2015年3月2日月曜日

『命の器』

朝食を食べていると携帯に電話がかかる。日本画の先生だった。開口一番、「21日、あいてる?」。日本画のグループで遊びに行くお話。時間があれば、遊ぶ話には乗るようにしている。そうはいっても気になることが一つある。それは集合時間。

海外でも国内でも何でも遊びには集合時間がある。朝に弱い。一番先に聞いたのはこの集合時間。8時だった。この時間ならばOK。

毎朝多くの新聞折り込みチラシが入る。その中に旅のチラシもある。チラシだけでなく、新聞紙上にも旅の宣伝がある。チラシや新聞の旅の広告。これを見るのも毎朝の楽しみ。これからの行楽シーズンに向かってその記事も多い。

習っているモノゴト、暇がなければ続かない。そこに出没する人はどなたも暇人?日本画の人たちもそうかもしれない。

今日はお天気もいい!午後は合唱へ。元気に歌おう!

『命の器』(宮本輝 講談社、2009年第6版)を読んだ。新刊予約と思った。ところが本は新しいが、以前に発刊されている。図書館に匿名の人が寄付した本だった。

この本は著者のエッセイがまとめられている。いきなりの文は父親の精神病院でのお話。著者自身も病弱だったためか、その場面の描写も多い。以下はいつものごとく気になる個所をメモしたもの。

※伸びていく人は、たとえどんなに仲がよくとも、知らず知らずのうちに落ちていく人と疎遠になり、いつのまにか、自分と同じ伸びていく人とまじわっていく。不思議としか言いようがない。…抗っても抗っても、自分という人間の核をなすものを共有している人間としか結びついていかない。その恐ろしさ、その不思議さ、私は、最近、やっとこの人間世界に存在する数ある法則の中のひとつに気づいた。「出会い」とは、決して偶然ではないのだ。でなければどうして、「出会い」が、一人の人間の転機となりえよう。…」59-60p

この文章、妙を得ている。年齢とともに友だちも変わっていく。いつの間にか疎遠になる人とまじわっていく人。このキーワード、よく表している。

※ひとり書斎にこもって書いていると、寂しくて寂しくてどうしようもなくなる。そんなとき、わたしは突然電話魔になって、夜中だというのに友人に電話をかけまくる。…電話をかけられた方は迷惑千万である。…電話を切り、しょんぼりと布団にもぐり込んで、私はいましがた電話をかけまくった相手のことを考える。すると、その幾人かの友人もまた、真の友を持ち得ぬ者たちであることに気づくのである。どんな人と出会うかは、その人の器次第なのだ。60-61p

このような経験をしたことがある。電話を掛けられた人は迷惑千万、よくわかる。真の友を持ち得ぬ者たちである、とは気の毒な人だ。

※私は結核で入院したとき、文化とはいったい何だろうと考えたことがある。私は、文化とは、人間を愛することだと思った。…日本の医療機関にたずさわるお役人には、他者を愛する心を失った人が多い。文化国家とはやさしい人々によって成り立つ国であって、電気器具や武力の完備された国ではない。116-117p

※人々の大半は、自分にどんな天分があるのか知らぬまま年老いていく。たとえ気づいても、それを伸ばそうと血みどろの努力をしていく人はすくない。きっと人間の美しさとは、容貌などではなく、己の天分を伸ばそうと執念を燃やしているときの心の姿勢や発露なのであろう。私は、断られても、断られても、ひとつの商品を売るために歩きつづけているセールスマンを尊敬する。毎日毎日、ハンドルを握っている運転手さんを尊敬する。…それらの人々は、生半可な学者や小説家よりもはるかに立派な人生を生きている。129p

※「人間は、自分の目に最も近いまつ毛が見えない」という意味の言葉がある。…科学文明がいかに驕ろうとも、人間というもの、その人の究極の我を映し出す鏡を作り上げることは断じて出来得ない。しかし、いまほどそれが必要とされる時代はないのだ。136-137p

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