今朝起きた時は晴れていたので早めに買い物に行く。買い物から帰ると、狭い庭に咲きみだれる色あせた紫陽花を片づける。すぐに米の空き袋に一杯になった。それは明日のゴミに出そう。
紫陽花の季語は夏。とはいっても雨に咲く紫陽花は梅雨の時季がよく似合う。紫陽花のそばにはレモンの木が陣取っている。そのレモン。たくさん花をつけた割には、実は2つだけ。そのうちの1つは昨日の大雨に打たれ、地面に落ちている。この調子だと今年も昨年同様1つしか実はならないかもしれない。
晴れれば午後もまた自転車に乗って図書館に行こうとする。この調子だと雨は1日降り続きそうだ。仕方なく,家で大人しくしている。
今朝は先日申し込んだ県立美術館の友の会の会員証一式が届く。それを見ると内容は10年前まで入っていた頃と変わりない。せいぜい美術館へも足を運ぼう。
美術館といえば先日のラジオニュースでフェルメールの展覧会が6月30日から東京都美術館で開催されると聞く。その後、9月29日から新年6日まで神戸市立美術館で開催される。昨年秋の京都の展覧会に行きそびれた。神戸の開催は昨年から知っている。その前に東京であるとは・・・。ともあれ、この秋を見逃さないようにして神戸に行こう。
フェルメールといえば通っている大学の図書館でもフェルメールフェアを開催している。先日有吉玉青の書いたフェルメールの本を借りて読む。有吉は長年フェルメールにあこがれ、世界の美術館を巡りすべての作品を見ているとか。
フェルメールといえば通っている大学の図書館でもフェルメールフェアを開催している。先日有吉玉青の書いたフェルメールの本を借りて読む。有吉は長年フェルメールにあこがれ、世界の美術館を巡りすべての作品を見ているとか。
今朝はまた先日送られてきた『図書』7月号(岩波書店 2012年)を読む。その中に赤川次郎の「ヴェートーベンを聴く夜」と題して,小泉政権以降の日本の政治状況を書いている。「揺るぎなく、確かなものを求める」ことを今の日本の状況に当てはめる。
そのためにとまでは書いてないが、著者は毎夜ヴェートーベンを聴いている。「毎夜ヴェートーベンを聴き入るのは、単に古くて定評があるとか、安心感があるからだけではない。常に高みを目指して努力する、前へ進むエネルギーに『人間の気高さ』を確かめたいからである」(24p)。
著者はヴェートーベンを聴いて「格差」を肯定し、労働者を使い捨てる社会をつくった小泉首相を取り上げる。あるとき小泉が意気揚々とコンサート会場に入ってきたとき拍手の代わりに客席から激しいブーイングが起きたという。それを見た著者はこの国も捨てたもんじゃないと感じる。だがその日の演奏は何を聞いたか全く覚えていないらしい。
その後の、菅、野田の答弁を見ると「生命」の軽さがあるという。それは原発の問題である。
TVで流されるドキュメンタリー。飼っていた犬に餌をやる飼い主。だが著者は「犬には放射能も原発も理解できない。なぜ主人が自分を捨てていくのか、分からない。いつまでも車を追い続ける犬の映像に、涙が出た。人間は何と残酷なことをしたのだろう。東京電力の幹部や、再稼動を言い立てる人々は、こんな場面に何も感じないのだろうか。―ヴェートーベンを聴く夜は、なおしばらく続きそうである」(26p)と述べる。
ここに書いてあるヴェートーベンの持つエネルギーに「人間の気高さ」を求めるとは・・・。音楽であれ、美術であれ、もしかしたら筆者の言うようにそれはあるかもしれない。他にも文学も・・・。
そう思えば美術館の友の会や広響の個人会員になって気高さまでいかなくても、もしかしたら「前に進むエネルギー」をもらえるかもしれない。そしてフェルメールの秋を楽しみにしよう!
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