2013年2月5日火曜日

『老いを生き抜く』

今日の最高気温9度、最低気温1度の予報で雪だるまのマークが出ている。寒くなるのだろうか。

今日は火曜日。忙しい火曜日は先週で終わり、ゆっくりとした火曜日が今日から始まる。

何かせかされている感覚の「試験」。それから解放され、かなり気分は楽になる。気楽ついでに昨日は「お雛様女子会」の一斉メールを送信する。すぐに皆から返信メールも届く。楽しい会にしよう。

昨日はパッとしないお天気で、雨が上がった隙を狙って自転車でスーパーへ行く。買い物を済ませた後は家で大人しくする。その合間に、友だちに電話して節分草を見に行こうと誘うとOKだった。バス旅に申し込んだが、催行されるかどうかが問題。昨年も申し込んで結局催行されず・・・。

夕食後、昨夜が誕生日の東京にいる姪に電話をする。姪は数日するとマレーシアへ行くという。その前に母の三回忌があると話すとお参りするという。遠くにいるので声をかけていなかった。そういってくれて嬉しい。だが、姪はその翌々日旅に出る。お参りしなくていいので暖かくなったら顔を見せて、と話すと、「バアに悪いね」といってくれる。ありがたい!

以下は、いつものように読んだ本を抜粋したもの。私的メモとして記そう。

『老いを生き抜く 長い人生についての省察』(森本哲郎 NTT出版 2012年)を読んだ。本の構成は2部に分かれ、前半は「人生百年時代を生きる」、後半は「道元禅師をたずねて」となっている。ここでは主に前半部分を取り上げよう。

筆者ほどの人であってもあっという間に80歳代に突入し、「とうとう八十歳を超えた。今さらのように『老い』の実感が心に迫った。それからさらに一年、また一年・・・。いまや八十六歳である。」と年月の速さに思いをめぐらす。(10p)

以前は人生50年と言われていた。その年齢に至ったとき筆者は新聞記者を辞める。その時筆者は「老い」の準備をせず、その心構えもないまま「老年期」を迎える。(30p)

この感慨を「思えば───年をとるということは、何とむずかしい“行”(ぎょう)であることか。すでに『高齢期』に入った我が身をかえりみて、つくづくそう思う。人生は、いかに年齢(とし)をとるか、にかかっているといってもいいのではなかろうか。」と述べて、ローマ人の哲人キケロの『老年について』を引用する。

「肉体一方のみの養生ばかりでなく、精神ならびに知能の養生にもなおより深く意を用いなければならない。なぜならば、あたかも灯に油を注がなければ消えて行くように、この精神知能とても補給するところなくば老いと共に消衰して行くからである。」。(31-32p)

筆者はキケロのいう「精神ならびに知能の養生」を引用して、これこそが「心の準備」だとする。(32p)

「老年に限らない。人間はいつも自分の心と向かい合っている。だが、青・壮年のうちは日常の多忙が『われを忘れ』させてくれる。その多忙から解放される老境に達したとき、人はただひたすら自分に“没頭”しなければならない。そのとき、その自分が空虚であったなら、老いの日々はどれほど耐えがたいものになることか。だからこそ、五十歳になったとき、五十年の体験を踏まえて新しく後半生の自分を創り出していかねばならないのだ。それは、改めて教養の設計を考えることである。日々に向かい合うべき自分を充実させるために、新たなカリキュラムを作成するのである。・・・五十歳からの十年は、教養再建の重要な年代なのである。」。(32-33p)

「五十歳からの十年は、教養再建の重要な年代なのである。」を読んで自己満足に陥ってしまいそう。改めて五十歳から10年でなく、五十歳代で6年間、大学で学んだ。これは筆者の言葉を借りれば教養再建になる!?

筆者は50歳で新聞社を退社する。だが新聞記者という職業は客観的な「無私」を書くことが求められる。だが筆者にとってはそのことが耐えられず、退社する。ところがいざ「私」を表現したいと思って辞めたにもかかわらず、「私のいる文章」すなわち、「私は・・・・と思う」という形の文章は困難を極める。(33p)

その時、筆者は「教養」が不完全であると気づき「自分をつくり直すこと、充分に教養を身につけること、私は何度も自分にそうつぶやいた。」。(34p)

そのことを「五十歳という年齢こそ、自分をじっくりと反省し、今後の備える重要な節目だと、私は今さらのように痛感するのである。」と書いている。(34p)

筆者が青年だった頃、「教養主義」が大正時代の蔭となっていた。(35p)大正時代に唱導された「教養主義」。この意味は「学問・芸術を身につけ、自己の人格を高めていこうとする理想主義である。」。(36p)

ケーベルから漱石とその門下生へ引き継がれて、「教養主義」は大正の日本社会に次第に定着していった。(37p)だがそれも戦争を境に断絶してしまう。(38p)

これまで、教養といえば、成人として社会へ踏み出す人生への出発にあたって身につけるべきもの、とされてきた。(38p)

しかし、これからは「人生の“前期”と“後期”に分けて、それぞれに教養の大切さを認識すべきなのである。」と筆者は述べる(38p)。

その上で、これからは人生後期にかけての教養が切実に求められるようになるだろう、という。(38p)とくに、老年期、高齢期を満ち足りた心で送るために教養が必要とされるという。(38p)

筆者は「人生とは『教養』の道をひたすら歩んでいくことなのである」、と結論付ける。(39p)

また筆者は「人生は自分との不断の戦いである。」という。(40p)「どんな人間にも、二人の『私』がいる。こうやって、毎日、生活を送っている日常の自分と、それを冷ややかにながめているもう一人の自分である。自分との戦いというのは、そのような二人の『私』のあいだの葛藤にほかならない。」という。(40p)

老いを生き抜くために筆者は日記をつける習慣を身につけるようすすめる。(52p)

高校生の頃からかなり長く日記をつけていた。だが、今ではそれもすべて焼いてしまって手元に無い。今となっては残念な気もする。しかし、4年弱前からブログという手段で日記としている。

何故焼いたのだろうと今思い返すと、多分余りにも主観的なことばかりで客観性に欠けていた。それが嫌になり、すべてを焼きつくし、さらに、日記を書くことも辞めようと思ったのだろう。

筆者も日記をつけていたが生活が多忙を極めるようになって書かなくなる。だが最近になって、日記を再び書き始めている。その間の不精を悔やむ気持から、この悔いを残さぬために日記をすすめる。「人生の一歩一歩を確認しながら生きる、そのための手段が、ほかならぬ日記なのである。」という。(54p)

ほかには散歩をすすめる。「スペインのパセオのように、散歩を日常生活のなかに繰り入れるには、日本はまだまだ経験が浅いといわねばならない。」。(65p)「パセオ(paseo)」は辞書を引くと散歩、散歩道、通りとある。

筆者はあとがきでこの「人生百年時代を生きる」について「そのような記憶に導き出された“老いの徒然のよしなごと”を綴ったエッセイ」と書いている。

これを書く前に氏の夫人が痴呆症になる。それと同時に筆者も鬱病を患う。そのあわてふためく様も隠さずにこの本に綴っている。

もう10数年前になるだろうか。広島に拠点を置く世界的な金庫メーカー主催の留学生を支援するシンポジウムに友達に誘われて出席したことがある。その頃、筆者の世界の旅シリーズを全巻揃えていた。その一冊の表紙カバーをもってシンポジウムとその後のパーティーに参加する。サインをしてもらう目的からである。

パーティに先立って行われたシンポジウムはメインゲストの森本哲郎氏の講演もあった。その後の立食パーティー。バブル全盛時代である。豪華なパーティーだった。他にも素晴らしいゲストがおられた。ともあれ私は筆者のサインが欲しかった。

宴の途中、メインテーブルにいらっしゃった筆者にかなり勇気をだして「一緒に写真を撮ってください」と声をかけると気軽に写真に収まってくださった。その時、筆者の本のカバー表紙を差し出してサインをお願いする。サインペンも一緒に出すと、自身の筆ペンを背広のポケットから出してサインをして下さった。今でもその本のサインは大事にしまっている。

懐かしい気持で久しぶりに筆者の本を読んだ。今年88歳になられる。

今日は午後からフルートのレッスンに出かける。レッスン前に法要のお供えを買おう。さあ今日も元気を出して、「老いを生き抜こう!」。

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