2023年11月5日日曜日

『街道をゆく』(34)「中津・宇佐のみち」

 昨日は日本画教室の日。睡蓮を描いている。今朝は寝すぎて文が思いつかない。ずっと前に読んだ『街道をゆく』(34)「中津・宇佐のみち」(司馬遼太郎 文藝春秋、1997年第3刷)から気になる箇所を記そう。宇佐や中津はこの秋、行こうと思っていた。が、12月のツアーを10月末に変えたので宇佐へは行きそびれた。いつか必ず行こう!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★もともと八幡神は、古代、豊の国(豊前と豊後。今の大分県)から興った。豊の国のなかでも、豊前にあり、いまの中津市とそのとなりの宇佐市がこの神の故郷である。(198p)

★中津のとなりの宇佐市に大いなる神域を占める宇佐神宮(宇佐八幡宮)の最大の宗教行事は、神職たちが薦神社の池にやってきて真薦を刈ることである。刈られた薦は宗教上の手順をへて、これで枕がつくられるのである。その枕が宇佐神宮のご神体(御験・みしるしとも神座・かみくらともいう)とされ、八つの神社を巡幸するのである。行事は六年に一度だという。真薦生(お)うる池といい、薦枕(薦枕)と言い、ことごとく古代の風が吹きわたっている。音楽までがきこえてきそうである。(207p)

★目の前に大きく池がひろがっている。神格のようにも、人格にもうけとれる。もしこの家のような人格の人にめぐりあえれば、生涯の幸いにちがいない。……この池は、三角池(みすみいけ)、三角ヶ池、御澄(みすみ)池などと表記されるが、さほどにいい漢字ではなく、どうして漢字以前の古代人のように、「みすみが池」と、表音式に書かないのだろう。平安朝以後の神社は、社僧とよばれる僧侶たちの影響なのか、ひらがな蔑視で漢字をやたらと用いすぎる。伊勢神宮の行事の名称にもその弊があって、”おはらい”を”修祓”(しゅうばつ)などと書く。「こも神社」と、表音文字で書けば、古代以来のにおいがいっそうするとおもうのだが。(215p)

★私どもは、宇佐神宮の杜にいたった。まことに雄大な神聖森林で、まわりは堀にかこまれている。表参道をとおり、堀を見、かつ朱塗りの橋をわたると、大いなる朱塗りの鳥居の前に出た。くぐると、池がある。この神は、池を好むのである。薦神社のご神体が池であることを思いあわせたい。池は、いうまでもなく、農業用の用水池を象徴するもので、築堤能力をもつ秦氏の氏族的象徴でもあったろう。(243p)

★春宮同(とうぐうどう)という摂社のそばから林のなかに入った。林のなかは印象派絵画の世界だった。あのころの画家たちは、光を印象づけるために影を淡く紫色でえがいたのだが、この細長い林のなかは、それを証明するように落葉の一枚ずつが無数の紫の影をつくっていて、上からの木漏れ日のなかで輝いたり、ゆらめいたりしている。(253p)

★「登るか」自分に言いきかせて、のぼった。頂上は、朱と黄であふれていた。屋根は黒っぽい茶の檜皮でふかれている。建物のほうは朱塗りで、黄金の金具が打たれ、樋までが、黄金であることにおどろかされる。「宇佐の黄金樋(きんとい)」というのは、神社建築のなかでも、聞こえたものであるらしい。(253p)

★本宮を辞し。こんどは若宮坂の石段をくだることにした。坂は、イチイガシやクスの原生林のなかにあって、じつに気分がいい。柱の標柱をみると、この神宮はこの森のことを、「社叢」とよび、国指定の天然記念物の標柱を立てている。(258p)

★城下町には、寺町がある。中津にもある。もともと寺町は織豊時代の城下町づくりの一特徴で、いざ籠城というときの防衛線にするために、寺々を一ケ所にあつめておいたらしい。合元寺(ごうがんじ)がある。建物の塗もあわない。、塗塀も赤い。「赤壁(あかべい)」というのは一般的に印象的なもので、中国の宋・元のころの寺に多く、江戸期の長崎でたてられた中国ふうの寺も、赤壁である。日本人の好みでいうと、赤壁はかならずしもあわない。(277p)

★長政は、城にやってきた鎮房に酒食を供し、そのさなかににわかに殺した。また合元寺で待たせてあった鎮房の手勢については軍政をさしむけ、みなごろしにした。その血しぶきのあとが壁のあちこちにのこり、事件後、幾度塗りなおしてもなおあらわれるので、寺ではついに赤壁にした、というのが、合元寺伝説である。(285p)

★私どもは、福沢旧居にいる。……中津の家中は千五百人で、厳格に格づけされ、ペットの店で鳥獣が種類ごとに棚檻に入れられているように同身分のなかで跼蹐(きょくせき)し、婚姻縁組なども身分をこえることはなかった。(331p)

★私はこれを見てもそばから一人立腹して泣いたことがある。後年、かれが『学問のすゝめ』の冒頭に、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と書いたのは、万感がこめられているといっていい。右(ここでは上)の場合も、家老の不条理をみて、憤るだけでなく泣いたというのは、かれが、天成、独立自尊の性格だったことを思わせる。(333p)

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