2015年3月13日金曜日

「庭を耕さなければなりません。」

昨日、プールからの帰り道の信号で父の祥月命日に気付く。母のことは覚えていてもいつの間にか父とは疎遠になる。すぐにお墓参りに行けばいいのに、泳いだ後の体の冷えが気になり行くのをあきらめる。あれから丸25年。月日が経つのは本当に早い。

25年前といえばフンザに出かけた年。昨夜、そこで知り合った米子の友に電話する。要件はデュークエイセス。その妹さんはデュークのファン。メンバーの一人が引退したとの情報を徹子の部屋で知る。それを知らせる電話だった。ところが、いつの間にか話題は遊ぶ話になる。来月末、米子へGOー。楽しみ!

先ほど美術講座を受講して帰宅。季節の変わり目。毎年この時期、顔にヘルペスができる。気を付けていたのに泳いでしまった。体が疲れるとできやすい。わかっちゃいるのに、ああなんということ。

そういいながらも、先日の講演で聞いた「動く」お話。冬になると動きが鈍るのか、それとも何でもおいしく食べるためか、ブーになる。講演会で「階段を見たら神様がいらっしゃると思って歩きなさい」と話された。ブーは体によくない。体重の変化がないのが自慢だった。それが、デブになりそう。今朝はどの階段も歩いた。夕方から、広響定期演奏会に出かける。無理しない程度に動こう。これも難しい。

今朝の美術講座。1755年のリスボン大地震でこれまでの神様のイメージからその予定調和が考えられなくなり、無神論になっていく。かなり興味をひかれる。そこからカントの『判断力批判』が出てくる。神様でも大地震は救えないと提唱。そして善悪の判断は人間がするようになる。面白いと思ったのは「好き嫌いで判断」するのが美学!?ヒト・モノ・コト、すべてを好き嫌いで判断している。これでいいんじゃ!これからも難しく考えずこれで行こう!今日は他にも「庭を耕さなければなりません。」(『”ガンディード”<戦争>を前にした青年』より)がある。これはキリスト教から離れた考えで神を信じないところから出てきた教養。「何も耕してはいません。」ではなく「心を耕しました。」は今日お昼の食事会メンバーのお話。これから講義も面白くなりそう。

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