2019年4月26日金曜日

『竜馬がゆく』(5)

 昨日で『竜馬がゆく』(6)を読み終えて(7)を借りる。文庫本は(8)まである。『坂の上の雲』に魅せらて以降、『竜馬がゆく』にも惹かれた。あともう少しでこの本を読み終える。さて次の司馬作品?『竜馬がゆく』を読みながら、一昨日は電子辞書で『阿Q正伝』を読む。著作権切れとなった名作が家に居ながらにしてすぐに読める。便利な世の中だ。音楽もそうだ。著作権切れの楽譜もネットで瞬時にコピーできるとフルートの先生から聞いて知る。またネットでは日本の著作権切れの作品も読める。

 本を読む暇暇に台湾の旅の写真を編集画面に取り込む。ブログ作成も手順があり、どうやったら手間暇かけずに編集できるか試行錯誤が続く。これも旅の後の楽しみとなる。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は読み終えた『竜馬がゆく』(5)(司馬遼太郎 文藝春秋,2013年,新装版第24刷)から気になる個所を抜粋したもの。『坂の上の雲』と『竜馬がゆく』を読み進めて少しずつ幕末から維新のことがわかってくる。切腹や首を刎ねることは武士の日常茶飯事と知る。しかし、竜馬は人を殺すことだけはしなかった。だが、人を殺して上からよくやったと認められたものがその後、爵位を授かる。竜馬はこれを嫌い、天皇を中心にして皆同じ地位にしようと奔走した。

★(わずか、百や二百の浪士の手で三百年の幕府が倒れるはずがない)
成らぬことは成らぬ、と竜馬は思った。成るには時の勢いというものが要る。
(いまは。力を培養するときだ。その時機を辛抱できぬのは男ではない)
竜馬は、瀬戸内海の制海権をにぎる日を夢見つづている。その以前に、動かす術もろくに覚えておらぬ時期に、京都で子供じみた闘争に参加して何になるか。
ぞう、みんなに説いた。52-53p

★徳川幕府というのは、日本史上でもっとも(あるいは唯一の)諜報、密告、誘導、相互監視といった暗い能力に長けた政府であった。この能力が、この政権の特徴、体臭にまでなっている。それ以前の豊臣政権、足利政権にはこういう傾向が皆無といってよく、このために後世への印象が、徳川政権よりもはるかにあかるい。幕府はそのお家芸ともいうべき能力を発揮しはじめた。67p

★武州百姓の理念が、そのまま新選組の思想といっていい。
単純な剣士が多く、単純ながらも「士道に斃れ」ようという気概が強烈で、その意味でも、そのつよい結束力の点でも、日本史上最強の剣客結社といっていいだろう。100p

★幕府はこの「戦功」を大いによろこび、京都守護職に対し、感状をくだした。武将への感状などというものは戦国時代のもので、徳川期に入ってからも、島原の乱いらい絶えてなかったものである。
つまり、一国の政府である幕府は軽率にもこの事件の性格を治安問題とせず、すでに「戦争」であるとした。「感状」」はその証拠であろう。
自然、京を戦場とみたことになる。同時に長州藩および長州系浪士を、敵とみた。その意味でもこの変事は、幕末政治史上の重要な事件であった。長州藩としては、自藩の者を斬られて感状まで出されては、深く決せざるをえまい。118-119p

★なぜ、幕吏は、憂国決死の徒を、野犬のごとく打殺せねばならぬか。
そのことへの悲憤、それに自分の奔走の挫折、さらに死者への傷みなどがいりまじって、竜馬は半刻ばかり後ころがりまわって、泣いた。
 半刻ほどして、さな子も知った。京の池田屋ノ変を、である。125p

★「わしが倒す。吉村らの天誅組はほろび、国もとの武市党はほろび、京の北添らはほろんだが、世に坂本竜馬があるかぎり、徳川幕府は無事ではない」
竜馬の頬に、涙のあとが残っている。
 この紙をもらう、とたったいまさな子が畳の蝋をぬぐった紙で、顔をしごしごぬぐいはじめた。
涙痕が消え、蝋がついた。128p

★天王山は、京と大坂をむすぶ淀川ぞいにうずくまっている。
標高二百七〇メートルにすぎぬ小山だが、歴史的にこれほど高名な山もない。遠く天正十年のむかし、明智光秀と羽柴秀吉とがこの戦術的な高地をうばいあってついに秀吉がおだえ、山城山崎合戦を勝利にみちびいたことで、名がある。
勝負のやまばのことを、「いまが天王山」というのはここからうまれた。
その天王山に長州軍の本営の一つがある。145p

★結局は。――
天皇の奪りあいである。
この点、将棋とかわらない。王をとったほうが勝ちである。
天皇は詔勅機関にすぎない。これをうばい、擁し、自分の敵方を「朝敵」とし、天下の兵をあつめて討伐し、自分の好きな体制をつくる。
余談だが、明治維新の戦略的本質もここにある。徳川幕府は、天皇を奪いそこね、薩長土三藩の手に渡してしまったために朝敵となり、天下の兵の袋だたきにあってほろんでしまった。
西郷はこの本質をよく知っていた。かれは格調の高い理想家であったが、同時に現実の本質を知っている。159p

★ 京の異変を知った勝は、機敏に行動している。
竜馬に命じて、兵庫沖に碇泊中の練習船観光丸の錨をあげさせ大坂へ急行した。
「諸事、この眼で見ねばわからぬ」
というのが、勝と竜馬の行き方である。現場を見たうえ、物事を考える。見もせぬことをつべこべ言っているのは、いかに理屈がおもしろくても空論にすぎぬ、というのが、この二人の行き方であった。かれらは、すぐれたジャーナリストの一面をもっていたといっていい。193p

★天皇は条約に否というときが多い。このため相手先の外国まで迷惑した。
当然、統一政権ができねばならない。それを、天皇中心でやるか、将軍中心でやるかで勤王、佐幕論がおこった。
勝は、内心、割りきっている。
(時代の勢いというものだ。いよいよ衰弱していく幕府に、強力な統一政治が今後のぞめるはずがない。幕府が倒れ、京都中心の世が来るのは、幕臣として悲しくも、日本にとってそれしかない)が、勝は、幕府を倒す「勢力」が問題だとおもっていた。いまの長州人に倒されては、どんな政府ができるだろう。……西郷・坂本というあたりに倒されれば、日本も幕府もふたつながら幸いだ、と勝はつけくわえた。200p

★勝には、妖精のにおいがする。そのいたずっらぽさ、底知れぬ知恵、幕臣という立場を超越しているその発想力、しかも時流のわきにいながら、神だけが知っているはずの時流の転轍機がどこにあるかを知っている。さらに竜馬と西郷という転轍手を発見し、さりげなく会わせようとするあたり、この男の存在は、神が日本の幕末の混乱をあわれんで派遣したいっぴきの妖精としか思えない。219p

★西郷は、このイヤシゴロにこだわって弁解したことでもわかるように、欲を去ることを終生の自己教育の目標にしていた。
「おのれを愛するなかれ」
というのが、かれの自己宗教の唯一の教義であった。かれは。幼少のころ読書がきらいで、休吾という家僕にさえ苦情をいわれたほどだが、二度の島流しのあいだに非常な読書家になり、——どういう人間が大事業をなせるか、を考え、ついに結論をえた。
「命も要らず、名も要らず、官位も金も要らぬ人は、始末にこまるものなり。この始末にこまる人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬものなり」
竜馬もこれに似た語録がある。かれの場合は西郷より逆説的で、西郷のような宗教性はないが、それだけにするどい。勝が竜馬を「抜け目のない西郷」といったゆえんだろう。271-272p

★竜馬は、京の薩摩藩邸にかけあってこの前代未聞の計画を実現すべく、摂津神戸村から京をめざしてやってきたのである。
坂竜飛騰
ということばがある。竜馬をいっぴきの竜になぞらえ、この竜が孤剣幕末の風雲をつかんで馳せのぼってゆく颯爽たる姿をことばにしたものだが、この時期こそ「坂竜」の飛騰しようとする寸前だったといっていい。
が、酒を飲んでいる竜馬には、まるで逆な沈鬱さがあった。298p

★竜馬は、勝のような人物を理解できぬばかりか古草履のように捨ててしまう幕府というものをはげしく憎んだ。
「大久保さん、雀でも米ばかりは食わん。虫も食いおる。世に無益なものはないと言いますが、例外は幕府ですな。こればっかりは日本に無益なばかりか、害がある」
「坂本君」
大久保は閉口した。388p

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