2011年5月19日木曜日

『人はひとりで死ぬ 「無縁社会」を生きるために』

島田裕巳の『人はひとりで死ぬ 「無縁社会」を生きるために』(NHK出版、2011年)を読んだ。この本はアサちゃんが亡くなる前頃「人が死ぬ…」ということに関心をもち予約リクエストしたものである。

この本の根底にはタイトルにあるようにNHKで放送された「無縁社会」がある。

島田は今話題となっている「無縁社会」の到来をどうとらえ、その上でどういった生き方を模索するか。それによるその解決が求められているとした。そこには生とともに死の問題がかかわっている。それを宗教学者の島田が彼なりに本書で答えを出している(4P)。

島田は生者に依存しない死のあり方について2つあげている。1つは無縁死に陥らないように結婚して家族を作ることで孤独に死なないよう努力すること。2つ目は孤独に死ぬことをあらかじめ覚悟する。たとえ家族がいても崩れ去る危険性がある。だから「いかなる状況になろうと、他人に依存せず、ひとりで生き、ひとりで死んでゆく。決してそれは、他人が思うほど寂しいことでも、孤独なことでもない。そこには無縁ゆえの自由がある。無縁死を覚悟したときに見えてくる、人の生き方もあるのだ」と(179-180P)。

島田は釈迦の教えを例に挙げて人の死をどのような形で迎えるか、は重要ではないとする。それは「人は死ねば、もう戻ってはこない。蘇ってくることなどあり得ない。そして、その死は誰にも守られない孤独なものだ。だからといってそれを嘆く必要はない。なぜなら、死は避けがたいもので、人間は死を打ち負かすことなどできないからだ」と述べる(189P)。

良寛は「死ぬ時期には死ぬがよく候」と述べ、人は死ぬ存在なのだからこそ、自覚してよく生きることの重要性を説いている。それは「死は誰にでも必ず訪れる。それを嘆いたり、恐れたりしても意味がない。重要なのは、今どう生きるかである」と(192P)。

死はいつ訪れるかは誰にもわからない。だから死に対する備えをしてもその準備が役立つとは思えないといっている(193P)。

そうならば、先々の死を取り越し苦労するよりもむしろ死を考えず今を大事に生きるほうが楽しいと思う。

毎日を楽しく生きれば「十分に生きた」と感じることができ、無縁死も、無縁社会も、恐れるべきものでない、と知ることができる(208P)。

島田は「おわりに」として「宗教という、人間が生み出したひとつの知恵の体系が教えてくれるのは、人は必ず死ぬという事実であり、その死は本質的に孤独なものだ」とする(214P)。

だからこそ「私たちは死ぬまで生きればいい」という(214P)。

当然といえば当然のこと。そうであればこそ無縁社会がどうのこうのと恐れるに及ばないものとか。逆の発想をすれば「無縁社会は豊かな可能性を帯びた社会」に見えるという(214P)。

ということは、家族があろうとなかろうと人の死は個々の人の生き方にすべて関わってくることになる。何もひとりで生きることを怖がることもないということか…。それならば、先のことなど考えず今をせいぜい楽しく生きていくに限る!

0 件のコメント:

コメントを投稿