2025年2月4日火曜日

『風の武士(下)』

 今日は予想最低気温0度、最高気温3度と冷たい一日となりそうだ。時々日差しはあるがどんよりとしている。図書館に予約確保の本が3冊ある。寒い日だが1日に1度は外に出るようにしている。後で図書館へ行こう。

 以下は『風の武士(下)』(司馬遼太郎 講談社 2016年第15刷)から気になる箇所をメモした。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★「浄瑠璃の壺阪霊験記じゃがな、むかし和州壷阪寺の下に沢一という座頭が住んでいてな、女房お里が美しので評判じゃった。その女房が、毎夜、床をぬけていずれかへ行く。沢一、てっきり仇し男ができたとにらんでつけてゆくうち、案に相違して、お里が壺阪の山へのぼって、夫の目が明くよう願をかけていることがわかった。お里の貞節に沢一は泣いたが……」……壺阪の町は、徳川家譜代二万五千石の植村家の城下町で、高取ともいう。吉野の連山に入る入り口の町で、野の人里は、この町で最後といっていい。(「大和路」)(174p-175p)

★人は、いつも、自分をさまざまな意識でしばりあげている。見栄、てらい、羞恥、道徳からの恐怖、それに自分を自分の好みに仕立てあげている自分なりの美意識がそれだ。それらは容易に解けないし、むしろ、その捕縄のひと筋でも解けると、自分のすべてが消えてしまうような恐怖心をもっている。(「国栖ノ国」)(176p)

★猫は信吾を斬りぞこなって死んだが、信吾はその傷のお陰で夷軒の殺意をまぬがれた。まるで猫の妄執のような気がする。公儀への異常な奉公心をもっていたあの男は、自分が死んだ以上、せめて信吾でも生かしておいて公儀の利権をまもりたかったのだろう。――と考えたいのが、感傷家の信吾のいわば気に入った思考法だった。(猫の意志を継いでやるぞ)そう思うと、萎えていた気持ちが、ふたたび生き生きしてきた。男というものは、自分で自分なりの目的をつくって、そこに突入してゆくときにだけ、生き甲斐を感ずる不思議な動物なのだ。(「変心」)(247p-248p)

★懸命な読者諸氏は、すでにおわかりのように、いすらい井戸と、やすらい井戸とは、流浪のユダヤ人景教徒が鑿った井戸で、いすらい、やすらいは、いずれもイスラエルのもじりであり、『風の武士』の安羅井(やすらい)国の”安羅井”も同じく、イスラエルのもじりなので、流浪の果てにわが国にたどりついたユダヤ景教徒たちが熊野につくった国ということになる。いすらい井戸、やすらい井戸を鑿った景教徒たちと、安羅井国を建国した景教徒たちの相互関係はわからないが、作者によって創造の翼をあたえられた読者は、その翼を籍(か)りながら、時空を超えて古代ロマンをたのしむことができる。……『風の武士』が注目に値するのは日本人の源流を探るという作者の創作意図が込められていることである。それは”日本とは何か”、”日本人とは何か”という司馬文学のテーマの一端なのである。(「解説」磯貝勝太郎(文芸評論家))(356p-357p₎

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