2014年8月13日水曜日

『にっぽん巡礼』

今朝はお寺からお盆の法要に参られる。朝から仏壇を開けて待っている。姉夫婦も参ってくれる予定。しばし、落ち着かない時間をもて余す。

昨日は久しぶりのフルートレッスン。練習不足は否めない。お盆の間にもとの状態を取り戻そう。今日は法要のあとはお墓参り。暑い一日となりそう。今日も元気を出して!

以下は以前に読んだ本の抜粋。

『にっぽん巡礼』(山折哲雄 創元社,2010年)、サブタイトルは「漂伯の思いやま,ず」。

本の裏表紙には「本書は“聖地巡礼”の書ではありません。日常の暮らしのなかでふと案じた生の喜びをバネにした、自由で果てしないこころの巡礼の記録です。読者は著者と一緒に、日本および日本人の先人たちの息吹に触れて思いがけず宗教を感じたり、自分の住む街のたたずまいに新鮮な発見をすることができるでしょう。」。

★イスラエルの砂漠。砂漠の地域をバスで旅しながら思ったことは、この地上には頼るべきものが何一つない、ということだった。天上のかなたに唯一価値あるもの、絶対的な神を想定せざるを得なかった砂漠の民の精神的な願望というものが、理屈を超えて迫ってきたのである。一神教が成立する風土的な背景といったらいいであろうか。そしてそのような風土において天上の唯一の神は、それを信ずるか信じないか、それ以外に考えようのない存在に思えた。そういう意味では、キリスト教はもとより、イスラーム教もこの信ずる宗教に属しているように思えるのである。…豊かな風土は砂漠の世界から帰ってきた者の目にはまるで天国そのものに映った。…多神教的な宗教が発生する風土的な基盤がそこにあるといってもいいのではないか。…日本の豊かな森のなか、自然のなかに入っていくと、その森のなか、自然のなかから神の声が聞こえてくる。仏の声が聞こえてくる。そして人の声、ご先祖様の声がきこえてくるような気がする。…神や仏の気配を感じて身を慎み、日常の生活を送るようになった。日本列島における感ずる宗教が、このようにして誕生するようになったと思わないわけにはいかないのである。131-132p

★宗教には、どんな宗教であれ、二つの大きなテーマにたいする挑戦が重要な課題とされた。その二つとは、
人間いかに生きるべきか
人間いかに死ぬべきか
という課題である。143p

★宗教の究極の目的は何か、ということもよくいわれる。…仏教の場合の「悟り」、キリスト教でいう「救い」といったことがしばしば論じられてきた。しかし、この「悟り」というのも、「救い」という場合も、われわれの生活の現場における実感からすれば、そのような目標に到達するために「いかに生き」、そして「いかに死んでいくか」という問題に帰着するのではないか。143-144p

★仏教においては歴史的にさまざまな流派が形成されて、そのような二つの課題に対して認識の違いが生ずることになった。…密教や禅の系統は「人間いかに生きるべきか」のほうに重点を置き、これにたいして浄土教の系統は、むしろ「人間いかに死ぬべきか」の問題意識を掲げて発展してきた。144p

★人間というのは、最終的には死ぬべき存在なのではない、仏として生き抜くべき存在であるといっているわけである。だから空海の密教には、はじめから「死」のイメージは宿ってはいない。「死」のイメージを、その密教的な宇宙観から追放している。145-146p

★これにたいして、法然や親鸞の仏教はそうではなかった。…かれらの思考の軸は、空海や道元のそれとはちょうど逆のほうこうに向けられていた。…それが「浄土」という世界であった。また、「人間はその死後、いったいどこの行くのか」という問題意識であった。146-147p

★われわれの人生観もこれまでの五十年単位の生死観の代わりに、八十年単位の「生老病死観」ということになるのではないだろうか。そのような新時代に入った今日、先に述べたような日本仏教におけるオンリー・ワンの棲み分け体制は、すでに時代遅れになった体制であるというほかはないのである。…オンリー・ワンの独善路線を改める工夫が時代によって要請されているというとである。そしてそのことが、結局は、人生八十年を生きたブッダの思想的原点にもどることにもつながり、今日の高齢化社会で苦しみ、悩んでいる人々の心に近づくための道ではないかと思うのである。151-152p

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