昨夜から雨が降り続く。晴天の昨日午後は日本画教室に出かける。描いているトドワラの絵ももうすぐ完成しそうだ。さて次は何の絵を?と思うが今はまだ決めていない。
以下は『戈壁の匈奴』(『ペルシャの幻術師』に収めてある 司馬遼太郎 文藝春秋、2001年)から気になる箇所メモした。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★歴史は神の神秘にみちたアトリエであるといわれる。しかし、その工房で創られた作品の半ばは、ついに後世の人類の目に触れることはない。漠南のオアシス国西夏もまた、そうした国の一つであった。歴史は沙の上にこの華麗な国を創り、わずか二世紀の生息をゆるしたのみで、ふたたび砂漠の底に風葬し去った。数少ない資料によれば、西夏は党項(タングート)人の国であった。蒙古資料の表現癖を借りれば、その国は「崑崙の青玉(ぐふとぶち)のごとく」小さく、国土の中央を、マルコ・ポーロの越えた絹の道(シルクロード)が貫いていた。(53p)
★中世蒙古人は、神の生んだもっとも卓(すぐ)れた獣であった。あの戈壁を例にとっても解る。彼等の故郷の南に横たわるこの大砂漠は、今日の探検整備をもってさえ、越えることは容易なことではない。ところが鉄木真のころの蒙古人は、十日間の食料を持ち、二十日間の日数で、北から南へ越え渡ったといわれる。彼等は、六日間の絶食に耐えられる特異な胃袋をもっていた。その心臓も、他人種のそれとは異なる。成吉思汗鉄木真の子崫闊台(オゴタイ)大汗が、喀喇和林(カラコルム)の宮殿で崩じたときのことであった。(66p)
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