2025年1月11日土曜日

『司馬遼太郎が考えたこと』(15)

 『司馬遼太郎が考えたこと』のシリーズは15巻で終わる。これからは再度、小説を読んでいこう。その合間に「街道をゆく」シリーズを読む。昨日、壷阪寺の記載があるかも、と思って『街道をゆく』(7)を図書館で借りた。しかし、そのなかの「大和・壺阪みち」を読んでも「壺阪寺」は一文字もなかった。ただ、YOU TUBEで見たとおりの「大和・壺阪みち」だった。壺阪みちは司馬が仮に名付けた地名だがかなり奥まった場所にある。

 以下は『司馬遼太郎が考えたこと』(15)(司馬遼太郎 新潮社、平成十八年)から気になる箇所をメモした。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★この移動式の家のことを、紀元前、司馬遷は「穹廬」(きゅうろ)と、よんだ。穹には、大空という意味がある。また、天井がアーチ状になっているという意味でもある。廬の意味は、仮の家、草庵のことである。が、意味よりも、あるいは匈奴語である(と想像する)ゲル(ghel)という音を、穹廬でもって表音したにちがいない(ついでながら、包(パオ)は、中国語である)。(「草原の暮らしよさ――モンゴル素描」)(21p)

★人間にとって最大の楽しみは人間を見ることなのです。人間が異境に旅したがるのは、そのような知的本能というべきものを満足させたいからでしょう。文化とは、集団が共有している慣習のことです。人間は、文化にくるまって生きているのです。文化という定義は「それにくるまっていると、心が安らぎ、楽しく、安全でさえある」というものです。地球上に、多様な文化があります。人間たちは、それにくるまって楽しく生きています。(「人間について」)(58p-59p)

★私には、自己流の空(くう)の考え方がまとわりついて離れません。自分自身を長い尺度で否定したり、みじかい日々の時間のなかで否定したり、同時に再構築したりしてゆくという習性です。これは。独りの私人の、独りのなかの作業です。悪癖ともいえます。自己が嫌いなのです。が、瞬時に気をとりなおして、自己を肯定的に再構築します。……私には、漱石という巨人と自分を見くらべるような不遜な気分はありませんが、漱石という人にも、そういう性癖があったように思います。年老いて、いよいよ漱石が恋しく慕わしく思われてくるのは、漱石にそういう性癖があって、その部分が、私にとって悲しく嬉しく感じられる成果と思います。漱石が、大好きなのです。とくに、その人間が、です。(「なぜ小説を書くか」)(92p-93p)

★題の風塵というのは、いうまでもなく世間ということである。風塵抄とは、小間切れの世間話と解してもらえればありがたい。……ただ心掛けとしては、風塵のなかにあっての恒心について書こうとしている。恒とはいうまでもなく、つね、あるいはかわらぬもの、ということで、恒心とはすなおで不動のものと言う意味である。ひとびとに恒心がなければ社会はくずれる。(「あとがき『風塵抄』」)(104p)

★二百年間、日本国は”造寺造仏”に精を出しました。大乗仏教は、釈迦の時代の原始仏教とはちがい、大寺という建物をつくり、仏像を鋳造せねばならないので、お金がかかるのです。”国家仏教”たらざるをえませんでした。この”造寺造仏”七〇八年、奈良の都という新首都(平城京)が建設されるころに、頂点に達します。ただし、この首都はわずか七十四年間で捨てられました。僧侶たちが暴慢になったからだといわれています。(「日本仏教小論――伝来から親鸞まで」)(172p-173p)

★孔子が『詩経』についていったことばがあります。「思無邪」ということでした。井上さんの生涯は、その三つの文字に尽きます。今後、こんな人を、私どもは知ることができるでしょうか。(思無邪「井上靖展」)(227p)

★世界の絵画のなかで、清らかさを追求してきたのは、日本の明治以後の日本画しかないと私はおもっている。生きものがもつよごれを、心の目のフィルターで漉しに漉し、ようやく得られたひと雫が美的に展開される。それが、日本画である。その不易の旗手が、秋野不矩画伯であるに相違ない。秋野画伯は上村松園の血脈をひいていると私はおもっている。詩的緊長が清澄(せいちょう)を生むという稀有の系譜である。(菩薩道の世界『秋野不矩 インド)(235p)

★中村元博士の『仏教語大辞典』によると、迦楼羅(かるら)という雷鳥は、ガルダという名でもって、その説話が南アジア一般にひろまっているそうである。いまもインドネシア航空の名称は「ガルダ」だそうで、その名で世界中に飛んでいる。迦楼羅はその羽毛の色は金色で、口から火を吐き、仏法を守護し、衆生を救う。……密教がまだ原始的な呪術であったころ、密林のなかのひとびとは孔雀と共に住んでいた。孔雀は、悪食である。好んで毒蛇を食べ、しかもその毒に中らないことにひとびとは驚嘆した。……古代の天才たちの想像力は、孔雀だけにとどまらなかった。孔雀をもとにして想像をふくらませた。ついに両翼をひろげると三三六万里という巨大な鳥にまで成長させた。迦楼羅である。……食べものも、孔雀のように毒蛇では追っつかず、龍を常食している、とした。しかも、火を吐く。その火がこの世の罪障をほろぼさせてくれるとなれば、現代のわれわれも、迦楼羅のような鳥を希求せざるをえない。それがこの装丁の「青不動」の炎である。(あとがき『十六の話』)(299p-301p)

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