2025年11月15日土曜日

『南蛮のみちⅡ』

  『南蛮のみちⅡ』(『街道をゆく』23 司馬遼太郎 朝日新聞社、2006年第1版ワイド版)を読んだ。ここでいう南蛮とはスペインとポルトガルである。どちらも出かけたがポルトガルはブログを始める前なのでスペインへ出かけた時ほど記憶が鮮明ではない。が、一人でツアーに参加したので印象的なことは鮮明に覚えている。とくに、ポルトガルに到着後に知り合った名古屋の女性はいわゆるバックパッカーで一人で旅をしていた。その話を聞いて世界を一人で旅する人に羨望を抱いた。

 司馬遼太郎のポルトガルの旅を読んでかなりポルトガルびいきに思えた。サワダーデ、という故国を想う人たちが歌うファドは哀愁が漂う。ファドを聞きに出かけたお店での光景はとくに鮮明だ。帰国後、ファドに魅せられて市内北部にある蔵を改造した演奏会に出かけたこともある。その時はファドの女王である月田秀子を迎えての演奏会だった。いまはその人の歌声も亡くなられて聞かれない。

 こんなことを思いだしているともう1度海外に出かけたくなる。これまでのようなハードな旅ではなくゆっくりしたツアーに。

 以下はこの本を読んでメモした。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★日本における大航海時代の影響を源流の地で感じたいというのが、この旅の目的である。「南蛮」という言語感覚は、きらめいている。この語感の成立には、明治末年の北原白秋と木下杢太郎に多くを負い、さらにはおなじ新詩社のひとびとである与謝野鉄幹、吉井勇、平野万里もふくめていいかもしれない。(47p)

★紙はイスラム教徒によって製造され、このためトレドは、イベリア半島において圧倒的な知的活動のさかんな街になった。トレドにおけるイスラム教やユダヤ教の教学研究や法律、医学、科学の研究は、紙の豊富さによっていよいよ活発になった。それ以前、紙はオリエントのものだった。さらにそれよりも前は東アジアのものであり、ありつづけた。もっとさかのぼれば紀元一〇五年、中国人の蔡倫によって発明されたことは、たれでも知っている。……八世紀、唐の玄宗皇帝の時代、西方への遠征があった。……このとき、イスラム側の捕虜になった中国人のなかで製紙技術をもつ者がいて、アラビア人にそれを教え、その技術がサマルカンド(現在のウズベク共和国)に定着し、製紙工場がおかれた。いいかえれば紙は、八世紀においてアラビア人のものとなった。(81p-82p)  

★フランシスコ・ザヴィエルを東方に送った経済的な支援者がポルトガル国王であったことでも自明のように、戦国期の日本に影響をあたえた南蛮文化というのは、主としてポルトガル文化であった。(123p)

★列車のデッキからプラットフォームに一足降りただけで、もうトガルだった。その小さな駅舎が私にとってポルトガルで最初に見た建築であったし、タイルの絵はなまで見るはじめてのポルトガルの絵だった。すべてが、ポルトガルを圧倒的に代表していた。「ポルトガルにはもっとすばらしい建築もあれば、絵もありますよ」といわれても、承知できるものではなかった。旅とは初対面の印象を得るためにするものだし、このあとどんな素晴らしいものをみても、最初の印象のういういしさには及ばない。(150p-151p)

★一漢(いつくわん)はギタルラ(註・ギター)を弾じ、衆人がそれに合わせ唱歌した。光景は甚だ絵画的であったが、同時に亦粗野であった。葡萄牙(ポルツガル)は予の想像に於けると全く別趣の外看(註・がいかん)を呈した。(174p)

★私がポルトガルにきたのは、信じがたいほどの勇気をもって、それまでただむなしく水をたたえていた海洋というものを世界史に組み入れてしまった人々の跡を見るためであったが、この大膨張をただ一人に象徴させるとすれば、エンリケ以外にない。……また日本に南蛮文化の時代を招来し、そのうえ南蛮風の築城法が加味された大坂城が出現する契機ともなった。瀬戸内海をへてその奥座敷ともいうべき大坂湾に入ってくる南蛮船に対し、貿易家である秀吉が日本の国家的威容を見せようとしたのが、巨大建造物の造営の一目的だったことは、たれもが想像できる。……ついでながら、その秀吉が、徳川家康を東海の地から関東に移封するとき、関八州を統べる地を江戸に置くように、と教えた。江戸という海辺の小邑については、家康に知識がなく、秀吉のほうにあった。秀吉のいわば「港湾首都論」が、家康にすすめて江戸を選ばせたよいっていい。(187p-189p)

★私は、ポルトガルでは海と海事を見るつもりできた。(196p)

★イデオロギー的正義というおそろしものをこの地上で発明したのは、やっつけられる側のイスラムではなく、十字軍以来のキリスト教の側であった。(250p)

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