『韃靼疾風録』(下)(司馬遼太郎 中央公論社、1991年)を読んだ。清は明を征服する際、漢人に辮髪を強いた。漢人と女真人(満洲族)を髪型によって見わけ、それに逆らう者は刑に処した。このくだりは最初に記す。辮髪が明から清に代わる時の大事な役目を担っていたとは、なんとも驚き!
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★”清朝”と称してはみたものの、その点の心もとなさは、一山の蟻を一人でのこらずつまみとろうとする空想に似ていた。女真人の人口は、せいぜい五、六十万人で、兵となると後方勤務や病人まで入れて十数万でしかなかった。この人数で中国大陸を征服しようとしている。ここまでくれば制服しかなく、もし長城外の故郷へ退きかえせば、士気がおとろえ、それにひきかえ旧明の勢力が勢いをえて逆にこの辺境の少数民族を押しつぶすだろう。征服するには、強制辮髪しかない。……すでにふれたように庶民をも辮髪にさせてきた。……さからう者はこれを殺す。殺すべきものがひとめでわかるのである。ひとびとは殺されまいとして辮髪にしたし、以後もそうなるであろう。……「辮髪」なんと異様なものであろう。それにしても、辮髪を国是とし、それでもって領域を広げて行った帝国は、世界史にない。……辮髪について、以下は余談になるが、主な地方において、旧明の勢いがつよい反発をみせつつも、清の勢力がかろうじて固まりはじめた時期、睿親王は容赦なくこれを強制することに踏みきった。反抗する者は、見せしめとして次々と刑殺した。床屋が、臨時の警吏になった。かれらは、剃刀の入った道具箱をかついで、町々をふれまわったのである。(476-478p)
★人は生物として臆病にできていて、本来、勇気のある者がいるとすれば、精神になにごとかが欠ける者といわねばならない。勇気は訓練と条件によってうまれるもので、そういうことでいえば武科の出身でもない袁崇煥はその種の訓練をうけたことがなかった。かれの勇気は、主知的にみずから作ったものであった。この点でも、かれは将としての性格をもっていたことになる。(37p)
★このあと袁崇煥はかれの部屋の諸将をあつめ、ひたすらなる忠義を説いた。袁はついに激し、刃をぬいてわが腕を撃ち、あふれる血をもって、忠義という文字を書いた。諸将はこれによって奮ったといわれる。忠とはマジメという意味であり、義は自然の情(じょう)にそむく無理なことを倫理上の要求でもってやることをいう。明室への忠義など、明人の感情には乏しいものであった。袁崇煥というのはこの時代の一希士であったといっていい。(39-40p)
★明の歴世のくるしみは、北虜南倭であった。北虜とは、明の領域の北部をさわがすモンゴル人のことであり、南倭とは、領域の南(揚子江とその南)を侵す日本海賊をさす。……北虜といい、南倭といい、明初や明の中期からみるといまははなはだしずかな状態になっているが、意外にも明朝の歴世が軽視し、警戒の必要もないほど団結力がないとしてきた女真族が、蜘蛛のように沸き起こっているのである。蘇州商人の若い手代が話している日本についての不安は、おそらくこういうことであったろう。(56p)
★天が皇帝の姓を他の姓に易(か)える。つまりは天命を革(あらた)める。そのことを易姓革命という。(62p)
★野蛮人のことを中国では、夷といい、胡といい、狄(てき)といい、また蛮という。いずれにしても、――沼沢で魚やスッポンにまみれてくらしているか、それとも草原で五畜とともに暮らし、動物同然のきたならしい連中。というのが、古代以来の野蛮人観だった。かれらは人ではなかった。(104p)
★「満洲」ということばが出てくる。新語にちかい。満洲とは、ホンタイジは民族呼称のつもりで使っているのである。当初は地名ではなかった。ついでながら、満洲というのは、漢民族がつくりだしたことばではない。先代のヌルハチ(太祖)が、民族名についてこれを女真とよぶことを好まず、しばしばマンジュ・グルン(グルンは国)とよんだ。マンジュについて漢族は満住などという文字をあてたが、ホンタイジは、漢字表記として満洲をあてた。人をさし、まれに地名をもあらわす。……「清」という独立国だけを、マンジュの地につくったのである。……――人を捕る。これが、ホンタイジ一代の政策の一つといってよかった。人を刈り捕ってマンジュにし、人口をふやし、国らしくするのである。(118-119p)
★女真の側から見てのホンタイジの功は、まず第一に蒙古賊を帰順させて武力を強化したということになるであろう。ついで、略奪した漢人に農地を拓かせることで、慢性的な女真の食料不足をすこしは改善したということになる。ともかくも、ホンタイジの存在は、巨大だった。漢人の官吏たちは、この異民族の皇帝のために、中国皇帝のような廟号をえらんだ。「太宗」なんときらびやかな廟号だろう。(131p)
★鄭成功はのち明の流亡の王から朱という国姓をもらい、忠公伯に封ぜられたことから、国姓爺(こくせいや)とよばれたりした。その呼称は日本にもつたわり、近松門左衛門が「国性爺合戦」として書き、上演された。鄭成功の後半生は華麗で、悲壮だった。しばしば清軍をおびやかす一方、オランダ人の拠る台湾を攻め、降伏させてここを中国領として確定させたりもした。ただ寿は短かった。三十八歳で急死し、その雄図(ゆうと)もはかなくなった。(203p)
★洪承疇にあたえられたあたらしい軍職の呼称は葪(けい)遼総督というものだった。葪とは北京付近の地名である。葪という文字があることから、その軍事権は北京付近までおよぶ。遼という文字は、その後のいわゆる満洲を示している。北京周辺から満洲にいたるまでの広大な地域の指揮権を持ったのである。(223p)
★毅宗は北京を守るべき優勢な軍のないことに狼狽し、明朝最大の軍ともいうべき呉三桂の軍をよびかえした。呉三桂は寧遠城を空(から)にし、将兵および住民五十万をひきい、山海関をくぐって北京に急行したが、その途中、信じがたいことに北京城は李自成によって陥された、という報に接したのである。……明は瞬時に亡び、この大陸を統治することに百七十六年という王朝の末路にしては、ほとんど瀕死にちかかった。(316p)
★順王朝と”皇帝”李自成が歴史に公認されることなく、単なる賊としてあつかわれたのは『明史』の編纂態度にもよる。ついでながら、中国の雄大な慣習として、一つの王朝が終わると、それに取って代わったつぎの王朝が、前王朝の正史を編纂することがある。その慣習に従って、明のあとの清は『明史』を編纂した。(330p)
★「山海関の門を開けろ。――」この一声が歴史を変えた。清軍が明の本土になだれ込ませろ、といったも同然だった。明のために山海関の大関門を守ってきたこの将軍が、その任務を放棄したばかりか、異民族を洪水のようにこちら側に入れさせるという。史上、呉三桂ほど、劇的な立場にいた者はいなかった。……山海関を開けることによって、異民族の清が成立した。かれは、異民族国土そのものを売った。動機は、女だった。漢民族の一将が、陳円円をうばったことに憤り、面当てとして異民族に国を売ったことになる。(381-382p)
★女真。――これは、古称である。自称はマンジュ(満洲)、蔑称は満韃子(マンダーツ)、東韃など、民族の呼称さえ定まらぬこのツングース系のひとびとは、ついに、「清」と自称し、広大な旧明の城内に乱入したのである。(438p)
★阿蘭陀通詞(おらんだつうじ)の場合は通詞と書き、唐通事の場合は、慣例上、通事と書く。おなじ身分の職で、外国文書の取り扱いと通訳、さらには事務官として貿易の業務をあつかう。身分は堂々たる士分である。(504p)
★清朝以後、現在にいたるまで、中国では「満洲」または満洲族とよばれている。……満洲とは本来地名ではない。(地名なら満州とでも表記するところである。)満洲とは民族名で、こんにちでも中国においてはその使われ方はかわらない。(525p)
★清朝のころは、北京の満洲人たちは”旗人”とよばれ、貴族というほどの語感と内容をもつ階層を形成していた。減満興漢の大合唱のなかで清朝がくずれ去ったあと、遺民たちは満洲人であることを秘し、中国の姓名を称した。故郷の東北地方にいたひとびとも、満洲人であることを積極的にいわず、固有満洲語をつかうこともはばかったため、ことばも死語同然になった。二十世紀初頭まで中国を支配していた王朝の言語が死語同然になるなど、劇的といっていい。(533p)
★漢族の文化に同化したといえば、旗人たちは北京では中国語をつかった。かれらのつかう中国語が、北京官話とよばれたのである。キングス・イングリッシュというようなものであった。「北京官話」とは、新中国以前に存在した標準中国語のことをさし、また清朝高官(マンダリン)のことばでもあった。ここには多分に満州発音が入っている。(535p 女真人来り去る――あとがきにかえて)
★モンゴル高原のオルホン河川流域で遊牧していたタタール族の名が北アジアの遊牧民ぜんたいの呼称になったのである。さらにひろがって、十三世紀のチンギス・ハーンの民族そのものをさすようになった。が、この作品に登場する民族は、韃靼(タタール)――モンゴル人――のように世界史のブロード・ウエイを往来したひとびとではない。現在でいう中国東北地方の山間や河川に散居していた小さな素朴民族のことを、ここでは韃靼とよんでいる。かれらにつては、モンゴル人たちが「ああ、豚を買っている連中か」と、一格下げのようにみていた。かれらのことを、漢民族は、古来、女真人とよび、ときに満洲(マンチュウ)とか、”満韃子(マンダーツ)”とよんだ。(554p 文庫本のために)