2011年5月6日金曜日

『中村屋のボース』

先日感動メールをもらった中島氏とはどんな人なのか。その素朴な疑問を解くために読んだのが中島岳志の『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義』(白水社、2005)である。

この本の基礎となっているのは中島が大阪外国語大学の卒業論文に書いた「ラーシュ・ビハーリ・ボースと近代日本」である。中島は20代の人生をこの本の執筆に費やした。その後、中島はこれを博士論文としてまとめ「第三回アジア太平洋研究賞」を受賞した。

中島は本書のテーマとして「インドと中村屋をつなぐ数奇なドラマがある。そして、それは日本の一食品メーカーとの経営戦略を超えた、近代アジア史の壮大なドラマである。日本とインドの近代史にとって非常に重大な問題が、中村屋の『インドカリー』には隠されているのである」と述べている(はじめに)。

本書の主人公である「ラース・ビハーリ・ボース」は中村屋に「インドカリー」を伝えたインド人であり、1910年代のインドを代表する過激な独立運動の指導者である(はじめに)。

インド独立運動はガンディーの名がよく知られているが、それより以前に「ハーディング総督爆破未遂事件」を起こしたボースがいた(はじめに)。

この事件をきっかけとしてイギリス側から徹底的に追われたボースは日露戦争に勝利し、国力を高めつつあった日本への逃亡を企画する。偽名を使っての日本逃亡だった(はじめに)。

「この絶体絶命の窮地を救ってくれたのは頭山満を筆頭とする玄洋社・国龍会のアジア主義者たちであった」(はじめに)という。頭山を紹介したのは当時日本に来ていた孫文である(78P)。

違法な手段で日本に来たボースには国外退去命令が出され、それは新聞記事として伝えられた。だが、多くの日本国民はそうした政府のやり方に義憤を高める。そのような人々の中に新宿中村屋の店主・相馬愛蔵とその妻・黒光がいた(88P)。

その夫妻はボースを支援し、その後自分の娘・俊子と結婚させて「中村屋のボース」となった(98P)。「この二人の結婚に際しては頭山が親元となり、後藤新平と犬養毅が保証人となった」(142P)。

イギリス政府の国外退去命令は1919年にパリ講和会議が開催されると「ドイツの諜報活動と通じている」としてボースを追跡していた大義名分が失われてくる。1920年長男・正秀が誕生し、1922年には長女・哲子が誕生すると、1923年にボースは日本に帰化した(144P)。

日本人となったボースは「本格的なインドカリー」を日本人の間に広めることで、「イギリス人によって植民地化されたインドの食文化を自らの手に取り戻そうとする反植民地闘争」をした(150P)。

1926年全亜細亜民族会議が長崎で開催された。この会議は1924年に設立された全亜細亜協会が企画し、アジア諸国の代表者が一同に会して、西洋列強の帝国主義の打破とアジアの復興について協議するものであった(178P)。

この1回目の会議でボースは「いくつかの妥協と譲歩を行い、自己主張を圧し留め、会議全体の成功のための調停役として奮闘」し大活躍をした(192P)。それ以降、ボースはこれまで見られた厳しい日本批判を公の場では控える(194P)。

ボースは日本支援によってインドを独立に導きたいという政治的意図と、日本帝国主義に対する不信感との間で引き裂かれ、苦悩する日々が続いていく(219p)。

そのとき親しくしていた東京在住の朝鮮人実業家・秦学文と心を通わせ抱き合って泣いている。共に祖国を帝国主義によって奪われ、故郷に帰ることも儘ならないもの同士であったからである(220P)。

ボースは「日本帝国主義に対する警戒心と苦悩を抱きつつ、日本政府を拠り所としてインド独立運動に邁進しなければならないというアポリアを抱え込まざるをえなかった」(220P)。

ちなみにアポリアは論理的難点とか。

当時20代の中島は自身の課題としてボースの伝記、すなわちその人の生涯を書かねばならないと強く決意した。そこでボースの娘・哲子のもとへ出かけ多くのボースに関する史料を借り受けている(330P)。

中島はさまざまなところのボースに関する史料を前にして彼の思想と行動を解き明かす作業を開始する(330P)。ボースの思想に共鳴しながらも「彼が最終的に日本の膨張主義に看過し、その軍事力を利用してインド独立を成し遂げようとした点」にこだわった。だが中島には「日本に亡命し帰化した彼には、そのような道しか選択の余地が残されていなかったのだろうかという問い」があった(331p)。

中島はボースの生涯に限定された課題だと思ったことを「近代を超克し東洋的精神を敷衍させるためには、近代的手法を用いて世界を席巻する西洋的近代を打破しなければならないというアポリアこそが、二〇世紀前半のアジアの思想家たちにとっての最大の課題であり、苦悩だったのである」(332P)と述べている。

そしてボースの叫び声は「新宿の真ん中で、日本各地のスーパーやコンビニエンスストアの棚の中」で発せ続けられているという(335P)。それこそが中島は「今日の日本人に対して向けられた『アジアという課題に目をつぶるな!』という叫び声であるように思えてならない」とこの本で締めくくっている(335P)。

中村屋のインドカリーはいまだ食べたことがない。先日会った友人は我が家の近くのスーパーで売られているという。また先日入ったインド人経営のカレー店でも店主は中村屋について知っていた。けれどもそれがインド人と関わっていたとは知らないようであった。

この本はサブタイトルどおり「近代日本」が絡んでいる。「近代」に興味を持つものにとって非常に面白い論文だと思った。

とりあえずこの興奮の冷め遣らぬうちに中村屋のカリー(中村屋は「カレー」といわず「カリー」という)を食べたい。そして中島の他の書を早く読みたいとも思う。

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