2026年5月5日火曜日

『箱根の坂』(下)

 世の中、GWの真っ最中。お天気も良く遊ぶにはもってこいの日だ。しかし、この頃の我が身を振り返れば遊ぶ話は皆無だ。このリベンジはさていつになるやら。だいぶ前に読んだ『箱根の坂』(下)(司馬遼太郎 講談社、昭和五十九年第一刷)、気になる箇所をメモしよう。

 久しく司馬作品を読んでいない。しばらくは家にある本を読む!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★上代日本が金を欲していたのは、律令国家が造寺造仏をするためだった。上等の仏像には銅に金鍍金して金銅仏(こんどうぶつ)に仕立てねば「異国の神はきらきらし」というふうにならず、そのようにせねば律令国家の権威を民百姓に示せなかったのである。金が、鍍金用金属以外の価値をもちはじめたのは、十二世紀の源平ぐらいからであった。平家政権の平清盛が、日本国最初の貿易主義の政治家で、さかんに対宋貿易をおこなった。決済商品として、金が必要になった。当時、奥州平泉の藤原氏がにわかに繁栄したのは、北上川の砂金の採取権を持っていたためで、この砂金が清盛の貿易につかわれ、宋に流れた。室町期は、貿易の時代である。大いに金を必要としたため、国内でも金をもってたとえば米が買えるようになった。……いずれににしても早雲は、―伊豆の土肥の金で米を買い、足軽隊をつくろう。とおもいつづけている。金は駿河においても産する。(22p-23p)

★曹洞宗とは、ふしぎな宗旨である。宗祖道元はその著『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)においてもわかるように、きわめて晦渋な表現をもって禅宗の哲理を説いたのだが、そのむずかしい宗旨が、武士や知識階級へはゆかず、民衆のほうにむかったことは奇妙というほかない。道元は権力者がきらいであった。鎌倉幕府の使者がきたとき、その使者が座っていた場所の上までけがれたとして捨てさせたほどである。道元の本拠地は、越前永平寺である。その第三世を継いだ義介(徹通義介)はあまりにも目ききがきき、経営主義的でもあった。……義介の門人の螢山(螢山紹墐けいざんしょうきん)も、いわばやり手だった。道元の思想に反し、どうげんがもっともきらった祈祷や儀式などもとり入れ、民衆教化にのりだした。……民衆禅としての曹洞宗の効用は、清規(行儀作法)にやかましいことであった。人間が社会を組む場合、行儀作法さえよければ半ば世間に波風が立つことがふせげるといっていい。宗瑞は自分自身は臨済禅をを学んだが、曹騰禅を知るにおよび、それが民政に役立つことを知った。……(ついでながらこんにち曹洞宗の末寺が全日本で一万四千、西本願寺の一万余と比べるとはるかに大きく、民衆宗教と言っていい)。(75p-76p)

★早雲の遺骸は韮山で火葬に付され、虚空にこどった。骨は遺言により、箱根湯本の古寺の境内みうずめられた。その寺は、それまで真覚寺とよばれていたが、子の氏綱が臨済禅にのっとって菩提寺とし、早雲寺とあらためた。墓碑は、骨になったこの人物の生前の好みと思想をあらわすかのようにささやかである。ながめていると、小気味よさまでただよう。人は、墓石などを残すために生きるのではない、などと早雲がつぶやいているようにも感じられる。(344p)

★この奇妙人について重要なことは戦国の幕を切っておとしたことである。さらには室町体制と網の目のあらい統治制度のなかにあって、はじめて「鎖国性」という異質の行政区をつくったこともあげねばならない。日本の社会史にとって、重要な画期であり、革命とよんでもいい.(347p あとがき)

★「箱根の坂」という題は、様々な象徴性をこめてつけたつもりであった。連載の最後の下り、早雲がようやく箱根の坂を越えて、あずまに入ったときには、書いている作者自身まで足腰の痛みをおぼえた。早雲は越えがたき坂を越えたのだと思った。(349p)

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