ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★謡曲も浄瑠璃も、早期資本主義という殺風景な社会において、精神の栄養になったと思います。栄養とは、ロマンティシズムのことであります。精神が干からびたリアリズムにおちいらぬよう、シーソーのべつの端にロマンティシズムを置き、それによって人生の悲哀や男女の恋についての高い感受性をうしなわぬようにした、という意味であります。……一八六八年の明治維新で過去のほとんどを捨てた日本社会は、三十余年後にほぼ第一期の成熟期をむかえました。そのとき出現したのが、作家夏目漱石(一八六七~一九一六)でした。(「文学から見た日本歴史」)(40p―42p)
★清朝以後、現在にいたるまで、中国では「満洲」または満洲族とよばれている。ついでながら、こういう機会に日本人おおかたの誤解をとくためにいっておかねばならないが、満洲とは本来地名ではない(地名なら満州とでも表記するところである)。満洲とは民族で、こにちでも中国においてはその使われ方は変わらない。通説では、ヌルハチ(一五五九~一六二六)以前から、このツングース系のひとびとのあいだに文殊菩薩信仰がひろまっていて、かれらはみずからの族のことをマンジュといっていたことからはじまったという。また、太祖のヌルハチ自身、別称としてマンジュを用いており、またかれの初期、自分の領域のことをマンジュの国(ゲル)とよんでいた。太宗ホンタイジにいたって、自分の民族名を正式に”満洲”と表記するようになった。決して地域名ではない。地域名としては、明代までは、このあたりは遼東(ときに遼東・遼西)とよばれていた。清朝になっても、王朝勃興の聖地を満洲などとよんだことはない。東省(とうしょう)とか、東三省(とうさんしょう)(奉天・吉林・黒竜江の三省)とよんでいて、新中国になってからは、東北地方とよぶようになっている。(女真人来たり去る―あとがきに代えて 『韃靼疾風録』)(94p―95p)
★和田(ホータン)にあった遠き世の于闐国こそ、わが「華厳経」をはじめ多くの大乗経典のふるさとであったらしい。……私はこの地にきたとき、一歩ごと、華厳を感ずるような瞬間をもった。「華厳経」がここでたしかにうまれたという、実証を超えた感動もおぼえた。大砂漠と、太陽のはげしさとブドウ棚と吹きわたってくる涼風とそれに運河の水、さらには人や生物のいとなみをみていて、つい華厳ふうに感じざるをえなかった。この地でさまざまな”因縁”(関係性)が構成され、それが”縁起”になって、オアシスの安全という”因果”をうんでいるのである。……この地で成立したらしい「華厳経」はやがて、中国にわたり。この経を中心とする華厳宗(宗とは体系のこと)がつくられた。このとき、"一即一切、一切即一”(一はすべてであり、すべては一である)という説明のしかたがうまれた。一粒の砂は宇宙そのものである。宇宙はこの一粒の砂である、という言い方は、哲学的な表現としては古今まれな絶妙さをもっている。この国は、いわゆるシルクロードの南道にあったが、いまはまぼろしの国になっている。こんにちでは新彊ウイグル自治区にあり、すでにふれたように、名も和田(ホータン)という表記にかわっている。……すぐれた音韻学者だった藤堂博士はしばらくうつむいて歩いておられたが、やがて、口蓋をこすり、「kho!」と叫ばれた。「秦漢時代は、于はホー(口蓋摩擦音)という音だったことを思いだしました。だから于闐は紀元前後の音でいいますと于闐(ホータン)とおなじ音になります。現代中国ではホータンという現地音に対し、和田というやさしい漢字をあてて表記したのでしょう」……本格的に中国領にくみ入れられた歴史は新しく、乾隆年間に清に帰服させられ、一八八四年に”新しい土地”という意味の新彊省が設けられた。(「華厳をめぐる話 井上博道写真集『東大寺』)(327p-333p)
★インド文明と中国文明の基本的なちがいは、インドが思弁を偏愛して時間的記録をよろこばないことである。それにひきかえ、中国は思弁よりも時間ごとに記録を残すことを偏重する。簡単にいえば、中国文明は歴史をよろこび、インド文明は記録好きをあざけりはしないにしても、その価値に無感動である。大きな輪廻からみれば、何年にたれがどうした、などということは虚仮にすぎないと古代インド人は思っていたのだろう。……古代インドは日常語のほかに、学問語であるサンスクリットをもち、文法学者が活動し、言語の制度をつねに保っていた。古代インド思想は、このすぐれた言語によって表現されたのが、釈迦もまた当然、その言語で自分の考えを言いあらわした。しかし、釈迦という人は文章表現はせず、人に書きとめさせもなかった。さらにその大原則として不立文字でもあり、言語によっては仏教の窮極の境地は表現できない、としていた。このため、釈迦がどういう人でなにを考えていたか、つまり釈迦の仏教はどういうものであたかが、わからない。(「華厳をめぐる話 井上博道写真集『東大寺』)(337p―339p)
★大仏殿における毘盧遮那仏は、一大蓮華の台(うてな)に安座しておられる。その蓮華には花びらが千葉あり、一葉ごとに一釈迦が応身して線刻されている。以下は、華厳的観念の中でのはなしだが、その一葉ずつの中に百億ずつの国があるとされる。百億の一国ずつに一釈迦がある。つまりは無数の釈迦が、三千大千世界にあらわれて衆生(しゅうじょう)を済度しているという華厳世界をあらわす。東大寺は、一面、総国分寺ともいわれた。諸国の国分寺は、東大寺の大仏の蓮華の花びらに一葉ずつとして存在する。しかもその一葉の花びら(一つの国分寺)に、無数の釈迦がいて説法をしつづけている、ということである。……「華厳経」は日本人の思考法の中に雨水が地面に吸われるように影響した。ほとんどすみずみにまで行きわたり、いまも日本的哲学においてこの事情はかわらないのである。その原典は中央アジアのオアシスでうまれ、流沙の道をへて東へゆき、はるかに日本にきた。私どもが東大寺境内に入るとき、たとえば京都の龍安寺の石庭を見る日本的感情よりもはるかに雄大な世界を感ずるのはそのせいかもしれず、またひとに世界を感じさせなければ、それは華厳でもなく、また東大寺でもない。(「華厳をめぐる話 井上博道写真集『東大寺』)(357p―359p)
★文化というものは、魚が魚巣に住むように、サナギがマユにくるまれているようにそれにくるまれていると快いというものであります。ときに、慣習と同義語でもあります。慣習は人の心をおちつかせます。さらに、すぐれた芸術は人の心を快くさせます。すべて”くるまれて楽しい”とうことが、文化なのです。むろん、人によって、家族によって、民族によって、文化は異なります。他者の快さ、つまり異文化を尊重し、たがいに共存しあって暮らしているというのは、ネパール国民の偉大さでもあります。(「すばらしい時間を」)(396p)
0 件のコメント:
コメントを投稿