4月に壷阪寺へ出かけようとしている。その前に司馬遼太郎は壷阪寺についてどう書いているのだろうと『街道をゆく(七)』(甲賀と伊賀のみち 砂鉄のみちほか)を読む。何日か前に読んだときは一部を読んだだけで終わりまで読み終えていなかった。昨日、その個所を読み終えると最後の最後になってやっと「壷阪寺」が出てくる。司馬遼太郎は「街道をゆく」で壷阪寺へ行ったが時間が遅くて閉門していたと書いている。ということで壷阪寺についてはほぼ記載がなくて残念!
以下は『街道をゆく(七)』(甲賀と伊賀のみち 砂鉄のみちほか)(司馬遼太郎 朝日新聞社、1991年代第7刷)から気になる箇所をメモした。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★帰路は、山路を歩いた。降りてゆくにつれてこの山城がいかに規模が大きく、いかに攻めにくいものであるかがわかった。わずか二万五千石でこれだけの城を持たされていた植村氏は、維持費が大変だったでだろう。
城の峰を降りてふもとに近づくとやがて壷坂(阪)寺になる。「西国六番 壷坂寺」という大きな石碑が立っている。壷坂の坂は、地図では阪で、電鉄会社のポスターなども阪になっている。しかし浄瑠璃などでは坂が多いようだし、境内の手洗いの石の面にも壷坂寺と刻まれている。
高取城主は、本多氏のころから、この寺の諸堂の修築にはずいぶん力を尽くしている。植村氏になってからとくに力を入れたらしい。壷坂寺は応仁の乱の頃に寺領をうしなって以来、自立することがむずかしく、結局は山上の高取城主を大旦那にせざるを得なかったのであろう。
しかし、植村氏がわずかに二万五千石で、あれだけの城を維持し、なお壷坂寺の修築をも、数代かけて営々とやっていたというのは、封建の経済のふしぎさを考える上で、興味がある。おそらく城に付いた山林が、いま考えているよりも相当大きな規模で存在していたからかもしれず、そうとすれば植村氏はいまでいえば吉野の山林王のようなものであったかもしれない。
壷坂寺に入ったのは午後六時すぎで、三重ノ塔へゆく門は閉じられていた。空を見あげると、鳥がしきりに梢を駆けすぎてゆく。高取の山頂の森へ帰ってゆくのかもしれない。(「甲賀と伊賀のみち」(城あとの森)(113p-114p)
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