天気予報を見ると来月5日まで34,5度の暑い日が続く。今朝も9時を過ぎるとスーパーへ行く。別に毎日スーパーへ行かなくても、と思ったりする。が、これも運動を兼ねてのことで癖にして出かけている。
以下は『風神の門(下)』(司馬遼太郎 新潮社、平成二十八年六十五刷)から気になる箇所を抜粋した。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★(殺しはしたが、樹から樹へ炎を舞わしなが飛びわたっていた芸は、なまなかな忍者ではできる芸ではない)むささびの術、というべきか。とおもったとき、才蔵は、関東の忍者のなかに風魔(ふうま)という血族集団がいるというはなしを思いだした。むろん、伊賀者である才蔵でさえ、その一類という者をみたことがない。樹から樹へととびわたる術に長じ、山中に迷い入った大軍が、わずかな風魔のために悩まされ、ついに武器をすてて逃げたというはなしがある。(すると獅子王院という謎の忍者は、風魔のことか)(38p-39p)
★「餅がほしいのか、それとも酒か」この宿場の茶店は、どの店でも、一日じゅう餅をつき、つきたての餅を客にたべさせている。駿府は、かつて府中といい、そのむかしは「阿倍ノ市(あべのいち)」といった。今も市中を流れている川を、安倍川(あべかわ)という。この宿の名物の餅は、その名をとって「安倍川餅」とよばれていた。(100p)
★(この男が、稀代(きたい)の忍者なのか)風魔は、もとは異人種だという。なるほど顔つきにそれらしいものは感じられるのだが、しかしふとんの上にあぐらを掻いているこの獅子王院の小さな姿からは、稀代の術者という異様さは想像できない。ただの百姓の作男に似ていた。(108p-109p)
★その城攻めの名人である秀吉が、まもる側に立って設計し、金に糸目をつけずに構築したのが、大坂城である。要塞としての精巧さ、規模の大きさは、日本はおろか、大明(だいみん)、呂宋(るそん)、南蛮にもこれほどの金城鉄壁はないだろう。(こまった。……)家康は、若いころから、悲しみだけは深く蔵する男だ。しかしこまったとき、うれしいときだけは、まるで少年のように露骨に表情に出すくせがあった。これは、かれの美点といえた。家康にこの愛嬌があったために、家康の部下たちはかれを愛しぬいてついに天下取りにまで仕上げたのである。(126p)
★住持が去ったあと、才蔵は感心して、「おぬしは、よい忍者じゃ。良忍ハ友ヲ得テ百年徒(うつ)ラズ、ということばがある」伊賀流の古語のひとつだ。その意味は、よい忍者というものは、忍者以外の社会に終生すんで友人から信頼され、尊敬される者でなければならない、ということだ。それでなければ、情報あつめができない、ということである。(184p)
★「お名は?」と塀の上から才蔵はおだやかにたずねた。「新免宮本武蔵という」と、武士は答えた。……十七歳のときに、西軍の宇喜多秀家の家来新免伊賀守の手に属して関ヶ原に出役し、その後流浪して剣を自得した。いま大坂城に入城しているのは、かつて青年のころに西軍に属したゆかりがあってのことだろう。「ぬしは、なんという」「忍びじゃ。名などはない。しかし人は、霧隠才蔵と呼んでいる」(314p)
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