我が家の狭い庭に今年は水仙が2輪ほど蕾をつけている。葉っぱはあちこちに分散して生えているが、蕾が見当たらない。昨年の開花後、早く葉っぱを早く切りすぎたのが影響しているようだ。水仙の他に久々にチューリップも芽を出した。が、これは全く蕾をつけていない。とはいってもチューリップは10年くらい前に球根を買って植えて1,2年は花が咲いた。が、その後は手入れ不足でそのままにしていた。今年はそれが芽を出したので花が咲く?と期待したが無理のようだ。
以下は『妖怪』(下)(司馬遼太郎 講談社、2007年第1刷)から気になる箇所をメモした。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★それが公卿の通癖であった。公卿は底意地がわるいとされているのに、科人(とがびと)に対し、罪をきめるとなるととたんに口をつむぐ癖があり、決して判決に加わろうとしない。ひとの怨みというものが、生霊(いきりょう)にせよ死霊にせよ、かならずあるということがその社会では伝統的に信じられているのである。王朝のころ、藤原系の公卿たちは菅原道真を大宰府に流してその流刑地で病死させてしまったが、その道真の怨霊がその後さまざまなかたちで都や宮中や公卿の家に祟った。そういうことが公卿社会でながく信ぜられ、それがために天満宮がたてられ、道真は神になり、神としてその怨霊がしずめられている。こういう信仰が、公卿に断罪の勇気をうしなわせた。公卿が政治の当路にいた王朝時代にはほとんど死刑というものがなかった。罪ある者の首をほとんどおがらでも切るように切りはじめたのは平家や源氏といった武家が政治をとりはじめてからである。(266p)
★こんどは唐天子が勢いを盛りかえした。「利や欲や金がめあてで人間というものに憑けるかよ。憑くということは、気根はもとより、五臓六腑が胸と腹のなかで逆巻くほどに力の要るものだ。たかが利や欲や金でこのようなことができるか」「では、なぜかね」「憑きたいからさ」それだけが、答えである。唐天子はさらにいった。「憑きたいからだよ。人間の魂を、この唇で吸いとっていくほどの悦楽はこの世にもあの世にもあるまい。慄がくるほどのたのしみだ。これを浮世の現象(こと)にたとえて言えば、色恋に似ている。色恋の百倍、千倍、万倍のものだと思ってもらえば、ややあたっている」(293p-294p)
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