2012年7月11日水曜日

『大往生したけりゃ医療とかかわるな「自然死」のすすめ』

今日は朝からスッキリしない天気。まだ梅雨明けではなさそうだ。

先日図書館で借りてきた『大往生したけりゃ医療とかかわるな「自然死」のすすめ』(中村仁一 幻冬社、2012年)を読む。

著者である中村は延命治療でなく「自然死」をすすめる運動をしている。それには癌で亡くなるのがいいらしい。延命治療で亡くなるよりも癌にかかってその治療をせず自然に衰えていけば「自然死」になるという。

著者は人間が本来持っているホメオスタシスである自然治癒力を大事にする。その底辺には父親の医療ミスによる不信感があった。

「親父は20歳の時、ものが二重に見える(乱視?)というので、ある眼科医を訪れ、目薬と劇薬を間違えた手落ちから、瞬時に両眼失明の憂き目に会っているのです。・・・私の『死生観』に色濃く影響を与えたのも事実です」(142p)。

そのことから医学を志す。医師である著者自らの医療に対する考えを拾ってみた。

「人間は生きものである以上、老いて死ぬという運命は免れません。最先端医療といい、再生医療といい、所詮、『老いて死ぬ』という枠内の話です。年寄りは、あまり近づかない方がいいと思います。・・・『逝き方』は『生き方』なのです。・・・ということは今日の生き方が問われるわけです。・・・少し体調がすぐれなければ、すぐ、『医者よ、薬よ、病院よ』と大騒ぎする人には、『自然死』は高望みだということになります」(はじめに)。

「『死』という自然の営みは、本来、穏やかで安らかだったはずです。それを、医療が濃厚に関与することで、より悲惨で、より非人間的なものに変貌させてしまったのです。世の中で、一番の怖がりは医者でしょう。それは悲惨な死ばかりを目の当たりにしてきたせいだと思います」(5p)。

「私は『救急車は呼ばない、乗らない』がモットーですが、街中で卒倒していれば、救急車に乗せられ、治療の限りを尽くされて死ぬということもありうるでしょう。それも、そのときの縁で、仕方のないことと考えるこことしかありません。『自分の死』を考えるのは、『死に方』を考えるのでなく、死ぬまでの『生き方』を考えるということなのです」(148p)。

「医療には、若返らせることもできず、死ぬことも防げないという『限界」が厳然としてあるのです。今後どんなに医療が発達しようとも、”老いて死ぬ”という大枠は、どうすることもできないでしょう。大事なのは『今』なのです。今の生き方、今の周囲へのかかわり方、今の医療の利用の仕方が、死ぬ場面に反映されるのです」(188p)。

ここに書いている「救急車は呼ばない、乗らない」を著者のモットーとしている件はわかるけど難しい。母をほとんど最後まで介護した経験から言えば、最後に乗せた救急車は自分の人生で一番辛い選択だった。全く食べられなくなった母を在宅にするか救急病院へ入れるか悩んだときのことを思い出す。そのときは姉と主治医と3人で相談した。主治医も最後まで看てあげると言って下さった・・・。


母は元気な頃よく言っていた。「(歩けなくても)這ってでも家にいたい!」。病院よりも我が家がいいと・・・。

最後の決断を下して主治医に救急車を呼ぶと告げる。その時救急車の中で「これでもう母は我が家へ戻れない」と思うと涙が留め処もなく溢れ出た。その一方で病院へ預けた母を見て、すべての責任が自分の手から離れたと思うと言われないほどの安堵感も正直あった。

何もかも一人で抱え込むことは不可能なこと、今となってはこれでよかったと思っている。

昨日も母と同い年の人が亡くなっている。年齢から言えば大往生である。自分自身の死は全く考えない。しかし著者の言うように「逝き方」は「生き方」になるのなら毎日を楽しく生きたい!

昨夜は次に行く旅行社から届いた書類に目を通す。利用する旅行社は最大手の会社。各種書類が送られてきた。その中でその旅行社のクレジットカードの入会案内がある。10年前、仕事をしなくなってからというものカードは1枚しか持っていない。だが、これから先、可能な限り旅行に出かけるつもりなので旅行社のカードを申請する。

このカードのいいところは海外旅行傷害保険が付帯されていること。それだけで不安ならばその都度プラスαをつければいいとか。

そのほかにも送られて来た書類を見ると、広島発と比べて福岡発は価格が安い。もうびっくりするほど安い。利用人数の差からそうなるのだろうか。

もしかしたら関西発や成田発も安いのかも知れないが・・・。

ともあれ、今月一杯は旅行よりもスペイン語を頑張って!

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