2026年6月20日土曜日

『この国のかたち』(四)

 外は薄暗く梅雨本番を思わせる朝だ。こんな日は外に出るのはやめよう。以下は『この国のかたち』(四)(司馬遼太郎 文藝春秋、2016年第20刷)を読んで気づいたことを引用している。その中に先の戦争が「石油」に絡んでいたことだ、と初めて知った。なぜアメリカ等との戦争でフィリピン沖や東南アジア諸国が戦争の舞台となったのかを疑問に思っていた。それが判明した。昨日の地元紙の先の戦争の遺骨収集の記事においても「石油」が戦争と絡んでいたとは一言も触れていない。「石油」をめぐっては今も世界中で争いは絶えないが……。残る2点は気になる箇所をメモした。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★南方進出作戦―大東亜戦争の作戦構想ーの真の目的は、戦争継続のために不可欠な石油を得るためでした。蘭領インドネシアのボルネオやスマトラなどの油田をおさえることにありました。その油田地帯にコンパスの芯をすえて円をえがけば、広大な作戦圏になる。たとえばフィリピンにはアメリカの要塞があるから、産油地を守るためにそこを攻撃する。むろん、英国の軍港のシンガポールも、またその周辺にあるニュ-ギニアやジャワもおさえねばならず、サイパンにも兵隊を送る。それを総称して、大東亜共栄圏ととなえました。……石油戦略という核心の部分は、むろん隠され、多くの別なことばにつつまれて窺うことができません。この構造を裏づけるに十分な経済力も戦力も日本にはないということまで、さまざまなことばによっておおいかくされ、人々に輝かしい気分をもたせたのです。……あの戦争は多くの他民族に禍害を与えました。領地を取るつもりはなかったとはいえ、以上に述べた理由で、侵略戦争でした。ただ当時、日本が宣戦布告したのは米英仏蘭であって、その諸領土のなかの、油田を奪おうとし、また英国のシンガポール、米国のコレヒドールなどの要塞を攻撃したのです。この点では欧米との戦いだと当時の日本人は思っていました。しかし土地に現実にいるのは土地の人々であって、その人々が日本軍の作戦によってひどい目にあいました。あの戦争が結果として戦後の東南アジア諸国の独立の触媒をなした、といわれますが、たしかにそうであっても、作戦の真意は以上のべたように石油の獲得にあり、その獲得を防衛するために周辺の米英の要塞攻撃をし、さらには諸方に軍事拠点を置いただけです。真に植民地を解放するという聖者のような思想から出たものなら、まず朝鮮・台湾を解放していなければならないのです。ともかくも開戦のとき、後世、日本の子孫が人類に対して十字架を背負うことになる深刻な思慮などはありませんでした。昭和初年以来の非現実は、ここに極まったのです。(239p-241p)

★西暦一八六八年は、いうまでもなく明治維新のとしである。年号が二つあった。幕府時代最後の年号になる慶応四年と、あたらしい時代を象徴する明治元年(このとし九月八日に改元)で、まぎらわしいために、このとしのことを、ふつう、「戊辰(ぼしん)」と、十干十二支(じっかんじゅうにし)でいう。戊辰戦争とよばれる革命戦争は正月の京都南郊の戦いではじまり、翌明治二年五月北海道五稜郭開城でおわる。革命軍は”官軍”と称した。主力は薩(のちの鹿児島県)長(のちの山口県)土(のちの高知県)肥(のちの佐賀県)の四藩で、他藩は時流を追うかたちで参加した。(83p-84p)

★僧はむかしから、”法外”(世間の外といわれた。殿中の坊主衆の頭は、”私どもは世間の秩序の外の者でございます”というしるしとして剃っているのである。(207p)

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