2025年8月14日木曜日

『風神の門(上)』

 この3,4日間、ぐずついた天気から打って変わってまたも暑さが戻ってきた。この暑さはこの先ずっと続くようだ。 以下は『風神の門(上)』(司馬遼太郎 新潮社、平成二十八年六十五刷)から気になる箇所を記そう。このなかの「投宿人が自炊し、マキだけは宿から買うのである。マキ代のことを、木賃(きちん)といった」とある。これが「木賃宿」といわれるのだろう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★「そうであろう。そうでなくては、猿飛佐助ではない。それほどの技術をまなぶのに、われわれは、三歳のときから、死ぬようなくるしみを重ねて、こんにち、猿飛といわれ、葉隠れといわれるほどの者になった。これほどの修業を、たれのためにした。主人の犬馬になるためか。ではあるまい。おのれのためじゃ。おのれが、たれの奴婢になるためではなく、技術だけでのびのびと世ひろやかに生きてゆくためであった。とすれば、猿飛佐助ほどの忍者が、ただのくず侍と同様、忠義、恩義などと念仏を唱えるのは妙ではないか」「わしにはわからぬ。が……」佐助は小あじで単純な男なのだ。「人には、それぞれ生き方がある。わしは、おぬしが笑うその忠義というものが好きでな。たれかのために命を捨てようと思うとき、身も心もはずむのじゃ。これも男の一生ではないかと思うている。ところで、才蔵。どういうこんたんがあって、わしをここへ誘いだしたのか。それを早う申せ」「佐助、わしと手を組まぬか」……「……じつをいえば、わしは、大坂の豊臣右大臣家に忠義をつくさねばならぬ恩義はなにもないが、生生世世(しょうじょうせぜ)裏切れぬ」……「それが」それが、いま紀州高野山のふもとの九度山に隠棲する真田左衛門佐幸村であるとは、佐助は口がさけてもいえない。が、才蔵は、そこまで聞けばカンがはたらく。世上には、うわさが高い。……もし徳川と豊臣のあいだに戦端が開かれるとすれば、豊臣家が、天下の牢人のうち真っ先に招くのは、真田幸村であろうと。いや、幸村は、すでに裏面では豊臣家とむすびつき、打倒徳川のための指揮を紀州九度山からとっているかもしれない。「佐助、見えたぞ」才蔵は笑った。(163p-165p)

★日が暮れると、才蔵は、旅館の下男に心付けをやって、飯を炊かせた。このころの旅館は、食事をつけない。投宿人が自炊し、マキだけは宿から買うのである。マキ代のことを、木賃(きちん)といった。(242p)

★伊賀流忍術における幻戯(めくらまし)は、源流をたずねれば、おそらく中国の仙術と、インドの婆羅門(ばらもん)の幻術になるだろう。このふたつを術者として統合したのが役ノ行者(えんのぎょうじゃ)。名は小角(おづね)。大和の鴨族の出身で、七世紀の古代日本に活躍した。はじめ大和葛城山で修業し、三十年穴居して山を降りず、ついに仙術をえてから、大峰、二上、高野、牛滝、神峰、箕面、富士などを遍歴しつつ術技をみがき、晩年、九州を周遊し、豊前の彦山にのぼったが、以後消息を絶った。霧隠才蔵の時代よりもはるかに後年の寛政十一年、時の天子光格天皇からオクリ名されて、神変大菩薩の勅号を受けた。で、この人物が天智帝の御代、フジワラノチカタ(千方)という怪人に術をさずけ、千方が、伊賀の四鬼という四人の人物(金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼)にそれを伝えたということが、太平記巻十六に出ている。それが、源流である。じらい、千年の間、伊賀の山里でその技法はみがかれてきた。(319p)

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