2025年1月24日金曜日

「遼」94号&『風の武士(上)』から

 司馬遼太郎記念館から会誌「遼」94号が送付されてきた。この中に門井慶喜が「司馬さんが書かなかったこと」と題して講演している。そして、それを記事にして掲載している。

 門井によると司馬さんが書かなかったものとして「それは何かというと、いわゆる『文学』というものに近いかもしれません。ここで『文学』というものは、狭義の『純文学』と言っていいかもしれませんが、もっと広くとらえて言うと、つまり言葉だけに価値があるといった文学作品を司馬さんは書かなかった。……司馬さんはそういうものにあまり意味を感じなかった。もしくはあまり関心をもたなかったと話しているのです。……『やっちゃん』のような短い文章にも、きっちりと技術を使って、読者に届く工夫をしている。工夫をして内容が大切だとする人にとって、いわゆる狭義の『文学』というのは、おそらく関心外であったでしょう。……言葉というものに狭く囚われることはなかった。これが、司馬さんが書かなかった、あるいは書こうとしなかったものなのか、と私は考えています。後方からずっと司馬さんの背中を見てきた私は、私なりにそういうところを勉強して、読者の役に立つ、読者に貢献できる文章を一行でもたくさん書けるといいなと思っております」とある。この文を読んで久しぶりに門井慶喜という人の本を読みたくなった。ここ数年、エッセイ以外の本は司馬作品がほとんどで他の作家の本を読んでいない。しかし、届いた「遼」を読んで門井の作品を読んでみたくなる。門井は以前に直木賞を受賞している。この頃は直木賞にも芥川賞にも関心が薄れている。ただ、本と言えば司馬作品ばかりのような気がする。時には他の人の本も読もう。

 以下は『風の武士(上)』(司馬遼太郎 講談社 2016年第4刷)から気になる箇所をメモした。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★「一体、安羅井の隠し国というのは、どういう国なのか」「竹取の翁の物語をご存じかな」「かぐや姫のあれか」「そうだ」「かぐや姫がどうかしたのか」「あれが、お伽話だと思うか」「お伽話だろう」信吾は、くびをひねった。「お伽話ではない。安羅井の隠し国とは、かぐや姫の母国であると思え。思えぬものなら、話をしたところで益はない」「――するとかぐや姫とは」「おお、察しがよい。ちの様であられる」「とすれば、いったい丹生津姫とは、なにか」「丹生津姫とは、かぐや姫のことである」「わからぬ」(「神奈川の宿」)(291p-292p)

★信吾は、ときに監視者に追いたてられるようにして歩いている自分を思った。監視者に腹がたつときには横を歩いている安羅井人のために働いてやろうと思い、安羅井人が腹だたしくなるときは、おれは公僕隠密だ、とあらためて思いなおしたりした。(「流れ」)(326p)

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