2024年10月21日月曜日

『司馬遼太郎が考えたこと』(10)

 町内の秋まつりは一日目は雨が降った。二日目の昨日は秋晴れになり、獅子舞が各戸を訪れる。獅子についてシンバルをたたく子供たち、またピーヒャラピーヒャラと笛をふく大人たち、それに太鼓が加わる。その周りには鬼がいる。我が家にも獅子舞が来た。そして今年の祭りは終わった。

 気候が落ち着けば泳ぎに、というところだがプールが今月末から3月半ばまでリニューアル工事のため休みになる。それまでに2回くらい泳ぎに行こうと思っている。が、さてさて。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は『司馬遼太郎が考えたこと』(10)(司馬遼太郎 新潮社、平成十七年)から、またいつものように気になる箇所をメモしよう!

★中国にも朝鮮にも正義という思想は古くからその官僚世界にあり、ひとつの「正義」を共有する者たちが他の「正義」を共有する者を邪義として打倒すべくたがいに朋党を組み、惨烈な闘争の歴史をくりかえしてきた。こんにちなお、中国の政治現象をみれば、そのことを十分理解することができる。西洋ではいうまでもない。正義の女神は盲信性をあらわすためかどうか、顔は目隠ししている。片手には正邪の判定のための秤をもち、べつの手には邪をたおすための剣がにぎられている。政治的正義のおそろしさを、この目隠しと秤と刃ほど端的に象徴しているものはない。(「奇妙さ」35p)

★この国(注:新羅)は半島統一後、唐への外交的配慮もあって急速に唐文化を受容し、半島のすべての地名を中国化したばかりか、人は貴賤もなく、すべて古きアルタイ語系の名を廃し、中国式の姓名に変えるまでにいたるのである。朝鮮文化が、中国文化の一支脈かと錯覚されるにいたるのは、この極端な中国化政策を出発点としている。(「古朝鮮の成立」246p-247p)

★ただ齢をとるにつれて、自分にも小さな好みがいくつかあることに気づいた。例えば黄色い花が好きであるということである。それも、できるだけたんぽぽに似た花であることが望ましく、結果はたんぽぽがいい。つわぶきの花がたんぽぽに似ているために、この場合は、やや気に入ったのである。(あとがき『歴史の世界から』249p)

★黄色が好きというのは、精神のある種の傾斜とかかわりがある、という。しかし私の精神にはそれほどきらびやかな傾斜はなさそうで、要するに好きといっても、他愛もない。春がたけると赤い花が咲くが、それ以前、春の浅いころは、れんぎょうなどがそうであるように、たいていの花が黄色い。そのことから思えば、単に早春が好きなのだということとかさなっているだけかもしれない。しかし、よくわからない。早春が好きだとすれば、真夏の陽の下で咲いているたんぽぽはどうなるのだろう。好ききらいというものは、自分で説明のつくものではなさそうである。……たんぽぽの美しさが、花を感ずるときの基準になってしまっているようであり、つわぶきの黄色さを見たとき、不意にごく最近うしなった友だちを想いだしてしまった。(あとがき『歴史の世界から』254p)

★古い漢文では、遊牧国家のことを、「行国(こうこく)」とよんだ。国そのものが水と草を追って移動するからである。用語例としては『史記』の「大苑伝」に、烏孫(うそん)という、匈奴より小さな行国にふれている。「烏孫ハ大苑伝ノ東北、二千里バカリニ在リ。行国ニシテ、畜ニ随(ヨリソ)ヒ、匈奴ト俗ヲ同ジウス」とある。(「天山の麓の翠のなかで」281p)

0 件のコメント:

コメントを投稿