相変わらず暑い日が続く。この暑さも10月になれば少しは秋らしくなるのだろうか。芸術の秋、といわれるように10月の第1週目は日本画の展覧会が目白押しにある。某信用金庫の恒例の秋の日本画展、県立美術館の日展、そごうは春の院展、ほかにも県民文化センター等等、市内のあちこちで芸術の秋がやってくる。秋はほかにも音楽がある。
昨夜は広島交響楽団第393回定期演奏会に出かける。広響から届いたメールによるとチケットは完売、とのこと。席を確保するため早めに家を出る。会場には午後5時10分到着。席の引き換えは5時半から。列に並んでいると前後の5,6人で会話が盛り上がる。広響を応援する企業の人たちなのか、どの人も引換券を持っている。開演は6時45分。席を確保すると隣の図書館に出かける。入口を入ると浅野氏の広島城入城400年ということで、それに関する本が並ぶ。目につくのは竜馬の本。手にするが、これ、と思う本がない。どういっても竜馬に関しては司馬作品の『竜馬がゆく』の印象が強い。次は日本画関連の本を、と探すが目新しさがない。あきらめて演奏会場に引き返す。
昨夜の定演は「日本・ポーランド国交樹立100周年」と題して以下の曲目が演奏された。
♪ショパン ピアノ協奏曲第1番ホ短調
ピアニストに清水和音を迎える。
♪矢代秋雄 交響曲
清水和音のピアノは楽しみにしていた。席は前から5列目でも実質は2列目に相当する。ただ、ピアノを聞くには舞台に向かって左側がいい。それなのに右側の一番右端だったがピアニストの顔はよく見えた。3年前にポーランドに出かけてショパンの生家を訪れている。いろいろと思いを巡らしながら美しいピアノの音色を聞く。
演奏後、アンコール曲として清水和音のソロでラフマニノフのヴォッカリーズが演奏された。この曲はフルートでさらった曲でよく知っている。しみじみと聞いた。
後半に演奏された交響曲。作曲家矢代秋雄の生誕90周年を記念しての演奏らしい。いつも感じることはいわゆるクラシックの現代音楽は好きになれない。自分に聞く耳がないのかもしれない。第4楽章あり、第1楽章でもう聞くのがうんざり、といった心境になる。会場を出たくなるがそうはいかない。不幸な会場に参列したかのようなおどろおどろしい音が響く。演奏後、早く会場を出ようとするが、なんとそこでまたアンコールが始まる。曲はプーランクの平和への祈り。これを聞いて気分が収まる。
いいのか悪いのか感受性が強い面がある。夢でうなされるのでは?と思ったらぐっすり寝ていた。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう❕、
2019年9月14日土曜日
2019年9月13日金曜日
旅の思い出(初めての中国)
今朝は秋を感じる。だが、油断大敵。この先1週間の天気予報を見ると最高気温33,4度の日々が続く。ただ最低気温が25度以下のようで寝苦しさはないかもしれない。とはいいながら、関東の停電は何とかならないのだろうか。電気が通ったと油断していると今朝は断水の報道がある。一斉に水を使ったために水圧が下がったらしい。
暑くて外に出たくない日は2階に出しっぱなしにしているアルバムの整理をする。デジカメが普及したのはいつの頃かは覚えていない。ただ、17年前に仕事を辞めてから8年前までの9年間、旅に出かける時間も心の余裕もない生活だった。再度、旅の写真を撮り始めたのは2011年のスペインの旅あたりからだろう。ただ、ままならない日々の間も母の記念日に母の孫から送られてきた花束を母に持たせて写真を撮っている。これはデジカメが普及後に写した写真なので紙の保存はしていない。
アルバムはごついアルバムから手当たり次第に写真を外している。昨日は2冊処分した。今朝は右手の中指に少々違和感を感じる。写真を外すさい中指の爪を使ったのだろう。写真をアルバムから外すのもムキにならず、いい加減にしないといけない。ともあれ昨日は2冊処分した。1冊は30代の時でもう1冊は初めての海外旅行である中国に出かけた1986年8月のアルバムだ。初めての海外、ましてや中国とあってアルバムの整理が行き届いている。書き込む文は中国語。初めての海外なのに8日間の旅行中、当時習っていた中国語の龔先生(国費の留学生)と北京で合流。南京では龔先生の妹さん夫婦と合流している。旅の初日の夜、タクシーに乗って和平飯店に出かけた。途中、エンストのアクシデントでホテルに戻ったのは真夜中。この恐怖も忘れたかのようにツアー最中にいろんな人と会っていた。
写真を見て思ったのは旅の恰好で出かけていない、ということと髪が今よりもぐっと長い。肩よりも下の長さだ。この2点に驚く。今だったら旅に出かけるときは靴はトレッキングシューズかウオーキングシューズを履き、ズボン姿。ところが初めての海外はワンピースやツーピースで足元はストッキングで、サンダル履き。これにはびっくり。今では考えられない格好だ。また、当時の中国元は1元=47円とメモしており、日本円の価値が高かったのだろう。それなのに両替を15000円している。またお土産リストも書いており、扇子など30本も買い、ほかにもお土産を買っている。旅の参加者は14名で、その時のツアーで知り合った大学の先生と今も年賀状を交わしている。これから先のアルバム整理も旅の写真が大半だから、いろいろと思いを巡らしそうだ。
この夏、日本画教室が3週間なくて外出するのはフルートのレッスンだけだった。今夜は久々の広響の定演に出かける。主催者側のメールによると今夜はチケット完売だそうだ。席を確保するためにも早目に家を出よう。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
暑くて外に出たくない日は2階に出しっぱなしにしているアルバムの整理をする。デジカメが普及したのはいつの頃かは覚えていない。ただ、17年前に仕事を辞めてから8年前までの9年間、旅に出かける時間も心の余裕もない生活だった。再度、旅の写真を撮り始めたのは2011年のスペインの旅あたりからだろう。ただ、ままならない日々の間も母の記念日に母の孫から送られてきた花束を母に持たせて写真を撮っている。これはデジカメが普及後に写した写真なので紙の保存はしていない。
アルバムはごついアルバムから手当たり次第に写真を外している。昨日は2冊処分した。今朝は右手の中指に少々違和感を感じる。写真を外すさい中指の爪を使ったのだろう。写真をアルバムから外すのもムキにならず、いい加減にしないといけない。ともあれ昨日は2冊処分した。1冊は30代の時でもう1冊は初めての海外旅行である中国に出かけた1986年8月のアルバムだ。初めての海外、ましてや中国とあってアルバムの整理が行き届いている。書き込む文は中国語。初めての海外なのに8日間の旅行中、当時習っていた中国語の龔先生(国費の留学生)と北京で合流。南京では龔先生の妹さん夫婦と合流している。旅の初日の夜、タクシーに乗って和平飯店に出かけた。途中、エンストのアクシデントでホテルに戻ったのは真夜中。この恐怖も忘れたかのようにツアー最中にいろんな人と会っていた。
写真を見て思ったのは旅の恰好で出かけていない、ということと髪が今よりもぐっと長い。肩よりも下の長さだ。この2点に驚く。今だったら旅に出かけるときは靴はトレッキングシューズかウオーキングシューズを履き、ズボン姿。ところが初めての海外はワンピースやツーピースで足元はストッキングで、サンダル履き。これにはびっくり。今では考えられない格好だ。また、当時の中国元は1元=47円とメモしており、日本円の価値が高かったのだろう。それなのに両替を15000円している。またお土産リストも書いており、扇子など30本も買い、ほかにもお土産を買っている。旅の参加者は14名で、その時のツアーで知り合った大学の先生と今も年賀状を交わしている。これから先のアルバム整理も旅の写真が大半だから、いろいろと思いを巡らしそうだ。
この夏、日本画教室が3週間なくて外出するのはフルートのレッスンだけだった。今夜は久々の広響の定演に出かける。主催者側のメールによると今夜はチケット完売だそうだ。席を確保するためにも早目に家を出よう。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2019年9月12日木曜日
『アカシアの大連』etc.
『清岡卓行大連小説全集(上)』(日本文芸社、1992年)の中から『アカシアの大連』5部作にあてはまる箇所を読む。この本を読もうとしたきっかけは昨年末、大連に行ったことによる。先日、そこで知り合った人と家の前でばったり出くわし、次に大連に行く時はアカシアが咲く時季に行きたいと話した。その時、この本を教えてもらい、さっそく読んだ。昨日のアップと1部ダブル。削除せず、このままアップしよう。
今朝は幾分涼しい。だが日中は32度と暑くなりそうだ。ただ、最低気温がこれまでのような26,7度でなく、23,4度の予報なので徐々に秋になるのだろう。
昨日も暑くて自転車で外に出なかった。ただ、年が明けると早々、某文化交流会から出かける海外の旅の申込書を出しにポストまで歩く。これくらいでは運動にはならない。ほかにも日本画展に出す作品を額に入れたり出したりして品定めをする。その時、気づいた。額は見た目が大事。しかし、これも歳とともにいくら見栄えが良くても重たい額はどうでもいい。ガラスのものはプラスチックと差し替えて額に入れる。こうすると額全体も軽くなる。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
以下は『アカシアの大連』5部作の気になる箇所の抜粋。
★五月に入ると、一、二回の雨のあとで、空は眼を洗いたくなるほど濃い青に澄みきり(そのような鮮やかなセルイリアン・ブルーを、彼は日本の空にみたことがなかった)、風は爽やかで、気温は肌に快い暖かさになったのであった。特に、彼の心を激しく打ったのは、久しく忘れていたアカシアの花の甘く芳しい薫りである。(「アカシアの大連」103p)
★中学校の三年生のときであったか、彼は学校の博物の授業で、先生からアカシアについて教わった。それによると、大連のアカシアは、俗称でそう呼ばれているので、正確には、にせアカシア、いぬアカシア、あるいはハリエンジュと呼ばれなければならないということであった。そして、大連にも本当のアカシアが二本ほどあり、それらは中央公園の東の方の入り口に近いところに生えていて、こういう形をしているということであった。……どこの愚かな博物学者がつけた名前か知らないが、にせアカシアから「にせ」という刻印を剥ぎとって、今まで町のひとびとが呼んできた通り、彼はそこで咲き乱れている懐かしくも美しい植物を、単にアカシアと呼ぼうと思った。(「アカシアの大連」106p)
★この綺麗な都会には、日露戦争のときの日本の将軍や外交官の名前がいろいろと付けられていたと思いだした。大山通り、山県通り、乃木町、奥町、児玉町、東郷町、小村公園……。それらの通りや町や公園の名前はすぐに消えて行くだろう、と彼は考えながら、土地の名前というものがそれぞれ独自に喚起する、この場合は淡い郷愁を感じていた。(「アカシアの大連」137p)
★それは、彼にとって、生まれて何回目かに経験する、大連のアカシアの花ざかりの時節であったろう。彼は、アカシアの花が、自分の予感の世界においてずっと以前から象徴してきたものは、彼女という存在であったのだと思うようになっていた。……いわば運命の共同の中で、彼は、アカシアの花の前に佇む彼女の慕わしい姿を眺めたのであった。(「アカシアの大連」154p)
★引き上げ船により不思議な新婚旅行で、二人は無国籍の海を通過し、彼女のまだ知らない日本に行き着くはずであった。荒廃しているかもしれない戦後の日本で、どんな新しい生活が始まるか、彼はさまざまな夢を、彼女に喋ってみたかった。しかし、その勇気はなかなか出ないようであった。アカシアの花が散らないうちに、あの南山麓の山沿いの長い歩道で、遠くにかつての自由港がぼんやりと浮かぶ夕ぐれどきに、と彼は思った。(「アカシアの大連」156p)
★ある日、彼はこういうことを知った。それは、モーツアルトの「フルート協奏曲第二番」が 「オーボエ協奏曲ハ長調K三一四またはK二七一」と実は同じものであり、注文をせかれて時間がなかったが、新しいものを作る意欲が乏しくなったか、あるいはオーボエをフルートに置き換えることが面白かったか、とにかく、ハ長調とニ長調のちがいはあるが、一九二〇年になってその完全な楽譜がベルンハルト・バウムガルトナー教授によって発見されたというオーボエの作品の方が原曲で、フルートの作品の方は、悪くいえば焼き直しであるということであった。(「フルートとオーボエ」204p)
★日本は日清戦争に勝って遼東半島を得たが、独・仏・露の三国干渉ですぐ返還した。ロシアは清国と条約を結んで関東州を租借し、青泥窪(チンニーワ)をダルニーと名づけた。……ロシアはダルニーに、近代文明の花を咲かせようとした。……並木はアカシアとポプラ。(ついでに言えば、アカシアは南ロシアから持ってきた。それは十七世紀のはじめ頃、原産地の北アメリカからヨーロッパに移されたはずのもので、十九世紀が終わろうとするとき、はるばるとダルニーまで渡ってきたのであった。)(「萌黄の時間」264p)(注:ダルニー=大連)
★日本は、孜孜と努力して、大連を立派な都会につくりあげた。ロシアが残した計画はいろいろ、取り入れたが、(たとえば、先にあげた円形広場のうち、一番大きいものとして構成されていたニコライエスカヤ広場は、今の大広場となって実現されているが)、日本はそうした計画を遥かに超える産業、文化面の建設をしている。そして、その都会は今も逞しく伸びつつある。(「萌黄の時間」265p)
今朝は幾分涼しい。だが日中は32度と暑くなりそうだ。ただ、最低気温がこれまでのような26,7度でなく、23,4度の予報なので徐々に秋になるのだろう。
昨日も暑くて自転車で外に出なかった。ただ、年が明けると早々、某文化交流会から出かける海外の旅の申込書を出しにポストまで歩く。これくらいでは運動にはならない。ほかにも日本画展に出す作品を額に入れたり出したりして品定めをする。その時、気づいた。額は見た目が大事。しかし、これも歳とともにいくら見栄えが良くても重たい額はどうでもいい。ガラスのものはプラスチックと差し替えて額に入れる。こうすると額全体も軽くなる。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
以下は『アカシアの大連』5部作の気になる箇所の抜粋。
★五月に入ると、一、二回の雨のあとで、空は眼を洗いたくなるほど濃い青に澄みきり(そのような鮮やかなセルイリアン・ブルーを、彼は日本の空にみたことがなかった)、風は爽やかで、気温は肌に快い暖かさになったのであった。特に、彼の心を激しく打ったのは、久しく忘れていたアカシアの花の甘く芳しい薫りである。(「アカシアの大連」103p)
★中学校の三年生のときであったか、彼は学校の博物の授業で、先生からアカシアについて教わった。それによると、大連のアカシアは、俗称でそう呼ばれているので、正確には、にせアカシア、いぬアカシア、あるいはハリエンジュと呼ばれなければならないということであった。そして、大連にも本当のアカシアが二本ほどあり、それらは中央公園の東の方の入り口に近いところに生えていて、こういう形をしているということであった。……どこの愚かな博物学者がつけた名前か知らないが、にせアカシアから「にせ」という刻印を剥ぎとって、今まで町のひとびとが呼んできた通り、彼はそこで咲き乱れている懐かしくも美しい植物を、単にアカシアと呼ぼうと思った。(「アカシアの大連」106p)
★この綺麗な都会には、日露戦争のときの日本の将軍や外交官の名前がいろいろと付けられていたと思いだした。大山通り、山県通り、乃木町、奥町、児玉町、東郷町、小村公園……。それらの通りや町や公園の名前はすぐに消えて行くだろう、と彼は考えながら、土地の名前というものがそれぞれ独自に喚起する、この場合は淡い郷愁を感じていた。(「アカシアの大連」137p)
★それは、彼にとって、生まれて何回目かに経験する、大連のアカシアの花ざかりの時節であったろう。彼は、アカシアの花が、自分の予感の世界においてずっと以前から象徴してきたものは、彼女という存在であったのだと思うようになっていた。……いわば運命の共同の中で、彼は、アカシアの花の前に佇む彼女の慕わしい姿を眺めたのであった。(「アカシアの大連」154p)
★引き上げ船により不思議な新婚旅行で、二人は無国籍の海を通過し、彼女のまだ知らない日本に行き着くはずであった。荒廃しているかもしれない戦後の日本で、どんな新しい生活が始まるか、彼はさまざまな夢を、彼女に喋ってみたかった。しかし、その勇気はなかなか出ないようであった。アカシアの花が散らないうちに、あの南山麓の山沿いの長い歩道で、遠くにかつての自由港がぼんやりと浮かぶ夕ぐれどきに、と彼は思った。(「アカシアの大連」156p)
★ある日、彼はこういうことを知った。それは、モーツアルトの「フルート協奏曲第二番」が 「オーボエ協奏曲ハ長調K三一四またはK二七一」と実は同じものであり、注文をせかれて時間がなかったが、新しいものを作る意欲が乏しくなったか、あるいはオーボエをフルートに置き換えることが面白かったか、とにかく、ハ長調とニ長調のちがいはあるが、一九二〇年になってその完全な楽譜がベルンハルト・バウムガルトナー教授によって発見されたというオーボエの作品の方が原曲で、フルートの作品の方は、悪くいえば焼き直しであるということであった。(「フルートとオーボエ」204p)
★日本は日清戦争に勝って遼東半島を得たが、独・仏・露の三国干渉ですぐ返還した。ロシアは清国と条約を結んで関東州を租借し、青泥窪(チンニーワ)をダルニーと名づけた。……ロシアはダルニーに、近代文明の花を咲かせようとした。……並木はアカシアとポプラ。(ついでに言えば、アカシアは南ロシアから持ってきた。それは十七世紀のはじめ頃、原産地の北アメリカからヨーロッパに移されたはずのもので、十九世紀が終わろうとするとき、はるばるとダルニーまで渡ってきたのであった。)(「萌黄の時間」264p)(注:ダルニー=大連)
★日本は、孜孜と努力して、大連を立派な都会につくりあげた。ロシアが残した計画はいろいろ、取り入れたが、(たとえば、先にあげた円形広場のうち、一番大きいものとして構成されていたニコライエスカヤ広場は、今の大広場となって実現されているが)、日本はそうした計画を遥かに超える産業、文化面の建設をしている。そして、その都会は今も逞しく伸びつつある。(「萌黄の時間」265p)
2019年9月11日水曜日
楽譜etc.
台風15号は去っても数十万戸の停電はひどすぎる。朝刊を見ると親子が亡くなる記事を目にする。電気が来なければエアコンも扇風機も使えず、どうやってこの暑さを過ごせばいいのだろう。それでなくても今年の夏は暑すぎる。昨夜も一晩中、エアコンをつけて眠る。
母を介護していた時、1,2時間の停電を電力会社から告げられた。暑い時期だったので介護中は室内の温度をきめていた。身動きできない親を短時間の停電であっても団扇で暑さを遮るだけでは済まされない。電力会社に電話して事情を話すと、停電しない場所から引き込み線をひいてくれるという。それには10分くらい工事の時間を要するとのことだった。それを聞いて何とありがたいこと、と感激したことを覚えている。それは台風などの不慮の停電ではなく、先にわかっていたことなのでそれも可能だった。だが、今回の台風はそういうわけにはいかない。
時代が進歩してオール電化、とか生活形態も変化している。いざとなったときこれでは困るかもしれない。ガス代は月に800円台と最低料金であっても、いざという時のために契約している。ガスはともかくとして水と電気は生きる上で欠かせない。この夏、もしも停電が2,3日続けば自分だったらどうするだろう。1人であればホテルに滞在も可能だが、何十万人となるとそうもいかない。ともあれ、電気がはやく回復するといい。
話は変わって昨日はフルート・レッスン日。先日、本を読んで気になっていたことを先生に話す。それは『清岡卓行大連小説全集(上)』(日本文芸社、1992年)の中の『アカシアの大連』5部作のうちの「フルートとオーボエ」の以下のことだ。先生はこのことを小学校時代にすでに知っていたと言われる。もしかして知らぬは私だけ?
★ある日、彼はこういうことを知った。それは、モーツアルトの「フルート協奏曲第二番」が 「オーボエ協奏曲ハ長調K三一四またはK二七一」と実は同じものであり、注文をせかれて時間がなかったが、新しいものを作る意欲が乏しくなったか、あるいはオーボエをフルートに置き換えることが面白かったか、とにかく、ハ長調とニ長調のちがいはあるが、一九二〇年になってその完全な楽譜がベルンハルト・バウムガルトナー教授によって発見されたという。オーボエの作品の方が原曲で、フルートの作品の方は、悪くいえば焼き直しであるということであった。(「フルートとオーボエ」204p)
先生はこの二つの楽譜が同時に記された楽譜を見せてくださる。確かにそうだった。楽譜ついでに出演されたオペラの楽譜の総譜(スコア)なども見せてもらうと、気が変になりそうなくらいオタマジャクシが事細かに並んでいる。それも分厚い本のような楽譜だ。プロとアマの違いはこのあたりにもある。
発表会で吹くソロの曲を先生のピアノに合わせて吹く。レッスンではうまく吹けてもこれが本番となるとさてさて……。先生曰く「この曲はロングトーンのいい練習になった!」と。出だしの「ファ」は5拍目の「ラ」まで長く吹き続ける。ほかにも音が長い箇所がある。これは昨日もソノリテの時、気を付けるようにと言われた。それは「唇を動かさないようにして吹く」。この練習が欠かせなくなった。唇を動かさないようにするにはお腹から息を出さねばならない。こうやってフルートを吹くと会場にいい音が響きわたると先生は話される。この癖をつけて吹く練習をしよう。
昨日はほかにも月末に開催されるフルート・フェスティバルのチケットをいただく。ありがたい!
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
母を介護していた時、1,2時間の停電を電力会社から告げられた。暑い時期だったので介護中は室内の温度をきめていた。身動きできない親を短時間の停電であっても団扇で暑さを遮るだけでは済まされない。電力会社に電話して事情を話すと、停電しない場所から引き込み線をひいてくれるという。それには10分くらい工事の時間を要するとのことだった。それを聞いて何とありがたいこと、と感激したことを覚えている。それは台風などの不慮の停電ではなく、先にわかっていたことなのでそれも可能だった。だが、今回の台風はそういうわけにはいかない。
時代が進歩してオール電化、とか生活形態も変化している。いざとなったときこれでは困るかもしれない。ガス代は月に800円台と最低料金であっても、いざという時のために契約している。ガスはともかくとして水と電気は生きる上で欠かせない。この夏、もしも停電が2,3日続けば自分だったらどうするだろう。1人であればホテルに滞在も可能だが、何十万人となるとそうもいかない。ともあれ、電気がはやく回復するといい。
話は変わって昨日はフルート・レッスン日。先日、本を読んで気になっていたことを先生に話す。それは『清岡卓行大連小説全集(上)』(日本文芸社、1992年)の中の『アカシアの大連』5部作のうちの「フルートとオーボエ」の以下のことだ。先生はこのことを小学校時代にすでに知っていたと言われる。もしかして知らぬは私だけ?
★ある日、彼はこういうことを知った。それは、モーツアルトの「フルート協奏曲第二番」が 「オーボエ協奏曲ハ長調K三一四またはK二七一」と実は同じものであり、注文をせかれて時間がなかったが、新しいものを作る意欲が乏しくなったか、あるいはオーボエをフルートに置き換えることが面白かったか、とにかく、ハ長調とニ長調のちがいはあるが、一九二〇年になってその完全な楽譜がベルンハルト・バウムガルトナー教授によって発見されたという。オーボエの作品の方が原曲で、フルートの作品の方は、悪くいえば焼き直しであるということであった。(「フルートとオーボエ」204p)
先生はこの二つの楽譜が同時に記された楽譜を見せてくださる。確かにそうだった。楽譜ついでに出演されたオペラの楽譜の総譜(スコア)なども見せてもらうと、気が変になりそうなくらいオタマジャクシが事細かに並んでいる。それも分厚い本のような楽譜だ。プロとアマの違いはこのあたりにもある。
発表会で吹くソロの曲を先生のピアノに合わせて吹く。レッスンではうまく吹けてもこれが本番となるとさてさて……。先生曰く「この曲はロングトーンのいい練習になった!」と。出だしの「ファ」は5拍目の「ラ」まで長く吹き続ける。ほかにも音が長い箇所がある。これは昨日もソノリテの時、気を付けるようにと言われた。それは「唇を動かさないようにして吹く」。この練習が欠かせなくなった。唇を動かさないようにするにはお腹から息を出さねばならない。こうやってフルートを吹くと会場にいい音が響きわたると先生は話される。この癖をつけて吹く練習をしよう。
昨日はほかにも月末に開催されるフルート・フェスティバルのチケットをいただく。ありがたい!
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2019年9月10日火曜日
いろいろと
台風15号は去った。今朝、ふと、台風の年間発生数は幾つ?とネットで調べる。今年の予想では27個前後のようだ。ということは、あと12個くらい台風がやってくる!?台風の進行方向は時期によって違うらしく、7,8,9月と徐々に太平洋方面に抜けている。いずれにしてもこの先1か月は台風から目が離せない。
昨日、関西の旅行社から旅のカタログが届く。最高気温34度の日中は買い物に出るのも暑さでためらう。その時は家で静かに本を読む。本の前にまずはフルートの練習がある。飽きてくると夕飯のおかずを作る。それにも飽きて旅のカタログを見る。関西のカタログは関空発ばかり。眺めていると韓国、中国の旅が日本国内と比べても安すぎる。大連など19800円。これはどういうこと!?ヨーロッパの冬も価格が安い。1か所、行こうという気になる。だが、出かけようとする時期の現地の気温が低すぎる。3月下旬だと最低気温がマイナス20度になることもあるらしい。4月以降の設定はまだない。
最近は関空よりも福岡発を考えてしまう。ところが広島発があるとこちらに目が行く。だが、広島発着の海外は出かけた国ばかりで新鮮味がない。躊躇していると歳ばかり取る。メキシコやアルゼンチンを、と思うが日本での移動が多すぎる。これを言うと自分の歳を感じる。もっと若い時は成田発でも名古屋発でも気にしていなかった。若さ、はこういうところにもあらわれる。歳をとった!
今朝は某比較文化研究会と昔の国史を現代風に訳している人からの一斉メールが届く。研究会は11月初めにある。多分不参加。今、司馬作品にハマっている。この作品は歴史小説であっても時代が明治維新前後が大半で新しい。もともと、歴史は好きでなかった。ところが近代に目覚めて以降、司馬作品にハマってしまった。徐々に日本の前の時代にも関心が向くだろう。だが、パソコン上で文字を読むのは大変。その割にはブログの文が長すぎる!?
気分直しにソロで吹く♪ブラジル風バッハ第5番アリア♪をアップしよう。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
昨日、関西の旅行社から旅のカタログが届く。最高気温34度の日中は買い物に出るのも暑さでためらう。その時は家で静かに本を読む。本の前にまずはフルートの練習がある。飽きてくると夕飯のおかずを作る。それにも飽きて旅のカタログを見る。関西のカタログは関空発ばかり。眺めていると韓国、中国の旅が日本国内と比べても安すぎる。大連など19800円。これはどういうこと!?ヨーロッパの冬も価格が安い。1か所、行こうという気になる。だが、出かけようとする時期の現地の気温が低すぎる。3月下旬だと最低気温がマイナス20度になることもあるらしい。4月以降の設定はまだない。
最近は関空よりも福岡発を考えてしまう。ところが広島発があるとこちらに目が行く。だが、広島発着の海外は出かけた国ばかりで新鮮味がない。躊躇していると歳ばかり取る。メキシコやアルゼンチンを、と思うが日本での移動が多すぎる。これを言うと自分の歳を感じる。もっと若い時は成田発でも名古屋発でも気にしていなかった。若さ、はこういうところにもあらわれる。歳をとった!
今朝は某比較文化研究会と昔の国史を現代風に訳している人からの一斉メールが届く。研究会は11月初めにある。多分不参加。今、司馬作品にハマっている。この作品は歴史小説であっても時代が明治維新前後が大半で新しい。もともと、歴史は好きでなかった。ところが近代に目覚めて以降、司馬作品にハマってしまった。徐々に日本の前の時代にも関心が向くだろう。だが、パソコン上で文字を読むのは大変。その割にはブログの文が長すぎる!?
気分直しにソロで吹く♪ブラジル風バッハ第5番アリア♪をアップしよう。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2019年9月9日月曜日
『ひとびとの跫音(あしおと)』
『ひとびとの跫音(あしおと)』(司馬遼太郎 中央公論社、2009年)を読んだ。「私自身についていえば、すでにふれたように、忠三郎さんとタカジというひとたちの跫音(あしおと)を、なにがしか書くことによってもう一度聴きたいという欲求があった」(495p)と司馬が書いているように、この本は子規の妹、律の養子になった正岡忠三郎とその叔父である西沢隆二(タカジ)を主として、子規の周りにいたひとびとを書いている。そして「人間が生まれて死んでゆくということの情緒のようなものをそこはかとなくと書きつらねている」(309p)。
司馬作品に登場するひとびとは得も言われぬほどいい人たちばかりだ。このあたりが読者をひきつけるのかもしれない。というか司馬自身が好む人物が読者の好みと一致するのだろう。司馬作品の読後感は清々しい!
忠三郎のことをもっと知りたくてネットで調べていると次のHPに目が留まる。「司馬遼太郎さんのこと」として忠三郎の長男が書いている。
http://www.eonet.ne.jp/~kumonoue/sikisiba.htm(参照)
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
以下は『ひとびとの跫音(あしおと)』の抜粋。
★律が兄の死の翌年にこの女学校(注:共立女子職業学校)に入ったというのは兄の女子教育論と無縁ではなかったろうということである。86p
★子規についておどろかされることは、その精神に虚喝というものがすこしもなかったということである。虚喝といういかがわしいことばを、この場合、多少形而上的な言葉として使いたい。物事が表現される場合、多少の虚喝が混じる。それをわざと定義せずにさらにいえば、子規に観念論がないということも、そのこととじかにかかわりがあり、このため文章はつねに平明ならざるをえない。240-241p
★タカジは子規の散文のなかでも、とくに『仰臥漫録』を好んだ。死を前にして、ほとんどそれを眼中におかず、自分の志を述べつづけることによってのみ日常を送った明治の文人がタカジのなかで人間はそうあるべきだという一個の典型になった。この典型がなければ、タカジにおける非転向十二年という獄中の人生はありえなかったと言いきることができる。それはともかく、獄中のタカジにとってこの全集で得た痛烈な発見は、――あの上根岸の家が、子規の家だったのか。ということであった。滑稽なほどにあたりまえの事実の発見を、タカジは生涯おかしがった。
★書きはじめる数日前から『子規全集』を読むことにしている。とくに子規の散文を読んでいると、耳のあたりに子規の息づかいがきこえてくるような気がする。この書き物の題名を「ひとびと」として複数の人達について書きつつも、私自身、深く気づくこともなく、子規一人への思いを形をかえて書いているのではないかと思ったりする。248p
★私はこの稿で文学史的側面を書いているのでもなく、詩人とか革命家とかという肩書のある人物の評伝を書いているのでもない。人間が生まれて死んでゆくということの情緒のようなものをそこはかとなくと書きつらねている。ただ「驢馬」とその同人たちはタカジの生涯にとって一塊の根株のようなものであった。かれはこの雑誌に毎号詩を書くことによって自分のなかに詩人の芽を見つけてしまったし、さらには、同人の中野重治を知り、これに傾倒することによって革命の徒になった。309-310p
★「バカニスルナ」とびきりの大声だった。「その机の書類を読めば名前も齢もわかるんだ。人をよびつけてどうしてそんなわかりきったことをきくんだ」忠三郎さんは大急ぎで車いすを旋回させ、部屋を出てしまった。結局、この施設に昭和四十五年二月のはじめから八月三十日までいた。その後、この種の施設に近づかず、六年間、死にいたるまで自宅で療養した。……忠三郎さんにとって何にもまして幸いだったのは、患者として死ぬことなく、人間として死ぬことができたことであったかといえる。431-432p
★忠三郎さんの子規への義務感は、つよかった。保管をよりよくするために、子規の書いたものについては断簡零墨まで読んでいたし、その上、伊丹の家の柳行李のなかに詰まっている子規あての来信は、すべて解読して分類していた。……と言って、子規について、たとえば全集を自分で出そうというようなことは、性格として持っていなかった。……タカジのほうも、忠三郎さんが若くて達者ならば世間のほうから持ちこんできもしない全集の刊行など思いたつはずもなかった。タカジは、実務家でなかったが、この種のことになると、実行力があった。469-470p
★講談社は、この企画を遂行するについて、重厚な準備をしてくれた。このため部局から半ば独立したふうにして編集室がつくられた。社内だけでなく、社外からも編集と研究のためのスタッフがあつめられ、また資料写真も無数に収集された。全巻二十二巻・別巻三巻の編集がすすめられていく時期のこの編集室の内容と機能は、子規研究におうて、どの大学のそれよりも精度の高いものであったということを、いまふりかえって、言いきることができる。473p
★監修者の筆頭者は正岡忠三郎であった。475p
★タカジがもともと発願した子規全集の刊行というものは、余命がいかにも消えそうになっている忠三郎さんへの感傷が発条(バネ)になっていた。タカジにとっての対象は後世というよりも「忠三郎さんひとりであり、そのひとりに、死ぬ者に『子規全集』の配本第一冊を手にとらせてやりたい」ということであった。479p
★この稿(注:誄(るい)詩)の主題は、子規の「墓碑銘」ふうの、ごく事歴に即したリアリズムでいえば、「子規から『子規全集』まで}というべきものであったかと思っている。しかし私自身についていえば、すでにふれたように、忠三郎さんとタカジというひとたちの跫音(あしおと)を、なにがしか書くことによってもう一度聴きたいという欲求があった。そのことでの気分はまだおさまってはいないのである。495p
★――この世は美しい。と、いう感動は素朴すぎることながら、タカジの詩における基調になっていた。かれは若いころから一度も厭世的になったことがなく、そういう悪液質が体に溜まりはじめると、いそいで視線を移して花を見たり、山を見たりして、バケツの底でも抜くような、粗暴なほどの簡単さで――意志力といってもいいが――自分の厭世観を自浄することができた。傍らに花もなく、窓から山も見えないときは、空を見ているだけでよかった。
といって、タカジはその詩で自然を賛美したわけではなかった。獄中にあるときでも地上の美しさに焦がれ、同時に堪能しているという精神が、詩の奥にあるというだけのことである。
革命家であるかれにとっても、この世が美しいという気分が、蓄電池のなかの液体のように涸れることなくたたえられていた。それをより美しくしたいというのがかれの革命への情熱の発条(バネ)になっていたし、一方、たとえ醜いものに出くわしてもたじろがなかった。それらはやがてかれの理論と野望によって本来の美しさに変わることが、かれにとって自明だったからである。
地にあるものすべてを美しいと感じたい気分は、いつでも、伸びあがって待ちうけるようにして用意されていた。かれが、子規の詩歌についての鋭敏な鑑賞者であったのは、子規の俳句も短歌も、地上の美しさというものの本質を、路傍に小石でも置いたようなさりげなさでひきだしてくれるためであったといえる。496-497p
司馬作品に登場するひとびとは得も言われぬほどいい人たちばかりだ。このあたりが読者をひきつけるのかもしれない。というか司馬自身が好む人物が読者の好みと一致するのだろう。司馬作品の読後感は清々しい!
忠三郎のことをもっと知りたくてネットで調べていると次のHPに目が留まる。「司馬遼太郎さんのこと」として忠三郎の長男が書いている。
http://www.eonet.ne.jp/~kumonoue/sikisiba.htm(参照)
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
以下は『ひとびとの跫音(あしおと)』の抜粋。
★律が兄の死の翌年にこの女学校(注:共立女子職業学校)に入ったというのは兄の女子教育論と無縁ではなかったろうということである。86p
★子規についておどろかされることは、その精神に虚喝というものがすこしもなかったということである。虚喝といういかがわしいことばを、この場合、多少形而上的な言葉として使いたい。物事が表現される場合、多少の虚喝が混じる。それをわざと定義せずにさらにいえば、子規に観念論がないということも、そのこととじかにかかわりがあり、このため文章はつねに平明ならざるをえない。240-241p
★タカジは子規の散文のなかでも、とくに『仰臥漫録』を好んだ。死を前にして、ほとんどそれを眼中におかず、自分の志を述べつづけることによってのみ日常を送った明治の文人がタカジのなかで人間はそうあるべきだという一個の典型になった。この典型がなければ、タカジにおける非転向十二年という獄中の人生はありえなかったと言いきることができる。それはともかく、獄中のタカジにとってこの全集で得た痛烈な発見は、――あの上根岸の家が、子規の家だったのか。ということであった。滑稽なほどにあたりまえの事実の発見を、タカジは生涯おかしがった。
★書きはじめる数日前から『子規全集』を読むことにしている。とくに子規の散文を読んでいると、耳のあたりに子規の息づかいがきこえてくるような気がする。この書き物の題名を「ひとびと」として複数の人達について書きつつも、私自身、深く気づくこともなく、子規一人への思いを形をかえて書いているのではないかと思ったりする。248p
★私はこの稿で文学史的側面を書いているのでもなく、詩人とか革命家とかという肩書のある人物の評伝を書いているのでもない。人間が生まれて死んでゆくということの情緒のようなものをそこはかとなくと書きつらねている。ただ「驢馬」とその同人たちはタカジの生涯にとって一塊の根株のようなものであった。かれはこの雑誌に毎号詩を書くことによって自分のなかに詩人の芽を見つけてしまったし、さらには、同人の中野重治を知り、これに傾倒することによって革命の徒になった。309-310p
★「バカニスルナ」とびきりの大声だった。「その机の書類を読めば名前も齢もわかるんだ。人をよびつけてどうしてそんなわかりきったことをきくんだ」忠三郎さんは大急ぎで車いすを旋回させ、部屋を出てしまった。結局、この施設に昭和四十五年二月のはじめから八月三十日までいた。その後、この種の施設に近づかず、六年間、死にいたるまで自宅で療養した。……忠三郎さんにとって何にもまして幸いだったのは、患者として死ぬことなく、人間として死ぬことができたことであったかといえる。431-432p
★忠三郎さんの子規への義務感は、つよかった。保管をよりよくするために、子規の書いたものについては断簡零墨まで読んでいたし、その上、伊丹の家の柳行李のなかに詰まっている子規あての来信は、すべて解読して分類していた。……と言って、子規について、たとえば全集を自分で出そうというようなことは、性格として持っていなかった。……タカジのほうも、忠三郎さんが若くて達者ならば世間のほうから持ちこんできもしない全集の刊行など思いたつはずもなかった。タカジは、実務家でなかったが、この種のことになると、実行力があった。469-470p
★講談社は、この企画を遂行するについて、重厚な準備をしてくれた。このため部局から半ば独立したふうにして編集室がつくられた。社内だけでなく、社外からも編集と研究のためのスタッフがあつめられ、また資料写真も無数に収集された。全巻二十二巻・別巻三巻の編集がすすめられていく時期のこの編集室の内容と機能は、子規研究におうて、どの大学のそれよりも精度の高いものであったということを、いまふりかえって、言いきることができる。473p
★監修者の筆頭者は正岡忠三郎であった。475p
★タカジがもともと発願した子規全集の刊行というものは、余命がいかにも消えそうになっている忠三郎さんへの感傷が発条(バネ)になっていた。タカジにとっての対象は後世というよりも「忠三郎さんひとりであり、そのひとりに、死ぬ者に『子規全集』の配本第一冊を手にとらせてやりたい」ということであった。479p
★この稿(注:誄(るい)詩)の主題は、子規の「墓碑銘」ふうの、ごく事歴に即したリアリズムでいえば、「子規から『子規全集』まで}というべきものであったかと思っている。しかし私自身についていえば、すでにふれたように、忠三郎さんとタカジというひとたちの跫音(あしおと)を、なにがしか書くことによってもう一度聴きたいという欲求があった。そのことでの気分はまだおさまってはいないのである。495p
★――この世は美しい。と、いう感動は素朴すぎることながら、タカジの詩における基調になっていた。かれは若いころから一度も厭世的になったことがなく、そういう悪液質が体に溜まりはじめると、いそいで視線を移して花を見たり、山を見たりして、バケツの底でも抜くような、粗暴なほどの簡単さで――意志力といってもいいが――自分の厭世観を自浄することができた。傍らに花もなく、窓から山も見えないときは、空を見ているだけでよかった。
といって、タカジはその詩で自然を賛美したわけではなかった。獄中にあるときでも地上の美しさに焦がれ、同時に堪能しているという精神が、詩の奥にあるというだけのことである。
革命家であるかれにとっても、この世が美しいという気分が、蓄電池のなかの液体のように涸れることなくたたえられていた。それをより美しくしたいというのがかれの革命への情熱の発条(バネ)になっていたし、一方、たとえ醜いものに出くわしてもたじろがなかった。それらはやがてかれの理論と野望によって本来の美しさに変わることが、かれにとって自明だったからである。
地にあるものすべてを美しいと感じたい気分は、いつでも、伸びあがって待ちうけるようにして用意されていた。かれが、子規の詩歌についての鋭敏な鑑賞者であったのは、子規の俳句も短歌も、地上の美しさというものの本質を、路傍に小石でも置いたようなさりげなさでひきだしてくれるためであったといえる。496-497p
2019年9月8日日曜日
家の中での運動
今年に入り、ラジオの「山カフェ」を聞いて石丸謙二郎を知った。ネットで検索すると石丸のHPがあり、ブログもある。毎日、この人のブログを見ている。ブログのアップ時刻を見るとほぼ午前5時台で早い起床なのだろう。今朝も見ると「しょうがないのでスクワット 」の投稿がある。スクワットのやり方の後の最後の文が面白い。
★今年は、特に雨が多く、外歩きができない。
家の中で、なにがしかに励むしかない。
しかたないので、スクワット。
ほかにできないので、スクワット。
テレビを見ながら、スクワット。
本を読みながら、スクワット。
セリフを覚えながら、スクワット。
お菓子を食べながら、スクワット。
(それ、ダメじゃん)
https://ishimaruk.exblog.jp/(参照)
「一眼二足」といわれるように足の衰えは健康を損なうもとになる。運動らしい運動は週に1度の水泳と自転車で外に出る。これ以外はやっていない。そこでスクワット登場となるのだが、最近は何かで知った踵をあげてつま先で立つことをやっている。1度に30回を目安に……。20回くらいまでは楽。だが、30回近くになると足が疲れてくる。これを一日に最低1度はやることをこころがけてやる。最高気温33、4度ともなると自転車で外に出ると汗びっしょりになる。そうまでして自転車に乗らなくても…、と思って始めたのがこのつま先立ち。
山歩きが半ば本職ともいえる人が家でスクワットをされている。これを知ってどんな人もそれなりの工夫をしている、と感心してしまう。
今日からつま先立ちに続いて久々にスクワット、始めよう!
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★今年は、特に雨が多く、外歩きができない。
家の中で、なにがしかに励むしかない。
しかたないので、スクワット。
ほかにできないので、スクワット。
テレビを見ながら、スクワット。
本を読みながら、スクワット。
セリフを覚えながら、スクワット。
お菓子を食べながら、スクワット。
(それ、ダメじゃん)
https://ishimaruk.exblog.jp/(参照)
「一眼二足」といわれるように足の衰えは健康を損なうもとになる。運動らしい運動は週に1度の水泳と自転車で外に出る。これ以外はやっていない。そこでスクワット登場となるのだが、最近は何かで知った踵をあげてつま先で立つことをやっている。1度に30回を目安に……。20回くらいまでは楽。だが、30回近くになると足が疲れてくる。これを一日に最低1度はやることをこころがけてやる。最高気温33、4度ともなると自転車で外に出ると汗びっしょりになる。そうまでして自転車に乗らなくても…、と思って始めたのがこのつま先立ち。
山歩きが半ば本職ともいえる人が家でスクワットをされている。これを知ってどんな人もそれなりの工夫をしている、と感心してしまう。
今日からつま先立ちに続いて久々にスクワット、始めよう!
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
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