2025年11月23日日曜日

『城塞(上)』

 先日来から「城塞(上)」を読んでいる。この本の次の予約者がいるとわかってノルマを課して読み終えた。次に読むのはこの本の(中)である。これも次の予約者がいて期日までに最低一日5,60頁のノルマを課さないと読み終えそうにない。さてその(下)はと思っているとこれも予約者がいる。これまで司馬遼太郎の本を読んでも予約者がいることはほぼなかった。この「城塞」は秀吉と家康の攻防を描いている。来年の大河ドラマが秀吉のようなのでこの本を読む人が多いのだろうか。

 いくらドラマ化されても本で読む方がわかりやすい。そのためかどんなドラマや映画もほとんど見ない。映像を見なくても本を読むと自分なりの映像が頭に浮かんでくるから不思議だ。

 以下は『城塞(上)』(司馬遼太郎 新潮社、平成二十八年八十七刷)を読んで気になるところをメモした。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★「上野(こうずけ)、と家康は急に威を帯びた声でいった。「昨夜、考えてみた。よいか」「これにて、うかがっておりまする」「潰す」正純はとっさに平伏し、天がやぶれたような、霹靂があらわれて大地を撃ったような感じをうけた。豊臣家をつぶすというのである。その底意はかねてあったにせよ、家康の口から出た最初のこれは宣言であるといっていい。むろん、内密のことである。(156p)

★豊臣秀頼のこの時期、京でもっと殿舎や堂塔の壮麗な一角といえば、現今の方広寺の東南にあった豊国廟であった。徳川家というもののすさまじさは、秀吉のこの廟所を三代家光の寛永十四年、ことごとく打ち砕いてもとの野原にしてしまったことである。秀吉はその生存当時、徳川家に対しどういう悪害もあたえたこともなく、むしろ家康を適当なほどに優遇し、怨恨などはないはずであった。しかもそれだけでなく、この豊国廟の東の阿弥陀ヶ峰(東山三十六峰の一つ)にある秀吉の墓所へも人夫のべ三千をのぼらせて墓石をくだき、墓をあばき、骨をとりすてた。このため秀吉という人物は、墓すらもうしない、明治維新成立の年まで二百数十年間祀られざる鬼になるという、常軌はずれの運命になった。前時代の支配者の墓まであばいて捨てるという徳川氏のやりかたは、どうにも日本人ばなれがしている。明治元年、その徳川幕府がたおれ、京で維新政府が成立すると、朝廷はかつて豊国廟のあった草野原に勅使を派遣して秀吉の霊をとむらい、さらに旧方広寺大仏殿あとに一社を建立したが、これが現今もある豊国神社である。往年の方広寺をしのぶ場所といえば、現今ではせいぜいこの神社であろう。(383p)

★――父君の供養のため。などと家康がいったが、それが大うそであることは、このあと五十年後(寛文二年)に、「この像、天下無用のものなり」として、鋳つぶしてそのあと銭を鋳てしまったことでもわかる。とにかく徳川氏は、こと豊臣家に関するかぎり、秀吉の死後、一世紀をかけて悪のかぎりをつくしたといえる。(384p)

★「市正は、豊臣家の内情をつねにくわしく話してくれる。心へだてなく話してくれるから、わしは市正の言うことなら、なんでも信ずるようにしている」と家康はいったのである。露骨にいえば、――わしと且元は一ツ穴の貉(むじな)よ。という意味であった。この一言で、豊臣家としては且元という男が信用できぬということが、雷鳴のはためくような明快さであきらかになったわけである。大蔵卿局も正栄尼も、そうおもった。(つねづね油断ならぬ男と思うていたら、案のじょう、関東に魂を売っていたか)と、両女は同時におもった。家康の第一のねらいはそこにあった。……家康にとって、大坂城攻略が、この一言からはじまったといってよかった。(472p―473p)

★怒りは漢民族にあっては低劣な感情表出tいうことになっているが、日本人にあっては、弱者の不正義への一瞬清らかさの表現であり

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