2023年11月15日水曜日

日帰りバスツアーに参加その2

  2023年11月13日(月)、バスツアーに参加した。紅葉は今一歩だったが多くの写真を撮った。その中から絵になりそうな写真とタコ料理をアップしよう。出かけた場所が山間の地域にあり、また小雨も降っている。急遽、ダウンを着てのツアーとなった。家を出た際、首のあたりに寒さを感じる。それくらい冷たい朝だった。幸い午後からはお天気も回復。しかし、一日中、冬の到来を感じるツアーとなった。この日の万歩計は14868歩。 

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

三景園の滝
三景園
三景園内の柘榴の盆栽は絵になりそうだ 
仏通寺

仏通寺の絵になりそうな多宝塔 
三原名物登喜将のタコ料理
三原名物登喜将のタコ料理

2023年11月14日火曜日

日帰りバスツアーに参加その1

  一昨日から一気に冬になった。昨日は朝から小雨模様のお天気。起床5時50分。すぐにエアコンをつける。日帰りバスツアーの日だ。旅は雨に左右される。お天気であればその旅は8割がた成功とか。急に寒くなったので出かける10分前に急遽、今季初の軽めのダウンを着る。また持参するナップサックも急遽、軽めのリュックに替えた。このリュックは1か月半前に友だちの家に行った際、レクト内の蔦屋で買った。携帯リュックは折りたためば小さくなる。さらには先日購入したポシェットも出番だ。

 出かける前に持って行くものなど計画を変えるとよくない。何もかも慌てた感じになる。これは怪我のもと!?広島駅新幹線口のペデストリアンデッキに8時10分前に集合する。この日のツアーは久々に利用する旅行社だ。参加者は29名。大半は1人参加だ。旅行社によっては1人参加は相席になることがある。ところがコロナ禍になって良心的な会社は相席にはしない。これがいい。

 このツアーは2年前の11月16日に同じコースで同じ旅行社で参加している。その際の幽玄の世界のような光景が忘れられず今回も参加した。ところがこの夏の異常な暑さで紅葉は今一歩だった。出かけた場所は広島空港そばの三景園、さらには仏通寺。お昼は三原港近くのタコ料理の登喜将でいただく。お昼としては豪華な料理でタコのやわらか煮、生きタコの刺身、タコピリ辛鍋、タコ天、タコ釜めし、お吸い物、果物などのタコ尽くしだった。

 テーブルには1人参加者が自由に座る。いつものことながら互いに引き合うものがあるのか気が合う人たちになる。午後からこの3人で観光しているとなんと血液型が同じだ。次に向かうは御調八幡宮。そして究極は今高野山。紅葉としては仏通寺と今高野山に期待していた。ところが前回とは打って変わって紅葉は期待外れ。自然が醸し出す風景なのでこれも仕方がない。

 午前中の雨も午後には上がる。しかし気温は低い。冷たいバスツアーとなった。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年11月12日日曜日

サムホールに箔を貼る

 日本画教室で先生からサムホールに箔を貼るように勧められる。最近、動きすぎて今一歩気が乗らない。が、先生は各種箔を持参されている、と思い直して睡蓮を描くのを中断する。幸い、以前に買って教室に置いていたサムホールがある。それに鳥の子紙を貼ろうとすると先生から釘が出ていると言われる。しかし、サムホールのどこを見ても釘を打った跡がない。しかし、釘は出ている。

 この釘を引っ込めないと鳥の子紙を貼れない。いろいろと皆で釘らしきものを打ち付けるもダメだ。その時、教室の人が大工さんの作業を見て知ったというやり方で釘を引っ込めてくれた。器用な人はなんでもできる、と感心してしまった。

 サムホールに鳥の子紙を貼ってその上に箔を貼る。貼ると言っても糊で紙を張り付けるのとは違って薄い箔を竹ばさみで剥がし、それを揉んで小さくする。このようにした箔は近くで息をすると飛んで行ってしまう。1枚目の箔は小さくしすぎてしまったのでパネルに貼っても同じ模様になる。これでは面白くない、とのことで結果6枚の箔を使って貼った。何とか面白く貼れたようだ。このサムホールに絵を描くのだが、何を描くかを決めていない。

 教室は3時間ある。前半はエンジン全開とはならなかった。が、ティータイム後、本来の元気を取り戻す。ティータイムでは各自持ち寄っておやつにする。車で来る人からはドリンクやミカンをもらった。毎回いろいろといただく。が、家に持ち帰ってもいただきものがたまってしまう。昨日はミカンを4個もらった。

 子供のころはミカンを一度に何個も食べた。しかし、このごろは一日に1個で十分だ。歳を取った!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年11月11日土曜日

『韃靼疾風録』(下)

 『韃靼疾風録』(下)(司馬遼太郎 中央公論社、1991年)を読んだ。清は明を征服する際、漢人に辮髪を強いた。漢人と女真人(満洲族)を髪型によって見わけ、それに逆らう者は刑に処した。このくだりは最初に記す。辮髪が明から清に代わる時の大事な役目を担っていたとは、なんとも驚き!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★”清朝”と称してはみたものの、その点の心もとなさは、一山の蟻を一人でのこらずつまみとろうとする空想に似ていた。女真人の人口は、せいぜい五、六十万人で、兵となると後方勤務や病人まで入れて十数万でしかなかった。この人数で中国大陸を征服しようとしている。ここまでくれば制服しかなく、もし長城外の故郷へ退きかえせば、士気がおとろえ、それにひきかえ旧明の勢力が勢いをえて逆にこの辺境の少数民族を押しつぶすだろう。征服するには、強制辮髪しかない。……すでにふれたように庶民をも辮髪にさせてきた。……さからう者はこれを殺す。殺すべきものがひとめでわかるのである。ひとびとは殺されまいとして辮髪にしたし、以後もそうなるであろう。……「辮髪」なんと異様なものであろう。それにしても、辮髪を国是とし、それでもって領域を広げて行った帝国は、世界史にない。……辮髪について、以下は余談になるが、主な地方において、旧明の勢いがつよい反発をみせつつも、清の勢力がかろうじて固まりはじめた時期、睿親王は容赦なくこれを強制することに踏みきった。反抗する者は、見せしめとして次々と刑殺した。床屋が、臨時の警吏になった。かれらは、剃刀の入った道具箱をかついで、町々をふれまわったのである。(476-478p)

★人は生物として臆病にできていて、本来、勇気のある者がいるとすれば、精神になにごとかが欠ける者といわねばならない。勇気は訓練と条件によってうまれるもので、そういうことでいえば武科の出身でもない袁崇煥はその種の訓練をうけたことがなかった。かれの勇気は、主知的にみずから作ったものであった。この点でも、かれは将としての性格をもっていたことになる。(37p)

★このあと袁崇煥はかれの部屋の諸将をあつめ、ひたすらなる忠義を説いた。袁はついに激し、刃をぬいてわが腕を撃ち、あふれる血をもって、忠義という文字を書いた。諸将はこれによって奮ったといわれる。忠とはマジメという意味であり、義は自然の情(じょう)にそむく無理なことを倫理上の要求でもってやることをいう。明室への忠義など、明人の感情には乏しいものであった。袁崇煥というのはこの時代の一希士であったといっていい。(39-40p)

★明の歴世のくるしみは、北虜南倭であった。北虜とは、明の領域の北部をさわがすモンゴル人のことであり、南倭とは、領域の南(揚子江とその南)を侵す日本海賊をさす。……北虜といい、南倭といい、明初や明の中期からみるといまははなはだしずかな状態になっているが、意外にも明朝の歴世が軽視し、警戒の必要もないほど団結力がないとしてきた女真族が、蜘蛛のように沸き起こっているのである。蘇州商人の若い手代が話している日本についての不安は、おそらくこういうことであったろう。(56p)

★天が皇帝の姓を他の姓に易(か)える。つまりは天命を革(あらた)める。そのことを易姓革命という。(62p)

★野蛮人のことを中国では、夷といい、胡といい、狄(てき)といい、また蛮という。いずれにしても、――沼沢で魚やスッポンにまみれてくらしているか、それとも草原で五畜とともに暮らし、動物同然のきたならしい連中。というのが、古代以来の野蛮人観だった。かれらは人ではなかった。(104p)

★「満洲」ということばが出てくる。新語にちかい。満洲とは、ホンタイジは民族呼称のつもりで使っているのである。当初は地名ではなかった。ついでながら、満洲というのは、漢民族がつくりだしたことばではない。先代のヌルハチ(太祖)が、民族名についてこれを女真とよぶことを好まず、しばしばマンジュ・グルン(グルンは国)とよんだ。マンジュについて漢族は満住などという文字をあてたが、ホンタイジは、漢字表記として満洲をあてた。人をさし、まれに地名をもあらわす。……「清」という独立国だけを、マンジュの地につくったのである。……――人を捕る。これが、ホンタイジ一代の政策の一つといってよかった。人を刈り捕ってマンジュにし、人口をふやし、国らしくするのである。(118-119p)

★女真の側から見てのホンタイジの功は、まず第一に蒙古賊を帰順させて武力を強化したということになるであろう。ついで、略奪した漢人に農地を拓かせることで、慢性的な女真の食料不足をすこしは改善したということになる。ともかくも、ホンタイジの存在は、巨大だった。漢人の官吏たちは、この異民族の皇帝のために、中国皇帝のような廟号をえらんだ。「太宗」なんときらびやかな廟号だろう。(131p)

★鄭成功はのち明の流亡の王から朱という国姓をもらい、忠公伯に封ぜられたことから、国姓爺(こくせいや)とよばれたりした。その呼称は日本にもつたわり、近松門左衛門が「国性爺合戦」として書き、上演された。鄭成功の後半生は華麗で、悲壮だった。しばしば清軍をおびやかす一方、オランダ人の拠る台湾を攻め、降伏させてここを中国領として確定させたりもした。ただ寿は短かった。三十八歳で急死し、その雄図(ゆうと)もはかなくなった。(203p)

★洪承疇にあたえられたあたらしい軍職の呼称は葪(けい)遼総督というものだった。葪とは北京付近の地名である。葪という文字があることから、その軍事権は北京付近までおよぶ。遼という文字は、その後のいわゆる満洲を示している。北京周辺から満洲にいたるまでの広大な地域の指揮権を持ったのである。(223p)

★毅宗は北京を守るべき優勢な軍のないことに狼狽し、明朝最大の軍ともいうべき呉三桂の軍をよびかえした。呉三桂は寧遠城を空(から)にし、将兵および住民五十万をひきい、山海関をくぐって北京に急行したが、その途中、信じがたいことに北京城は李自成によって陥された、という報に接したのである。……明は瞬時に亡び、この大陸を統治することに百七十六年という王朝の末路にしては、ほとんど瀕死にちかかった。(316p)

★順王朝と”皇帝”李自成が歴史に公認されることなく、単なる賊としてあつかわれたのは『明史』の編纂態度にもよる。ついでながら、中国の雄大な慣習として、一つの王朝が終わると、それに取って代わったつぎの王朝が、前王朝の正史を編纂することがある。その慣習に従って、明のあとの清は『明史』を編纂した。(330p)

★「山海関の門を開けろ。――」この一声が歴史を変えた。清軍が明の本土になだれ込ませろ、といったも同然だった。明のために山海関の大関門を守ってきたこの将軍が、その任務を放棄したばかりか、異民族を洪水のようにこちら側に入れさせるという。史上、呉三桂ほど、劇的な立場にいた者はいなかった。……山海関を開けることによって、異民族の清が成立した。かれは、異民族国土そのものを売った。動機は、女だった。漢民族の一将が、陳円円をうばったことに憤り、面当てとして異民族に国を売ったことになる。(381-382p)

★女真。――これは、古称である。自称はマンジュ(満洲)、蔑称は満韃子(マンダーツ)、東韃など、民族の呼称さえ定まらぬこのツングース系のひとびとは、ついに、「清」と自称し、広大な旧明の城内に乱入したのである。(438p)

★阿蘭陀通詞(おらんだつうじ)の場合は通詞と書き、唐通事の場合は、慣例上、通事と書く。おなじ身分の職で、外国文書の取り扱いと通訳、さらには事務官として貿易の業務をあつかう。身分は堂々たる士分である。(504p)

★清朝以後、現在にいたるまで、中国では「満洲」または満洲族とよばれている。……満洲とは本来地名ではない。(地名なら満州とでも表記するところである。)満洲とは民族名で、こんにちでも中国においてはその使われ方はかわらない。(525p)

★清朝のころは、北京の満洲人たちは”旗人”とよばれ、貴族というほどの語感と内容をもつ階層を形成していた。減満興漢の大合唱のなかで清朝がくずれ去ったあと、遺民たちは満洲人であることを秘し、中国の姓名を称した。故郷の東北地方にいたひとびとも、満洲人であることを積極的にいわず、固有満洲語をつかうこともはばかったため、ことばも死語同然になった。二十世紀初頭まで中国を支配していた王朝の言語が死語同然になるなど、劇的といっていい。(533p)

★漢族の文化に同化したといえば、旗人たちは北京では中国語をつかった。かれらのつかう中国語が、北京官話とよばれたのである。キングス・イングリッシュというようなものであった。「北京官話」とは、新中国以前に存在した標準中国語のことをさし、また清朝高官(マンダリン)のことばでもあった。ここには多分に満州発音が入っている。(535p 女真人来り去る――あとがきにかえて)

★モンゴル高原のオルホン河川流域で遊牧していたタタール族の名が北アジアの遊牧民ぜんたいの呼称になったのである。さらにひろがって、十三世紀のチンギス・ハーンの民族そのものをさすようになった。が、この作品に登場する民族は、韃靼(タタール)――モンゴル人――のように世界史のブロード・ウエイを往来したひとびとではない。現在でいう中国東北地方の山間や河川に散居していた小さな素朴民族のことを、ここでは韃靼とよんでいる。かれらにつては、モンゴル人たちが「ああ、豚を買っている連中か」と、一格下げのようにみていた。かれらのことを、漢民族は、古来、女真人とよび、ときに満洲(マンチュウ)とか、”満韃子(マンダーツ)”とよんだ。(554p 文庫本のために)

2023年11月10日金曜日

ポシェット

 昨日のネット記事president on-lineに「これができないと孤独な老後が待ち受ける…87歳医師が『老年になったら徹底すべし』と説く生活態度」から自分の都合のいい箇所だけを記そう。それは「人といつでも交流できることは、幸福の一大条件」と「自分を発信できていれば孤独ではないのです」である。まあ、これはともかくとして孤独な老後だけは避けたいものである。

 昨日は人からもらったチケットをもって松本明慶仏像彫刻展を見に行く。会場は福屋八丁堀店。しかし、出かけた目的はそれ以外にもある。それはポシェットの購入である。数日前、用事を済ませた後、福屋駅前店でポシェットを物色した。が、他の売り場にもいいものがあるのでは、と思って買わなかった。彫刻を見た後、ポシェットを見て歩く。しかし八丁堀店で軽くて安いものがあったがファスナーが付いていない。場所を移動して本通りを抜けてそごうへ行く。ここも今一歩の感じでバスに乗って福屋駅前店に移動する。

 先日、下見した1階の売り場に行くとこれもあまり気が進まない。2階へ移動してポシェットを探すが先日物色したものが見当たらない。係に数日前にあったものが売れた?と問うと、どんな商品かを聞かれる。係に探してもらうとあった!すぐにそれを購入。

 ポシェットが欲しいと思ったのは旅に出たときである。これまではショルダーバッグをかけて歩いていた。ところが、このごろはなんでも荷物は軽くするに限る、と思うようになった。観光するときは軽量のリュックやナップサックを背負って歩く。その際、その中に貴重品などをポシェットに入れ、そのポシェットをそのままナップサックやリュックに入れれば何も手にすることなく歩ける。

 ポシェットをそごうで物色中、自分には相応しくない高級な売り場に入った。手にするとなんと36000円。もしかしてそこはブランドショップ!?係は驚く私を見てよくぞ見てくださった、みたいに言われる。そうかもしれない。高級な売り場に入っただけでも恐ろしい。今回購入したのは9900円。これは福屋駅前店のバッグ売り場にあった。軽量で小さくて柔らかいポシェットだ。

 その後、ティータイム。すぐに買ったポシェットを袋から出して眺める。大いに気に入る。近いうち、日帰りツアーに参加する。その時、このポシェットはデビュー!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年11月9日木曜日

『韃靼疾風録』(上)

 『韃靼疾風録』(上)(司馬遼太郎 中央公論社、1991年)を読んだ。この上巻のほかに下巻もある。長い小説だが興味深く読んだ。まだ下巻の100頁ほどは読み終えていない。この時点で『司馬遼太郎全仕事』のこの本の「読みどころ」を見ると次のように書いてある。それは「『自分は何者なのか?』壮大な大陸歴史絵巻の裏から浮かび上がる、孤独な男の自分探しの物語。切なくて力強いその結末を、胸いっぱい味わってほしい。」と。下巻の最後の100頁をこれを参考にして読もう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★まず平戸島の北端 の田ノ浦まで行った。そこで、三日とまり、日和(ひより)を見た。こういう入念な性格のことを、この当時、島では念者(ねんしゃ)といった。庄助は念者だった。わずか一里半の北にうかぶ島にわたるのに三日も日和を見るということだけでも、庄助は風変わりな男であった。(33p)

★タタール(漢字表記して韃靼)とは、もともとモンゴル民族内部での一部族の呼称にすぎなかった。元以前の宋代の漢民族が、モンゴル人全体を韃靼とよびはじめ、元代ではそのようによぶことをはばかって表面ではそういう呼称をつかわなかった。元がほろぶとき、中国大陸を支配していたモンゴル兵は。土地に執着せず、風のように騎馬で北の草原へ帰っていった。そういうふしぎな滅亡の形態を当時、北帰とよんだ。明帝国では、草原に北帰したモンゴル人のことを、卑しんで韃靼とよぶようになった。(69p)

★日本には明の商人の口から仄かに伝わっていたものの、「愛新覚羅(アイシンギョロ)・奴児哈赤(ヌルハチ)」という異様な名は伝わらず、それを耳にした最初の日本人は庄助であった。(128p)

★「旅順」奇妙な地名というほかない。……遼東半島の先端にある大きな「口」に入りこみ、安堵するのだが、その口を「旅順口」と船乗りたちはよぶのである。つまりは、山東を発し、廟島群島を経、遼東にいたる船にとって旅程の順路にあるがために旅順という。(281-282p)

★ 「アゴよ。漢人(ニカン)の地には人の数奇(スウキ)はある。しかし胡地(こち)にはない。胡地とは、この場合、この韃靼の地をさしているのであろう。数奇。人が人間の関係においておちこむふしぎな不運。――こういうことばは女真語にはないため大夫人はここだけことさらに漢語でいった。数奇は胡地にはない、という大夫人のことばのあやしさに庄助は驚き、つい、「数寄は胡地にないとは?」と問うた。「胡地にあっては」大夫人は、ふと嫌悪を表情にうかべ、「人はことごとく数奇です。すべて数奇であるがために数奇はないにひとしい。漢土にあって人はまれに数奇におちこむ。従って王昭君の数寄もまれなるがために千載に伝えられる」大夫人のいうとおりならば、文明というものは人をして数奇たらしめない状態をさし、野蛮とは数奇が大地に盛りあげたようにある状態をさすことになる。その真否はいずれであるにせよ、大夫人があやまって胡地にうまれたわが身を悲しんでいるのに違いない。(386-387p)

★明は、日本の室町の将軍義満のころ、蒙古帝国である元をほろぼすことによって中国を統一した。中国を支配していたモンゴル人たちは、占領地に執着せず、潮がひくように馬に騎って漠北に去った。ひとびとはこの奇現象をモンゴル人の北帰とよんだ。北帰したモンゴル人は遊牧生活にもどり、その後、しばしば辺境を侵した。英雄が出ると、その勢力が強大になり、英雄が死ぬと衰えた。……かれらの勢力は、微弱になった。……女真は古来、モングを怖れ、かれらに従属するかたちをとってきたのである。それでも、ヌルハチはモング対策に腐心した。(403-404p)

★中国は、歴世、大乱によってくずれる。乱にあっては律儀者が忠臣になり、放埓物が大小の賊になる。賊の小なるものは大に吸収され、やがて巨魁になった者が、英雄になる。そのうちの幸運な者が、つぎの王朝を興すのである。(459p)

★庄助は石伏魚のことばをききつつ、(なるほど明は大きい。その天下は天地をおおっている)と、おもった。皇帝は官吏を傭って統治組織をつくるだけで、王朝を成立させているのである。王朝にとって民は、食餌でしかない。田畑を耕して王朝を食わせ、機(はた)を動かして王朝に衣服を着せるのである。民にとって王朝が忠誠の対象であった歴史は一度もなく、王朝もそれを期待したことがない。王朝が崩れようとするときには、民は鍬を戈(ほこ)にして、王朝に対し病犬(やみいぬ)でも打つようにして打つ。そのくせ、民にしてしかも仁や義のあるものとなると、日本国よりもずっと多いように思える。この場合、石伏魚の仁も義も、庄助にそそがれている。石伏魚にすれば、庄助が、庄助であるという理由のみで情をそそぎ、庄助が日本国の人間であるという属性はかれにおいて何の意味ももたない。(540-541p)

2023年11月8日水曜日

500m泳いだ!

 自転車に乗ってプールへ行く。前回までとは違って久しぶりに500m(10往復)泳いだ。しばらくは500mを泳ぐようにしよう。500mのうちのほとんどは背泳ぎ。最近、草臥れているのかクロールで泳ぐと、きつく感じる。無理してクロールで泳がなくても、と思って背泳ぎで泳ぐ。プールは浅い方で泳いでいる。というのも背泳ぎだとクロールよりも泳ぎが遅い。人に迷惑をかけないようにと泳ぐ人がいない浅い方で泳ぐ。

 クロールで泳ごうとすると隣のレーンを泳ぐ人がいる。この人にどれくらいついて泳げるか、無意識のうちに競争する自分がいる。真ん中あたりでその人と並んだ。そして最後はちょっとだけ前に進んだ。泳ぎ終えてその人の泳ぎを見るとゆっくりだ。自分自身もそれくらいゆっくりと泳いでいると知る。いまさら人と比べても仕方がない。それなのにどこかで意識しているのかもしれない。

 泳ぎ終えて何年振りかで隣接するスーパーに拠った。そこで濡れた水着やバスタオルで重たいにもかかわらず牛乳などを購入。さらに荷物が重たくなる。これがいけなかった。自転車で帰路に向かう途中の踏切で遮断機が下りだす。自転車を押していたサドル部分が遮断機にはさまれてどうやっても動かなくなる。仕方なくそのままにして踏切を出た。一度警笛が鳴ったが貨物列車は通り過ぎた。遮断機が上がるとサドルも動く。その時、反対側から人が駆け寄ってくる。「大丈夫!?」と心配してくださる。また「怖かったでしょ?」とも。何とも親切な人だ。

 いつも利用する踏切は3か所ある。しかし他の2か所は遮断機がソフトなのでたとえ降りたとしても自分であげて通られる。ところが昨日の遮断機は重たくて頑丈にできておりどうやっても動かなかった。また遮断機が降りた際、頭があったのか眼鏡の鼻にかける部分が動いていた。何もかも大丈夫だったけどこれからはここの遮断機は気をつけよう。どういっても踏切の幅が半端なく広い。元気な者でも自転車を押して渡ると遮断機に引っかかる。もしも足が悪い人ならばどうなる!?

 そのためもあって長い年月をかけて踏切横断をなくすべく高架化が進んでいる。しかし、その完成はまだまだ先の事。とはいえ工事は着々と進行中だが。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!