『豊臣家の人々』(司馬遼太郎 角川書店、平成二十五年改版八版)を読んだ。テレビの時代劇はまったく見ない。というか、ドラマそのものを見ていない。そのためか千姫、淀殿、茶々、寧々、北政所など聞いたことがあってもそれほどわかっていなかった。ところが『豊臣家の人々』を読み終えてその人たちのことがよくわかった。名前は違っても置かれた状況で呼び名が変わる。これもよくわかった。初歩的な事なのに何もわかっていない、こともよくわかった。それにしても「豊臣秀吉という男の生きざまはどうよ」と思ってしまう。自分がしたい放題のことをして人生を終えている。これもまあ、一生と思えば幸せな一生だったのかもしれない。と言ってもこの人の生き方を肯定しているのではない。
いろいろな生き方があると思って本を読む。信長、秀吉、家康のうち人情家は秀吉!?信長は非業、家康は周りから見てあまり魅力的に思えない。何度か読み返せばもっと理解も深まってそれぞれの人物の見方も変わるかもしれないが。
以下はこの本から気になる箇所を記した。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★この日の十二月、豊臣家から朝廷へ奏請があり、孫七郎は内大臣に任ぜられた。……関白になった。秀吉が、その職を譲ったのである。譲って秀吉は宮廷の現職から去り、大坂城に住み、以後太閤と称せられた。関白秀次公である孫七郎はあらためて京の聚楽第の建物、ちょうどいっさいをあたえられ、京に住み、殿下、と尊称された。(31p)
★瓜見ノ宮という若者である。ただしくは、八条宮智仁親王という。皇弟である。このうまれながらの貴族は、当然ながら豊臣家の養子のなかでは血統の点ではずばぬけているだけでなく、学芸にすぐれ、政治感覚についてさえもすぐれた資質をもっている。ちなみに、京の南郊の桂の里は、一望の瓜畑である。(347p)
★宮は、秀吉の猶子(ゆうし)になった。猶子とは、猶(なお)子ノ猶(ごと)シから言葉がでている。養子とのちがいはほとんどなく、おなじ意味につかわれることが多いが、ときに区別されることもある。養子のばあいはその養家に住み、養家の姓を名乗るのが原則のようであるが、猶子はかならずしもそうではない。豊臣家の猶子である宮は相変わらず勸修寺家に住み、天皇の一族としてくらしていた。(368p)
★宮は、桂川のほとりに瓜見にゆく。その場所に住まいをつくることを思った。ここに別業を作りそこに住み、それによって和学のうつくしさのなかに沈潜し去ろうとした。この宮は、後世(のち)にいう桂離宮をつくった。あの離宮のすべてをつくったのではなく、かれは祖形のみをつくり、あとは晩い結婚でうまれた嫡子の智忠(としただ)親王によって完成された。……宮は、この別邸の設計において、源氏物語、伊勢物語、古今和歌集それに宮の好きな白氏文集などから発想し、それらの詩情を形象化しようとした。瓜畑に夏の月がのぼる夜など、この別業に秀吉を生かしめて招きたいと何度かおもったことであろう。……後年、東照宮における徳川家の美意識と、京の南郊のこの桂御所におけるこの宮のそれとが、意識の対極のように取沙汰されるようになった。(390-391p)
★家康はこの拝謁を最後に、この年のこの月に征夷大将軍になり、名実ともに政権の座についた。さらにこの年の七月、家康は七歳の孫娘御千を大坂にさしくだされ、秀頼の妻にした。千姫との結婚については、家康はかならずしもそれを熱望したわけではない。これは故秀吉が臨終(いまわ)に言いのこした遺言であり、この遺言をまもらねばかれの傘下にいる加藤清正、福島正則など故秀吉恩顧の大名たちがあるいは動揺するかもしれず、家康にとっては出来たばかりの徳川政権の静謐とかれら外様大名たちの鎮静のためにこの少年と童女の結婚をすすめたにすぎなかった。(469p)
★「心得て候」と、明快な歯切れで行った。このさわやかな口跡を聞いたとき家康はこの時ほど秀頼をねたましくおもったことはないであろう。老年はすでにそれそのものが敗衰であり、若さというのは老人からみればそれ自体が傲りであった。家康は、この若者を自分の死まで生かしておくことはできぬとおもった。(496p)
★秀頼には辞世もない。辞世だけでなく、かれの人柄や心懐を推しはかるべきなにものもその二十三年の生涯のうちに残さなかった。秀頼は影のように生き、死んだ。その死も、おそらく他の者がその手を執り、力を加え、是非もなしに無理やりに死にいたらしめたものに違いない。その光景は無残ではあるが、詞にも歌にもならぬ無残さであろう。
このようにしてこの家はほろんだ。このようにして観じ去ってみれば、豊臣家の栄華は、秀吉という天才が生んだひとひらの幻影のようであったとすら思える。(514p)
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