先日知った高島野十郎。この人について川崎浹の書いた『過激な隠遁 高島野十郎評伝』(来龍堂、2008年)を読む。
世の中に、高島とこの本の著者のような親交がある人たちがいるだろうか。まるで物語の世界。もしも旅の最後の日、博多の美術館へ高島の絵を見に行く勇気と元気がなかったら、この本を読んでいたかどうかわからない。すぐに行動に移したことは今となっては幸いだった。
本をめくるとその1頁目に「高島野十郎の名が世に知られ、その絵が多くの愛好者を得るに至った経緯にはひとつの因縁があった。それは一遍のドラマのようである」とある。高島の絵が世に出るきっかけを作った福岡県立美術館の当時の学芸員古川智次に一枚の絵が目に留まる。その後、高島の絵は他の2人の学芸員にも受け継がれ、紆余曲折の後、没後11年の1986年、福岡県立美術館で「野十郎展」が開催される。今では「野十郎通信」も美術館HPで発信されている。
筆者の川崎が高島と出会ったのは早稲田の大学院に進学した1954年の10月15日。建築を学んでいた友人三人と秩父の山歩きをする。あるバス停でスケッチブックを小脇に抱えた背広姿の紳士と立ち話をする。この12日前にこの紳士(高島野十郎)は長兄を亡くしていた。
本の筆者である川崎は初めて野十郎と会った日から一月後に2回目の出会いをする。国立博物館でルーブル展を見るために並んでいると野十郎が見終えて入口から出てくる。この時互いに顔を覚えていて「やあ」と挨拶を交わす。3回目は翌年の春、ゴヤ展を見ているとまたも見終えて出てきた野十郎と鉢合わせする。
この時、野十郎はアトリエが近くにあるといって川崎を誘う。この二人の出会いについて、後に野十郎は「これはもう運命だよ」といって驚く。
またいつものように気になる個所を抜粋しよう。
※実際、一千万の人口が渦巻いている関東圏で、見知ったばかりの人物と立てつづけに三度出遭うという体験は、生涯を通じてこのときだけだった。しかも出遭うたびにアトリエに近づき、三度目のときは歩いて行ける所にあった。画家が私と同県ということも分かった。20p
※野十郎は過去の自分ときっぱり縁を切るつもりで、兄嫁のキク子にこれまでの丹念に描いてきた百枚ほどの絵の焼却を依頼した。57-58p
※米国経由で帰朝した野十郎は兄宇郎を訪れ、これからは「ひとりよがりでなく、世にうけいれられる絵」を描かなければならないと感想をのべた。…野十郎が「世にうけいれられる絵」と言ったとすれば、かれのような内省的な創作者が向かいがちな自らの殻に閉ざされることのない、開かれた創作でなければならない、そういうことを念頭においていたのだろう。かれの作品はすで渡欧前から愛好者の需要を充たしていた、その分すでに開かれていたわけだが、画家は画家なりに「ひとりよがりでない」絵を描かねばと思っていた。このエピソードからそうした画家の意図が伝わってくる。58-59p
※もともとは本名の弥寿(やじゅ)に、長兄の詩人宇朗の末尾をくっつけて野十郎(やじゅうろう)としたのだが、本人によれば「のじゅうろう」には野たれ死にの意味もこめられているので、これはこれで捨てがたい趣がある。72p
※家庭は社会や国家を支える無数の「巣」であり、そこへの志向はもちろん俗の「ぬくもり」への帰郷である。ミルチャ・エリアーデは『聖と俗』で「探求、中心への道を選んだ者は、家族と共同体のなかの地位、つまり<巣>を放棄して、ただ一人至上の真理への<遍歴>に身を捧げる」と書いている。求心であれ、遠心であれ、巣を離れて自由に生きたいと思うものは少なからずいるだろう。99p
※高島さんは「見合い写真」や「お見合い」という俗の標本に手を染めることを、瞬間の判断で拒否した。99p
※二十一年間、高島さんは私の年齢を聞いたことがなかった。こんなに気持ちよく爽快なことはない。相手の年齢を確かめたり、年齢にこだわったりする人に出くわすと、また自分自身がそうであるときにも、私は次の遺構の句を座右の銘とするように心がけている。
時間というものは無い、時間とは人生そのものだ、空間亦復如是、(『ノート』より)100p (注:『ノート』は高島が生前書き留めていたノートを筆者が『ノート』とした)
※ルーブル美術館にはラ・トウールのキリスト教神話を題材にした大画面の絵があり画面のごく一部にローソクが描きこまれている。「高島さんのローソクだ」ととっさに思ったがそれはちがう。野十郎の《蝋燭》はそこから借りたり、描きだしたりしたものではなく、自ら強い意志のもとに立てた一個の主題である。…野十郎の《蝋燭》はなにを描こうとしたのか。まず、絵が非売品であることに注目したい。生活の資を稼ぐための絵ではなく、どこか特別な場所に納入されるものだった。どこに?高島さんに言われて私の意識がはじめてそこに向いたのが、絵馬である。絵馬には馬の絵が描かれ、奉納者の祈願が込められている、と思った。「私の《蝋燭」は絵馬なのだよ」と画家は言った。絵馬を奉納するために神社に行き、浄い水を柄杓ですくって手を洗い、口をすすぎ、掛けられた鏡を仰ぎ見ると、そこに映っているのは「神ではなくて、なあんだ、自分の姿だったよ」と笑って画家は言った。こういうときに高島さんは決まって生まじめな表情ではなく、いかにも愉快そうに笑って話す。「神は自分の中にいるのだ」。…高島さんの独創性は《蝋燭》を人間、殆ど凡夫のなかの仏性に奉納しつづけたことにある。被奉納者、つまり鑑賞者は奉納品によって自分のなかの仏性に目覚める可能性をもつことになる。246-247p
※蝋燭の芯は生きる者の残りの寿命であり、焔は燃焼中の生命を象徴していると私はばくぜんと考えてきた。さらに近年、私は《蝋燭》の焔はうつろいゆく生命エネルギーの「現象」という名にもっともふさわしいと思うようになった。250p
※私は《蝋燭》の副題を「現象」とすることに決める。すると私はいままで気づかなかったことに急に気づくのである。野十郎のもっとも近い所に《蝋燭》の寓意をとく鍵や、かれが身ぶり手ぶりで言わんとした「また在らずに非ざるなり」にも通じる解があるではないかと。250-251p
※野十郎が自嘲する絵描きの「魔業」とは、「何の役にも立たない徒労である」と仰山から罵倒されながらも、それにうちかつ「現象」を額縁の枠内に繋ぎとめることにあった。…焔は敬虔な垂直の光として私の心に、もはや一瞬でなく永世の安らぎをあたえるかのようだ。252p
本の裏表紙の筆者プロフィールに「高島野十郎とは大学院生だったときに『運命的』な出会いを果たし、画家が亡くなるまでの二十一年間深い交流をもった。野十郎の肉声を伝える貴重な証人として野十郎研究に大きく貢献する」とある。野十郎が亡くなったのは1975年、享年85歳。筆者は野十郎より40歳も若い。著者が若い頃から書いていた日記と野十郎の書いた『ノート』、そして野十郎の周りの人たちのお蔭で本になっている。親子以上も離れている二人。それにしてもなんとも不思議な本。亡くなった後、30年経って本となる。それにしてもこの本の主役は野十郎だけでなく筆者も主役。素晴らしい二人の交遊録だ。川崎のこの本によって野十郎がますますわかってくる。
昨日、野十郎に関する他の本、『野十郎の炎』を入手。この本は同郷で、高校の後輩である多田茂治が書いている。これも読み終え次第、ブログにアップしよう!
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