『終活なんておやめなさい』(ひろさちや 青春出版社、2014年)を読んだ。「終活」、この言葉からして好きでない。さらに、こういうことをするのも好きでない。それゆえ、この本に書いてあることに関心を示す。
はじめに、に書いてある文章。
釈迦は「死後についていっさい考えるな!」と教えられている。
自分が死んだあと、この「私」といった存在はどうなるのだろうか…と、いくら考えてもわからない。わからないことをあれこれ考えるだけ無駄であるという。
この文章、実感する。若い頃、死んだあとでなく、先々のことを考えすぎていた。30歳代半ばころ、考え通りにものごとはならない、と気づく。それ以降、頭で考えず、やりたいことを行動に移すようにした。
その方が気分もいいし、ナニゴトも上手くいく。「考えるだけ無駄である」、この本で言いたかったことだろう。大いに賛成。
「死」を考えるよりも「生」をしっかりと生きる。釈迦はそう教えている。そして、仏教も「なにも心配することはない。あなたは人生をしっかり生きていれば、死後のことは仏がいっさい面倒を見てくださるよ」と教えてくれる。
「終活」など考えず、いま、楽しい人生を生きることが筆者に言わせると本当の「終活」だという。
問題とされる「孤立死」。これも政治の責任、行政の責任だという。194p「遺族がいなければ、死体の処理は行政に任せておけばいいのです。」。55pこの考え、吉行あぐりと同じ。
亡くなれば皆、「お浄土」にいくらしい。「歳をとるということは、自分の中にお浄土をつくっていくことなのだ」と意識することで、ほどよく穏やかな老人になれる、とか。174pこれが老いを生きる処方箋。175p
金勘定に躍起になっている終活よりも、自分の中にお浄土をつくることに幸せを感じる終活、この方が老いの生き方としてすばらしいという。175p
「生活を最優先させて生きると、人生を生きることができなくなる。」。
これにも同感。生活を大事にする人は金を稼ぐために躍起になる。「人は裸で生まれてきて、なにも持たないで還っていく。その道理に気づくことが、生死をあきらめることだ、と思います。そして、そのことをわきまえて生きるのが、人生を生きるということなのです。」167p
ここでいう「あきらめる」、は「明らめる」のこと。
ともあれ、元気で楽しく、しっかりと「今」を生きていれば何も死を恐れることはない。
家でおとなしく本を読むつもりが、2度ほど自転車で外に飛び出す。行く先は図書館。久しぶりに全国紙を読む。
毎日新聞か朝日のどちらかに、堀文子の「画業八十年・堀文子の挑戦は終わらない」、「ただ一度の一生を美にひれ伏す」、<一所不在・旅>展の案内がある。場所は兵庫県立美術館。時は4月から。これを見て嬉しかった。
何歳になってもお元気に活躍される様子をテレビで見たりエッセイを読んで知る。いつの日か絵も見てみたい、と思うようになった。その矢先の個展案内。
春になったら神戸に行こう。市内の美術館がバスツアーを出してくれるといいけど、なければひとりで行こう。ほんと、楽しみ!
新聞ではなく、昨夜のローカルニュース。駅前のデパートで花の祭典をしているらしい。今日はこれを見に行こう。今日も楽しく!
ここにメモとして堀文子のURLは以下の通り。
http://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_1504/index.html
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