2020年1月6日月曜日

『翔ぶが如く』(六)&お墓参り

 年末年始にかけてお天気に恵まれる。その一方で異変が起きなければいいが、と2020年を思う。この2020年を令和2年と言い直すべきかもしれないが、ある時期から西暦で考える癖がついており、西暦表記する。

 あまりにもお天気がよくてお昼前にお墓参りと地元の神社へ参る。近年はお正月三が日のお墓参りを今年はずらして出かける。旅の安全を親にゆだねるのもどうかと思う。だが、子を守ってくれるのは親に勝るものなし、そう思っている。

 以下は『翔ぶが如く』(六)(司馬遼太郎 文藝春秋、2013年第13刷)から気になる箇所を抜粋したもの。今は九巻目を読んでいる。途中、澤地久枝や塩野七生、そしてほかの本も読むので『翔ぶが如く』全10巻を簡単には読み終えられそうにない。それくらい司馬作品は1作品が長い。今朝の地元紙を見ると西郷が書いた手紙が見つかったとか。以前だったら「西郷がどうした?」と完全にスルーしていたはずなのに、このごろは記事に目が留まる。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★久光にあたえられた、「左大臣」というこの古風な職制は、歴史のはるかな過去に実体をうしなってしまっており、雛祭りの内裏びなのような感触のことばになってしまっている。
 維新政府は、その半面に極端な復古的性格があったため、奈良町の大宝令によよる管制を復活し、行政機関を「太政官」とし、最高位の大臣を太政大臣、それに次ぐ大臣を右大臣とし、三条実美と岩倉具視がそれぞれ任ぜられたが、左大臣は廃官になっていた。
 明治七年、島津久光を起用するにあたってその職名を復活したのである。50p

★要するに左大臣という政府首脳第二席にまつりあげたのだが、実際は座敷牢といってよく、たれもが久光を尊敬して平身低頭するが、たれもが言うことを取りあげない。かれに対する明治国家の優遇はなみはずれたもので、たとえば明治十七年、華族令が制定されると、旧藩主家が侯爵になると同時に、久光に対しそれとは別個に公爵島津家を創設させたほどであった。……久光が怖れられた理由は、いうまでもなくその背景に薩摩勢力があったためである。53p

★この種の、いわば本来的な意味での思想的体質は、ヨーロッパや中国、もしくは日本の隣国である朝鮮などに排出する土壌があるように思われるが、たとえばキリスト教の伝統を持たない日本にあってはその条件は希薄といえるであろう。久光はそのまれな一人であった。65p

★幕末、孝明天皇の崩御前後から、「とてもひとに言えるものではない」という密謀の相手になったのは大久保であり、大久保は公卿の岩倉を動かすことによって、幕末・維新という時期に、時勢旋回の軸になった宮廷を工作した。つまり、佐幕家の孝明天皇が急死して少年天皇が倒幕家としてにわかに登場するという事情は、孝明天皇の死が自然死であったとしても(おそらくそうであろう)きわめて唐突である。この唐突さを作りだした作者と役者は、岩倉と、その背後のようにうずくまっていた大久保しかいない。
 要するに、久光は、弾劾の相手として三条の名をかかげながら、じつはその矢をもって岩倉右大臣と、旧臣の大久保参議を射殺しようとした。この真意は、内閣のたれもが、わかっていた。72-73p

★大久保は早くから西郷と行き方を異にし、天下を回転させるには藩をにぎらねばならない、藩をにぎるには、西郷らの好まぬ島津久光の懐に入らねばならぬ、とした。卑士であった大久保が久光と接触することができたのは、当時、久光からあつく遇されていた僧の真海の心づかいによる。真海は、税所篤の兄であった。これによって大久保は久光の眷顧(けんこ)を得ることになっただけに、この間の策謀において、税所は大久保と一ツ穴のなかにいた。127p

★旧会津藩は、旧藩人をあげて薩長を憎悪している。
 戊辰戦争はそれなりに革命戦であったため、首を刎ねて梟(さら)して革命の血祭りにすべき目標をもとめていた。当初、西郷も大久保も、その血祭の対象として全将軍徳川慶喜を目標とした。慶喜を首を刎ねて天下に示すことによってしか、新時代の到来を三千万の士庶に広告することはできないと思っていた、
 ところが、当の慶喜がころび逃げるような態度で薩長の言いがかりをかわし、最後にはひたすらに恭順したために薩長としてはこれを討つことができなくなり、いわば目標をうしなった。その目標の代理として会津藩がえらばれた感がある。
 会津藩に対する憎しみは、薩摩よりも長州に濃厚だった。幕末、長州人が、京都にあって新選組の活動をふくめた会津藩のためにさんざんな目に遭ったことによるが、この報復もかねて会津若松城を攻撃し、敗北させただけでなく、そのあと藩を青森県県下のほとんど不毛の地に移した。このため会津人は文字どおり塗炭の苦しみをなめた。157-158p

★士族階級は、太政官がやる変革と開花事業に身分を奪われ、経済的基盤をうばわれたが、最後にかれらの心理に対して衝撃をあたえたのは、明治九年三月二十八日に布告された廃刀令(帯刀禁止令)であるといっていい。254p

★洋学校の生徒は、ついに洗礼をうけるまでに至った。……このなかに横井小楠の息子の時雄(のちのちの同志社社長)や海老名弾正(のちの同志社大学総長)、徳富猪一郎(蘇峰)が入っていた。かれらが花崗山にのぼって奉教を誓約しあったことは、切支丹を邪教視する気分がまだ濃厚だったときだけにこの熊本の旧城下に深刻な衝撃をあたえたが、とりわけ神風連のひとびとがこの現象をみて日本国の崩壊を感じたのはその思想からみて当然といってよく、太政官をもってこれらの現象の元凶としたのも、当然といっていい。262p

★全国の反政府分子のすべてが、西郷と薩摩士族団にあふれるような期待をよせ、これとできれば締盟しようとし、たとえ締盟できないとしても、自分たちがまず反乱をおこせば西郷と薩摩士族団は引きずられて起ちあがるであろう、そうなれば太政官はあすにでも転覆する、と思っていた。そういういわば満天下の期待が、ふくらめばふくらむほど、西郷という実像は虚像に化するほどに巨大に膨張しつつあった時期である。291p

★太政官に対して鹿児島県は一独立国をなしており、天下はいつ鹿児島県が大氾濫に起ちあがるかということを息をこらして見つめている、であるのに西郷は他のいかなる県の勢力とも同盟を結ばない、結ぶべく遠路をやってくる者に対しては適当に応接しているだけだ、といった。……やるときは薩摩の自力でやる、という意味が西郷の言外にあった。板垣は生涯、その点での西郷を不快がったが、このことは西郷だけでなく、薩摩の伝統的な思考法であるといっていい。296-297p

★中世このかた日本の特殊な宗教現象として神仏混淆思想が一般化し、神社も「社僧」といわれる僧が仏教の経典を念誦して奉仕し、また仏像が神像である場合も多かった。神号もまた神仏混淆的で、神号を明神とか権現とか称したのは、その思想のあらわれといっていい。それを新政府は「神仏分離」政策でもって仏教色を一掃した。303-303p

★神風連ノ乱は日本における思想現象のなかで、思想が暴発したという点では明治後最初のものであった。日本人の精神の中に思想が激烈に成立する場合、事実認識などどうでもよく、むしろ悪であるというふうになり果てる好例といってよく、加屋ほどの教養人は熊本旧城下でももすくなかっただけに、この檄文は、日本人の精神の病理的性格の一端をあざやかにのぞかせている。328p

★神風連騒動は、全国一般の士族感情をはなはだしく刺激した。士族であるかぎり神風連を粗暴凶悪の徒として憎んだ者はおそらくひとりもいなかったであろう。士族の感情からいえば、維新以後、廃藩置県、廃刀令の施行など、太政官が国家と社会の本質を変えるべくやった政策で得たものは一つもなく、いわばすべての権利と権威を失った。355p

★維新は士族だけでなく、「庶人」とよばれる農商階級にも多くの不満をもたらしたが、そのなかでもっとも大きい不満は徴兵令であった。356p

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