これから先の天気予報を見ると今年の梅雨は今日で終わりそうだ。明日からは地獄の暑さが続く!?
『司馬遼太郎が考えたこと』(5)(司馬遼太郎 新潮社、平成十七年)を読んだ。この本は15巻までシリーズ化している。そのため司馬遼太郎の小説はしばらくの間ご無沙汰気味だ。以下に気になる箇所を記そう。
★英語のスピーチを演舌または演説という日本語に仕立てたのは福沢諭吉である。福沢は演説を重視し、門人にそれを勧め、明治八年(一八七五)には、三田に演説館を建てた。しかし、不特定多数の大衆にものをいうという習慣が日本になく(真宗僧の説教以外に)、さらには政治のなかに論理を持ち込んで、それを修辞によって聴衆に理解させ、さらには鼓舞させるという習慣が日本の過去の政治に皆無で、それだけでなく日本語そのものの言語的伝統にもそれがなかったため、たわいもない煽動や詭弁、もしくは乞食節(こじきぶし)調へ陥りがちで、ほとんど実を結ぶことがなかった。結局は政治は論戦や雄弁によって動かされることなく、楽屋での取引で動かされてゆく。(「訥弁の国の唱」151p)
★徳川大名の先祖は、たいてい戦国に現れてくる。その連中の出自をしらべてみると、そのほとんどがどこの馬の骨だかわからない。これが明治のとき華族になって公侯伯子男になったのだから、要するに日本の華族というのは、モトはどこの馬の骨だかわからないのである。日本歴史のユーモアは、そういうところにある。……「明治帝は、ユーモリストとして相当なものであったらしい。蜂須賀侯爵と話をしておられて、ちょっと中座された。侯爵がふと卓上をみると、いい煙草がある。一本頂戴して火をつけたが、しかしもうすこしほしかったので、何本かつかんでポケットに入れた。ほどなく明治帝が席にもどって来られた。帝は卓上の煙草入れの様子が変わっているのに気づかれ、いかにもおかしげに、「蜂須賀、先祖は争えんのう」といわれた。江戸後期からの太閤記ばやりが、蜂須賀侯爵家にとって不幸なことに、明治帝にまで知られるほど、小六を有名にしてしまったのである。(「どこの馬の骨」155p-156p)
★この日露戦争の勝利後、日本陸軍はたしかに変質し、べつの集団になったとしか思えないが、その戦後の最初の愚行は、官修の『日露戦史』においてすべて都合のわるいことは隠蔽したことである。……その理由は、戦後の論功行賞ににあった。伊地知幸介にさえ男爵をあたえるという戦勝国特有の総花式のそれをやったため官修戦史において作戦の当否や価値論評をおこなうわけにゆかなくなったのである。……これによって国民は何事も知らされず、むしろ日本が神秘的な強国であるということを教えられるのみであり、小学校教育によってそのように信じさせられた世代が、やがては昭和陸軍の幹部になり、日露戦争当時の軍人とはまるでちがった質の人間群というか、ともかく狂暴としか言いようのない自己肥大の集団をつくって昭和日本の運命をとほうもない方角へひきずってゆくのである。(あとがき『坂の上の雲 四』205p-206p)
★日本の今日を是認するとすれば、今日あらしめたのは、体制としての儒教の悪しき害から幸いにして逃れたということです。儒教は書物として持っていただけなんです。書物として持っているだけで、体制・生活秩序として持っていない。……儒教的中国体制に儒教的中国体制の原理がある。それを一時に蹴っとばすには別の強烈な原理を持って来なければならない。……孔子、孟子も中国三千年の文明も全部拒否してもいいから、この悪しき儒教的中国体制を払拭したい。だから劉少奇を紅衛兵で追っ払ったということだろうと思います。それ以外にとても考えられない。それくらい体制としての儒教は悪いものですよ。……その清潔さのなかでなければ明治以後のインダストリイというのは興らなかった。資本主義というのは官吏がコミッションをとらない体制の中でなければ興らないのです。だから資本主義が興った国というのはヨーロッパでも僅かです。……そうでないアングロ・サクソンやドイツ人は、きっちりやりましょうでやったから資本主義が興ったのです。ところが日本人はドイツ人やアングロ・サクソンではないけれども、非常に長い歴史の間、同じ状態で成立していたわけで、とくに徳川期というのは一種の日本的吏道というものが確立した時で、そのお陰で明治維新が成立し、資本主義が栄えることができたのだと思います。(『日本・中国・アジア』324p-330p)
★世界中のたいていの民族は絶対原理を一つ持っていて、その絶対原理で人間をつくり変えてしまう。そうでなければ人間は猛獣で手に負えない動物だと思っているらしい。中国では儒教でもって人間を飼い馴らしているし、ヨーロッパではキリスト教でそうしている。回教圏もむろんそのことが強烈におこわれてきた。……人間に対してもこのようにつくり変えることによって、はじめていい社会が組みあげられてゆき、国家というものがその上に乗っかかるというのが、たいていの人類が持っている考えだろうと思うんです。ところが、日本史上の日本人だけは非常に人間をそのままに考えていて、たとえば、二十歳になれば自然に成人するんだという具合に解釈しているようですね。日本人には世界中の他の民族とちがう条件があって、自然のままで社会がつくられるようにできている。だから、儒教に接したときも仏教に接したときも書物と制度だけを簡略にとり入れて、人間が人間を飼い馴らしてゆくという絶対原理を深刻には考えず、原理としとり入れなかったわけでしょう。中国ではまったくちがいます。孔子が古の道とよんだ漢民族古来の秩序原理をかれが整理して宣布し、そしてひろまった儒教が、体制をつくる上で便利であるということで採用され、専制君主である皇帝がこの原理の体現者として人民を統治してゆく。武による競争社会ではありませんから、儒教体制の王朝はめったに倒れないわけですよ。島津藩とか長州藩といった競争者が現れないんですから。そのうちに官吏が腐敗し、大飢饉が起こり、農民が流民化すると、易姓革命が起こって、天明改まるというわけです。この繰り返しがだいたいの中国史でしょう。(「競争原理をもちこむな」354p-355p)
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
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