久しぶりに以前さらった曲の楽譜を出してフルートを吹く。今まで吹いていたアルビノーニのアダージョは綺麗な曲だが暗すぎる。しばらくはグラナドスのアンダルーサを練習しよう!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年11月3日金曜日

『街道をゆく』(34)「大徳寺散歩」

 『街道をゆく』(34)「大徳寺散歩」(司馬遼太郎 文藝春秋、1997年第3刷)から気になる箇所を記そう。最後に記した出石の宗鏡寺はいつか行きたいと思っている。早速、行きたいリストにメモした。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★真珠庵は、いかにもその名が美しい。大徳寺を行政的に束ねる本坊の北にある。有名な枯山水の庭を持つ大仙院と接し、さらにその北に、関ヶ原のあと、加賀の前田利家の未亡人マツ(芳春院)が寄進した、芳春院がある。芳春院には、小堀遠州(一五七九~一六四七)が設計したとされる美しい二重楼閣があって、このあたりには、桃山文化や日本史が、ぎっしり詰まっている。真珠庵は、建物も庭も美しい。(51p)

★真珠庵にいる。本堂に、一休書の一行ものの墨跡が、二幅になって、聯のように掛けられている。すみずみまで力があふれているだけでなく、えもいえず優美なのである。さらにいえば、信じがたいほどに清らかな魂魄が、たかだかと天に架かっている。

 諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)

 いっていることは、それだけである。”わるいことをするな、いいことをせよ”というだけの意味である。(91p)

★黒地に白く”金毛閣”と大書された扁額がたかだかかかげられている。金毛とは、金毛の獅子のことで、すぐれた禅僧のことをいう(『雲門録』上)。精神の王者と解してもいい。……中国の宮殿の正門のようなものを、豊臣時代に建ててしまったのである。当時もその後も、御所十二門の第一門ともいうべき建礼門でさえ、この門にくらべれば、古雅で、ささやかで、じつに小さい。……このように、おそるべき楼門を建てた人が、わび茶の完成者である千利休(一五二二~九一)であったことにおどろかされる。(108p)

★かつて、私は沢庵にゆかりのある出石の宗鏡寺(すきょうじ)をたずねたことがあり、周りのたたずまいもよくて、このあたりを故郷にすれば生涯わすれがたいだろうとおもった。沢庵も、この故郷が好きで、一生のうちで何度も帰っている。(123p)                                                 

2023年11月2日木曜日

メール添付の旅の最終日程表

バッタは椿の葉っぱにいた
 マリーゴールドが咲き終わってバッタを見かけなくなった、と思ったら今度は椿の葉っぱにいた。それも2組もいる。

  先日、11月中旬の日帰り旅をネットで申し込んだ。この旅はいつも利用する会社とは異なるが以前はよく利用していた。先日、この旅の最終日程表がメールで送信されてきた。旅の日程表はこれまでどこの会社も紙の日程表だ。パソコンにとどいたメールを見ると添付がある。この添付資料を開くとQRコード作成の文が表示される。そのQRコードをスマホで読み取ってスマホのギャラクシーnoteに日程表を保存した。

 ここまではいいのだが、どういっても日程を見るだけならば紙が便利だ。元添乗員をしていた友だちに話すと自分だったら旅行社にお願いして紙の日程表を旅行当日添乗員に持って来てもらう、という。そう聞いて旅行社に電話でお願いすると係は2人変わったが何とかOKになった。

 旅といえば今のような旅の通販とかネットのない時代、旅行社の窓口に出かけて旅を組んでもらっていた。時代が変わるにつれてツアーも増え、旅の通販の時代になる。ところが今回のように申し込みから最終日程までネットの時代になっている。これは便利、といえるのだろうか。と言いつつもナニゴトも時代について行かないと遊びにも行けなくなりそうだ。

 広島から昨年3月に大手旅行社の大半は撤退した。そのため地元のバス会社が運営する旅に参加している。しかしこれだと国内の遠方や海外は到底行かれそうにない。コロナ禍前のように大手旅行社が地元で営業を再開し、広島発着の旅に出かけたい。それはいつ!?もしかしたらそれはもう不可能!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年11月1日水曜日

愛媛の旅その2

 愛媛の旅その1から続く。

 1日目 2023年10月29日(日)

 16時に宿に着いた。18時の夕飯まで仮眠しようとした。スマホをアラームにして寝ていたら、途中でスマホの音がして触ってしまった。それがいけなかったのだろう。そのままにして仮眠した。起きるとスマホの画面がカラー表示でなくモノクロだ。(困った!)と思ってカラーに戻そうとするもできない。そのままにして夕飯に出かけた。ビュッフェで席も各自自由だ。宿は奥道後壱湯の守で広い食事会場に中国語やハングル語が飛び交う。ましてや各自お膳ではなくビュッフェなので賑やかなことこの上ない。さらに疲れが増してくる。

 ツアーの人と座っていると添乗員も加わった。ビュッフェなのでその場で料理をしてくれるシェフがいる。そしてそれを狙って料理を取りに行く。時に人のお皿を見て「その料理は何処に?」と聞いたりして料理を探してお皿に入れる。

 食事をしながら旅の話題で盛り上がる。と、その時、ツアーの人が突然切れた!これにはびっくり仰天。歳を取ると切れる人がいるとは聞いてはいたがその光景を目の当たりにするとは……。茫然と見ていた。その人はバツが悪くなったのか途中でだまって席を立った。その後は添乗員と和気藹々といただく。

 食事前にその人とお風呂へ行こうと約束していた。が、部屋に戻ると隣の部屋にノックしてすぐにお風呂へ行くと言って一緒には行かなかった。切れる人と一緒にいてはたまったものではない。翌日も「触らぬ神に祟りなし」の諺通りその人に近づかないようにした。

 お風呂から戻るとスマホのモノクロが気になる。何度かスマホに問いかけて試行錯誤するうちにカラーにもどった。これで安眠できる。早めに就寝!

 2日目 2023年10月30日(月)

 ホテルを9時に出発。この日の観光は石手寺と松山城だ。石手寺は母たちと来た気がするがあまり覚えていない。11名のツアーのうち4名が旅仲間だそうだ。話すうちに旅仲間に入れられるような雰囲気になる。この話に乗ってはいけない、と戒めて適当に話をする。それでも名前などを聞いてくる。

 どこに行ってもすぐに人と馴染むところがある。志が同じ人であればつるんでもいいがそうでないヒトとはどうでもいい。それでなくても前夜の夕飯で突如切れる人を見た。近づいてくる人は一緒に出かける旅仲間を求めている。おっとどっこい、そんな話には決して乗りませぬ。見るからに自分とは合わない人たちだ。

 松山城に着いた。初めていくお城だが前日の今治城と違って現存する数少ないお城だとか。見るからにお城の威厳を感じる。城は標高132mのところにある。各自、お城までロープウエイかリフトに乗って行く。行きも帰りもリフトに乗った。久々のリフトだったが好天に恵まれて乗っていても気持ちがいい。松山城でもガイドが付いた。

リフトに乗って松山城へ
反った石垣が特徴らしい
元旦だけ汲まれた井戸水が参拝客に振る舞われるとか
松山城
お城から見下ろす松山市内
お城から見下ろす
桜の大木
 松山城内をガイドについて観光中、姫路城を思いだす。姫路城も松山城も狭い急な階段を上り下りする。先に上った人が下りるまで上る人は待たねばならない。それくらい狭い階段だ。また城内は暗く、スリッパで歩く。スリッパをはかずに歩けばよかった、と思ったのも後の祭り。どうにか怪我もせずに上った。

 松山城は松山市内のどこから見てもわかる位置にあるそうだ。そのため上に登ると松山城下がよく見渡せた。

 松山城を観光後、来島海峡SAで各自お昼をいただく。前日に下見していた鯛めしなどを来島海峡大橋などを眺めながらいただく。ここのSAは広くてお土産も充実している。少しだけお土産を買った。

 それにしても今年は愛媛の旅もそうだが本州と四国への連絡ルートである瀬戸内しまなみ海道を何度通ったことか。今月下旬にも通る予定。

 話は戻って、ブログを投稿中ネット記事に目が行く。それは「心地よい人間関係を長く続けていくにはどうすればよいのか。エッセイストの松浦弥太郎さんは『一人でいられる自分をつくる。人と群れないことで、さまざまなストレスは減っていくし、自分を見失わず、心がおだやかな状態を保って築く人間関係のほうが、長く続いていく』という――」とある。自分自身もそう思っている。ストレスは人との関係にある。ヒト、モノ、コトとの関係は適当に適当に!今回の旅もそう感じた。
 
 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!