2015年7月26日日曜日

戦没画学生の講演&懇親会

講演会が終わるころアクシデントが起きる。聴衆の一人が突然倒れ、会場は騒然。同じフロアでは医師会のレセプションが催されている。「ここにお医者さんはいらっしゃいませんか?」と響き渡る声。隣の会には多くの医師たちがいるのに…。誰かが救急措置を取る。救急車はなかなかこない。市内のど真ん中のホテルのフロア。近くには市民病院がある。この日のすべての行事が終わるころ、救急患者は元気を取り戻されたとの報告がある。

昨日の真昼間。外気温は高い。そのため、少しは着飾って出かけてもかなりの薄着。だが、会場は冷房が効きすぎる。この気温差で体調が悪くなられたのだろう。他人ごとではない。気を付けよう。

さて昨日の講演会。主催者を見ると美術家連盟とある。美術の先生方の集いだ。その中に、紛切れ混んで講演会と懇親会に出る。胸にはフルネームの書かれたネームカード。さらには名簿の一覧までいただく。講演会後、日本画の先生に遭遇。なぜこの場所に、と思われたに違いない。言い訳がましく、招待してくださった人の名を告げる。その人は今回の実行委員。どうみてもこの場の緩衝剤に思える私。同行者もそういって笑う。

気後れしながらも、いつの間にか場の雰囲気に溶け込む。これは不思議。同じテーブルの人がメインゲストと写真を撮るとのこと。これには素早く対応。すぐに写真に納まる。ところが自分のカメラでない。カメラマンに聞くと某油絵画家のカメラとか。来週予定の某会でこの画家にお会いする。そう思って写真をお願いする。

帰宅後、懇親会の参加名簿を見ると4分の1の人を知っていた。まだ日本画を習って1年半の卵。こんな感じでいいんだろうかと思ったり。懇親会前に帰られた日本画の先生から来週、県北での美術館行きを誘われる。人から誘われれば予定がなければ出かけることにしている。ありがたい!

さて講演会。講演者は窪島誠一郎。この人のことは水上勉の子供としてセンセーショナルに報じられたことしか知らない。戦後70年の平和祈念講演。テーマは「無言館」のこと~戦没画学生の伝えるもの~。この講演の前に某美術館学芸員の「もうひとつの原爆絵画~荻太郎と手島守之輔~」の話もあった。

戦争や原爆。知れば知るほどいろんな人たちが被害をこうむっている。今回の画学生とは今の東京芸大生を指す。窪島の「荻太郎の十字架と再出発」の話は①人間の生と死 ②戦争への怒りと苦しみ ③何を描くか、何故描くのか、が主な内容だった。荻太郎は戦後も生き続ける。しかし、手島は戦争で亡くなる。それでも太郎の中では手島は生き続ける。それは太郎への「精神造形」となって…。

窪島は何故上田市に無言館を設立したかを話す。まずは自らの出自を述べる。17歳のアルバイト時代、中村書店(現在はツタヤ)で村上槐多の画集と出会う。当時、5000円の給料で画集は1500円したらしい。22歳で亡くなった村上は「祈り」の詩で、あと一日生きてれば…と絵を描くことを願う。それもむなしく肺結核で亡くなる。

窪島は『祈りの画集』をきっかけにして上田市に美術館を、と考える。そしてその18年後「無言館」設立。なぜ設立するのか?昭和53年、NHK出版から出版された『祈りの画集』。これは野見山暁治が中心となって先の戦争で亡くなった画学生の絵を集めて作った画集。野見山の著書に『400字のデッサン』がある。これも朗読される。

窪島は毎年、村上槐多の槐多忌を2月の第4日曜に行っているという。この25回忌に野見山と黒柳を招く。野見山はその際、「亡くなった画学生の絵が今どうなっているか気が気でならない」と話す。当時、窪島52歳、野見山73歳。この話を知った窪島は野見山の後を継いで亡くなった画学生の絵を収集。それを無言館に収める。

窪島は話す。「戦争という絶対悪を前にして人間が絵を描けることの素晴らしさ」「画学生にとって絵を描くというのは尊い時間だった」「それに光を見出す」…。

被爆70年関連行事。今日はレクイエムを聞きに…。

0 件のコメント:

コメントを投稿