2020年10月27日火曜日

『胡蝶の夢』(一)

 『胡蝶の夢』(一)(司馬遼太郎 文藝春秋,平成十二年39刷)を読んだ。以下はその抜粋から。今、その(二)を読んでいる。が、遊ぶことに忙しく以前ほど思うようには読めていない。この本は計4巻あり、何がなんでも早く読み終えたい。それにしてもいつも思うのは司馬遼太郎が作品につけたタイトルだ。この『胡蝶の夢』も素晴らしい。しばらくは『胡蝶の夢』を読むに限る。と、言いながら図書館でかなり前に予約した本の順番が回ってきた。これも読まねばならない。これから予約確保の本を受け取りに図書館へ行こう。なお、本の題名の「胡蝶の夢」とはネット辞書によると「《荘子が夢の中で胡蝶になり、自分が胡蝶か、胡蝶が自分か区別がつかなくなったという「荘子」斉物論の故事に基づく》自分と物との区別のつかない物我一体の境地、または現実と夢とが区別できないことのたとえ」とある。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★佐渡は小さいながらも淡路や壱岐、対馬とともに古くから一国のあつかいをうけてきた。しかし同時に怨霊の島として暗い印象をもたれていた。……佐渡相川の歴史は暗いが、しかし佐渡の国全般にとってみれば、これによって外界の文化が移入し、人々の物質的な、あるいは知的な好奇心が刺激され、ふつう「孤島苦」とよばれる島嶼一般の閉鎖性からまぬがれてきたとろはある。……江戸末期には富商のあいだで学問文藝がさかんになり、新町の伊右衛門程度の者まで碁を習いに江戸へゆくという物好きの風が出てきた。……伊之助の隣家の山本家にやってくるという宿根木の村医者にも、濃くかかわっている。宿根木の収蔵は、佐渡でも極端な物好きのひとりといっていい。9-10p

★ついで乍らこの時期から二年後、収蔵のこの世界地図が江戸で出版されたとき、幕府の天文方の専門家たちを驚倒させた。幕府はやがて在来、唯一の科学機関だった天文方を母体とし、洋学調査機関に発展させ、蕃書調所(のちの開成所。明治後、開成学校、大学南校を経て、東京大学になる)を設立したとき、収蔵はこの地図の功で江戸によばれ、絵図出役に採用された。一介の佐渡の農民が地理学の造詣によって幕臣になるという、以前の江戸期には考えられないふしぎな時代がはじまるのである。奥御医師というのは、役者に似たところがある。将軍の脈をとるというので手足をつねにみがき、さらには将軍に不快感をあたえないように絹のやわらかい着物に香を焚きしめて、武家とはいえ、その点、異形というに近い。57p

★徳川幕府は好奇心を抑圧しなければならなかった。社会のあらゆる慣習から持ち道具にいたるまで、あたらしい事や物を望まず、その類いのものを権力と法とで禁じた。もし禁じなければ、二百七十年もつづいた江戸体制という精密な封建制と、封建制のなかの安寧は、もっと早い時期に崩壊していたにちがいない。日本の場合、儒教は薄くしか社会を覆っていないために、徳川幕府は儒教をもって好奇心を喪わせるというぐあいにはゆかず、結局は、法と精度を巧妙に組みあわせ、権力をもって強力に作動させることによって、ともすれば噴出しようとする好奇心をおさえにおさえた。この意味では、思想的看守に頼らず、多分に法に頼ったといっていい。99-100p

★徳川期の日本社会は、つよい知的好奇心を内蔵している。松本良順という若者にいたるまでの蘭学の歴史は、抑圧された好奇心の歴史といっていい。100p

★シーボルトがかれらに施した医学は、実際はドイツ医学であった。ただかれは日本の国法上オランダ人でなければならないため、たれもがオランダ医学だと思っていた。げんにこのにせオランダ人は、訛りの多いオランダ語で講義をした。かれは、医学を組織的に教えなかった。医学を組織的に教えるのは、幕末の長崎にやってくるポンぺまで待たねばならない。104-105p

★「真魚始め(まなはじめ)の真魚ですか」と、伊之助は、このおでこに変に力がみなぎっているような娘に圧倒されて、間の抜けた返事をした。江戸でも佐渡でも、嬰児が育って百二十日になると、食いぞめの儀式をする。それを真魚始めといった。120p

★徳川家は、法理的にいえば元来、大名の大いなるもので、その武力によって諸大名を摺伏(しょうふく)させ、いわば大名同盟の盟主といったようなかたちで、君臨してきた。その一見絶体権であるかに見える権力は、その武力が衰えれば相対化せざるをえず、つまりはその力学が変化したのが、ペリー屈して条約を結んだときであるといっていい。諸国は、その反対論で沸きかえった。反対論は攘夷論になり、攘夷論は倒幕論へ質的に転換しかねない形成になった。その間、もっとも時世に鈍感だったのが、幕臣社会であった。良順といえども何をしていいかわからず、相変わらず蘭学に没頭していた。伊之助にいたっては、小間物屋に通っていたのは、この時期であった。125p

★幕府は、兵学については蘭学を公認した。しかし、医学については、なお蘭方の禁制を解いていないのである。奥御医師の世界では依然として多紀楽真院が権勢を持ち、蘭方は、禁制のとおり、奥御医師桂川家の身に限られている。良順という蘭方家を養子に持つ松本家でさえ、薬局には蘭方薬を備えることができないという現状であった。130-131p

★友情という現象が濃厚に出てくるのは、江戸末期である。きわだって目立つのは、蘭学の専攻者のあいだでの友情といっていい。佐藤泰然より二時代ほど前に、オランダ原書の解剖書が翻訳され、『解体新書』として世に出た。この翻訳は同志的結束による共同作業だったが、ほとんどの者がオランダ語に通ぜず、一冊の本を中心に鳩首し、一語一語なぞを解くようにして進められた。同志たちは藩を異にし、身分を異にし、しかも藩命によらず自発的に集まってこのことをやった。この翻訳についての友人組織がこわれることなく持続したのは、使命感があったとはいえ、江戸期における珍しい現象といっていい。

 その後、シーボルト事件や蛮社の獄など、幕府による蘭学者弾圧がいくどかあったが、これら凄惨な事態の前後で友情の発露と見られる人間の現象が幾例も見受けられる。蘭方医佐藤泰然の人生の特徴は、友情に篤く、いい友人に恵まれ、それらの友誼関係の中心にかれがいたということであろう。205p

★佐倉の順天堂は、そのようにして創められた。この私立外科蘭方外科学校兼病院が、結局は、大坂の緒方洪庵塾(適塾)とならんで蘭学塾の日本における二大淵叢になる。……緒方洪庵が地味で無私な人柄であったように、佐藤泰然も野望家という面はほとんどなく、双方に共通しているのはうまれついて多量な親切心というものであり、それが結果として右のようなかたちになったというほかない。213-214p

★幕末における「海軍」という文明受容は、明治以後のそれよりも、いっそうにふしぎな作用があったと考えられていい。この文明への参加者たちは、その知的習得もしくは三躯体的習得にはなはだしく労苦をともなううえに、つねに遭難という生命の危険にさらされる場でもあったために、新文明といっても浮薄な見聞者流になることからまぬがれ、多くは、封建武士のなかで独特の風骨をそなえる結果になった。勝海舟や榎本武揚が、この当時の海軍を経ずに単に机上のオランダ学者で終わった場合、かれらはべつの人間になっていたにちがいない。361p

★勝の場合は、ちがっている。強烈な自己への信頼と、そのせっかくの自己への信頼をつねに世間――あるいは幕府の上司――によって裏切られるという繰りかえしの中で自己の思想を大きくして行った。文明思想家としての勝の形成のためには、勝が貧窮のなかから身を起こした――それもいかなる幕臣からの援助もうけずに――ということが大きい。蘭学は最初、諸般のひとびとのものであった。幕臣育ちはほとんどこれをやらなかった。勝はその先鞭をつけ、それも官費でなく自力で習得し、それによって洋学時代における最初の幕臣あがりの官僚になった。勝そのものの渾身が、巨大な思想や智謀を発酵させつづけるるつぼであるとすれば、その発酵のたねは生涯もちつづけた不遇感というものであったにちがいない。

 この不遇感から日本と幕府と世界を見た。その文明批評はそれによって成立し、かつ幕府の内蔵の中にいながら幕府を峻烈に他者として見るという能力をもちえたのも、勝の精神を煮え立たせている不遇意識というものであったにちがいない。366p

★良順は、日本の蘭方医学は伝統的に医学の切れぱしにすぎない、とまずいった。かつてのシーボルトといえども切れっぱしを伝えたにすぎず、南蛮流、紅毛流などと古くからいう蘭方外科も霏々としてそうである。医学は組織的に学ばねばならぬ、それを教えうる人がポンぺ殿であり、できるだけ多くの者にこれを学ばせれば日本国の医学に裨益するところはかり知れぬ、一国の政府を立つるは、民を済うにある、民を済うこと、病者を救うより大なるはなし、などとめずらしく長広舌をふるった。371p

★人間の社会は、国が小さく住民が少ないほどよく、広地域の統一国家は人間の幸福と結びつかない。国が狭小ならば船や車を使わずにすむ。この小国において民に生命の大切を教えればたとえ武器があってもこれをならべてみせる必要がない。文字なども必要がないのである。太古に脚を結んで文字代わりにしたが、その程度でいい。また文化も高くないほうがいい。粗食でもうまいと思わせ、粗衣でもりっぱな衣装だと思わせ、その住まいに安んじ、素朴な風俗を楽しめるようにもってゆけばよく、こうすればたとえ隣国がどうであろうとも人々は移住したしたがらない、という意味のことが『老子』の一節に説かれている。小国寡民などまことに佐渡に似ている。374p

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