家の玄関を開けると塀のドアを開けて目の前に人がいる。手に持っているのは冊子だろうか。「お出かけですか」と女性。不機嫌に返事をする。「郵便受けに入れないでください」。道に面した家のため、ドアホンを鳴らされる。その大半は用がないばかりか、宗教やセールス関係だ。これに応えまいと思ってドアホンの電源を切っている。使用しなくなって1年以上になるだろうか。別に困ることもないのでそのままにしている。ところが、それでも塀のドアを開けて玄関前まで来るとは……。
昨日はフルートのレッスン日。台風8号を気にしながら家を出る。ひどいこともなく台風は過ぎ去ったようだ。先生のピアノに合わせて笛を吹く。何とかピアノの音もわかってきた。あとはうまく吹くのみ。練習するしかない。
レッスン後、八丁堀まで歩いて向かう。旅行社に行く前に画材屋に立ち寄る。ここでは子供のお使いよりもダメだった。胡粉を、とお店の人に告げると種類がたくさんあるという。「普通の……」と告げるが全く話が合わない。胡粉の前まで行くといろいろと種類がある。以前に「胡粉」と言って購入した、と告げても埒が明かない。仕方がないので膠だけ買ってお店を出る。次にお店に行くときは使用中の胡粉を持参しよう。
次に向かうは旅行社。ビル8階に行ってカウンターのベルを押す。昨日はベルがカウンター近くになく遠くだった。押しても反応がない。2度ほど押す。やはりダメだ。遠くにある電話機を見ると何か書いてある。用がある人は受話器を取ればいいらしい。受話器を取ると係がカウンターに出てきた。ここは通販の旅行を取り扱っている旅行社だ。店舗販売でないため、このような応対になるのだろう。ともあれ、10月の旅の旅費をクレジット決済する。帰り際、係にベルを探して押したことを詫びる。もしも録画されていれば怪しい行動と思われるかもしれない。
八丁堀での用事を済ませ、バスで広島駅に移動する。夜はナイターがあるので駅前はカープのユニホームで染まる。紀伊国屋によって音楽のノートを購入。いつもはヤマハで買っていた。ふと本屋にノートがあるはず、と思って行くとあった。だが、ノートの種類が多すぎる。ここでも係に聞いて音楽ノートを教えてもらう。
そういえば昨日のレッスン後、フルートの先生と司馬作品で話が弾む。自分がはまっているモノ、コト、ヒトに関して話が合うともう我を忘れて話し込む。先生は以前に司馬作品を読まれたという。そう聞くとさらに話が弾む。話し相手は迷惑かもしれないが、自分にとっては至福のひと時……。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2019年8月7日水曜日
2019年8月6日火曜日
原爆の日に
昨夜の蒸し暑さはこの夏一番だった。台風8号の影響だろう。今朝、隣町の町内放送がある。台風の注意を促す放送だろう、と思った。今日は原爆の日。74年前の今日、原爆が投下された。8時15分、黙とうをささげるサイレンだ。元気だった頃の母はこの日、毎年式典に出かけていた。そして原爆で亡くなった母の姉一家のお墓がある寺町に参っていた。だが、一度も母とこの日に出かけたことはない。
初めて務めた会社は某企業の広島営業所で8月6日を地方祭とし、休日だった。今はどうか知らない。市の関係機関は今も休日となっている。
原爆資料館へは小学校低学年の頃、学校から連れて行ってもらった。戦後10年後頃のことで原爆資料館の階段付近には乞食がいた。これは鮮明に覚えているが館内のことは記憶がない。だからといって、改めて見学しようとの気持ちは起きない。感情移入が激しく、嫌なモノ、コト、ヒトには触れたくないし、避けたい気持ちが強い。
今日はこれからフルートのレッスンへ。その後は旅行社によって旅費の決済。台風の影響はさてさて。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
初めて務めた会社は某企業の広島営業所で8月6日を地方祭とし、休日だった。今はどうか知らない。市の関係機関は今も休日となっている。
原爆資料館へは小学校低学年の頃、学校から連れて行ってもらった。戦後10年後頃のことで原爆資料館の階段付近には乞食がいた。これは鮮明に覚えているが館内のことは記憶がない。だからといって、改めて見学しようとの気持ちは起きない。感情移入が激しく、嫌なモノ、コト、ヒトには触れたくないし、避けたい気持ちが強い。
今日はこれからフルートのレッスンへ。その後は旅行社によって旅費の決済。台風の影響はさてさて。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2019年8月5日月曜日
レクイエム イン ヒロシマ を聞く
日曜日の昼下がり、第19回レクイエム イン ヒロシマを聞きに行く。家にいても暑い。ましてや外はさらに暑い。持ち物を少なく、水分補給を用意して身軽に出かける。この年になると夜はなるべく外に出たくない。とはいってもこの暑さ、日中に出かけるのも考えてしまう。ところが、一歩、ホールに入れば、暑さとは逆に冷やしすぎ。プログラムを見ると合唱団も管弦楽団も見覚えのある名が並ぶ。
開場前、列に並んでいると後ろの人が誰かに声をかける。出演者、と教えてくれる。その人は昨日の指揮者の合唱団に所属しているという。聴衆は出演者と関連ある人たちのようだ。という私も知り合いにもらったチケットで聞いた。素晴らしい演奏会だった。なかでも男性のソロの歌声は会場せましとばかりに響き渡る。演奏曲目は下記のとおり。
♪モーツアルト ピアノ協奏曲第17番ト長調 KV453
♪ブラームス ドイツ・レクイエム 作品45
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
開場前、列に並んでいると後ろの人が誰かに声をかける。出演者、と教えてくれる。その人は昨日の指揮者の合唱団に所属しているという。聴衆は出演者と関連ある人たちのようだ。という私も知り合いにもらったチケットで聞いた。素晴らしい演奏会だった。なかでも男性のソロの歌声は会場せましとばかりに響き渡る。演奏曲目は下記のとおり。
♪モーツアルト ピアノ協奏曲第17番ト長調 KV453
♪ブラームス ドイツ・レクイエム 作品45
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2019年8月4日日曜日
地元紙オピニオン&日本画
昨日の地元紙オピニオンに萩博物館特別学芸員の一坂太郎は書いている。「明治維新150年という空気」のタイトルで「賛美一辺倒の世相に違和感」の大見出しがある。萩博物館があるのをこの記事で知る。記事によると「近代日本とは、軍人が政治を行う国であり、それをリードしたのが山口県出身者だった」という。筆者は「今の政府は明治維新を『建国神話』仕立てたいらしい。視界が悪く、不安定な国の人心をまとめる目的で、政治がナショナリズムを高揚させようとした例は古今東西、枚挙にいとまがない」としたうえで「『尊王攘夷派の志士』の松陰を『工学教育』『産業立国』の先駆者、松下村塾を『工学教育』の場とし、祭り上げようとの動きがある」ことに首をかしげる。
今、吉田松陰と高杉晋作を取り上げた司馬遼太郎の『世に棲む日日』(全4冊)を読んでいる。司馬遼太郎は松陰を取り上げたものの松陰を嫌っていた。それは以下の文からわかる。
★思想とは本来、人間が考え出した最大の虚構——大うそ――であろう。松陰は思想家であった。かれはかれ自身の頭から、蚕が糸をはきだすように、日本国家論という奇妙な虚構をつくりだし、その虚構を論理化し、それを結晶体のようにきらきらと完成させ、かれ自身もその「虚構」のために死に、死ぬことによって自分自身の虚構を後世にむかって実在化させた。それほどの思想家は、日本歴史のなかで二人といない。(『世に棲む日日』(二)99p)
このことを松本健一は『世に棲む日日』(四)の「解説」で次のように書いている。
★松陰がつくりあげた「虚構」は、日本国家論というより、幕末にあっては革命的な思想、つまり天皇=国家という国体イデオロギーだった。そのイデオローグ(思想家)としての松陰を、司馬は嫌ったのである。321p
この辺りを一坂は懸念したのだろう。行政関係者が一坂に「尻尾を振らねば食えなくなると忠告」してくれる人もいたとか。しかし一坂はそれよりも「歴史の人物評すら統一され、理屈が通らない社会に向かう空気の方がよほど怖い」として文を締めくくる。
萩博物館へも行きたくなった!
気分を変えて、昨日は日本が教室の日。風景を写真を見てスケッチする。前回、スケッチして水彩で色付けした。これをA3に拡大して、F6のパネルで日本画にしようと思った。だが、今年の日本画展の作品はすでに3点あり、うち2点を出品する。日本画は木製パネルに描いて完成させる。どんどん描いていくと絵がたまってしまう。なるべく物を増やししたくない。そう思って本画に仕上げるのはやめて、しばらくは写真をスケッチする。北海道で写した写真から釧路湿原の1枚をスケッチ。鉛筆でのスケッチは慣れてきた。問題はこの後の色付けが大変だ。これはまとめてすることにして余った時間は野付半島のトドワラをスケッチする。だが、途中で時間切れで来週に持ち越しとなった。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
今、吉田松陰と高杉晋作を取り上げた司馬遼太郎の『世に棲む日日』(全4冊)を読んでいる。司馬遼太郎は松陰を取り上げたものの松陰を嫌っていた。それは以下の文からわかる。
★思想とは本来、人間が考え出した最大の虚構——大うそ――であろう。松陰は思想家であった。かれはかれ自身の頭から、蚕が糸をはきだすように、日本国家論という奇妙な虚構をつくりだし、その虚構を論理化し、それを結晶体のようにきらきらと完成させ、かれ自身もその「虚構」のために死に、死ぬことによって自分自身の虚構を後世にむかって実在化させた。それほどの思想家は、日本歴史のなかで二人といない。(『世に棲む日日』(二)99p)
このことを松本健一は『世に棲む日日』(四)の「解説」で次のように書いている。
★松陰がつくりあげた「虚構」は、日本国家論というより、幕末にあっては革命的な思想、つまり天皇=国家という国体イデオロギーだった。そのイデオローグ(思想家)としての松陰を、司馬は嫌ったのである。321p
この辺りを一坂は懸念したのだろう。行政関係者が一坂に「尻尾を振らねば食えなくなると忠告」してくれる人もいたとか。しかし一坂はそれよりも「歴史の人物評すら統一され、理屈が通らない社会に向かう空気の方がよほど怖い」として文を締めくくる。
萩博物館へも行きたくなった!
気分を変えて、昨日は日本が教室の日。風景を写真を見てスケッチする。前回、スケッチして水彩で色付けした。これをA3に拡大して、F6のパネルで日本画にしようと思った。だが、今年の日本画展の作品はすでに3点あり、うち2点を出品する。日本画は木製パネルに描いて完成させる。どんどん描いていくと絵がたまってしまう。なるべく物を増やししたくない。そう思って本画に仕上げるのはやめて、しばらくは写真をスケッチする。北海道で写した写真から釧路湿原の1枚をスケッチ。鉛筆でのスケッチは慣れてきた。問題はこの後の色付けが大変だ。これはまとめてすることにして余った時間は野付半島のトドワラをスケッチする。だが、途中で時間切れで来週に持ち越しとなった。
| 釧路湿原 これをスケッチした |
| 野付半島のトドワラ 次回にスケッチしよう |
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2019年8月3日土曜日
またも『敦煌』
映画の「敦煌」はもしかしてテレビで見た?と思って自分のブログ内を検索する。2015年4月のブログにNHK・BSで放送された映画のアップがある。昨日ネットで探したのと同じだ。4年前の記憶も怪しい限り。再度、ネットで見ることにして……。
図書館で『世に棲む日日」(四)を借りる。松陰と晋作、そして『敦煌』の趙行徳。この3人の主役が読む者の頭を混乱させる。本を読むと勝手な想像が膨らむ。映像を見なくても主人公の姿が浮かぶ。これも作品の良さだろう。
暑さも半端でない。今朝はこの夏一番とも思える暑さだ。朝4時前、寒くて目が覚める。すぐにエアコンを消してしまった。それが今朝の起床後の暑さになった。朝からシャワーを浴びる。
熱中症で連日、多くの人が救急搬送される。命を落とす人もいる。逆に普通に生活していて寒さで命を失くすことはあまり聞いたことがない。若い頃は暑さよりも寒さが苦手だった。この頃は暑さに参りそうだ。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
図書館で『世に棲む日日」(四)を借りる。松陰と晋作、そして『敦煌』の趙行徳。この3人の主役が読む者の頭を混乱させる。本を読むと勝手な想像が膨らむ。映像を見なくても主人公の姿が浮かぶ。これも作品の良さだろう。
暑さも半端でない。今朝はこの夏一番とも思える暑さだ。朝4時前、寒くて目が覚める。すぐにエアコンを消してしまった。それが今朝の起床後の暑さになった。朝からシャワーを浴びる。
熱中症で連日、多くの人が救急搬送される。命を落とす人もいる。逆に普通に生活していて寒さで命を失くすことはあまり聞いたことがない。若い頃は暑さよりも寒さが苦手だった。この頃は暑さに参りそうだ。
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2019年8月2日金曜日
嗚呼!「敦煌」
暑い日が続いている。無理して泳ぎに行くこともないと覚悟を決めて泳ぎを諦める。とはいっても行くか行かざるべきか逡巡する。絵の材料にしようとデジカメから紙の写真に依頼した。一歩家を出るならばついでに図書館へ本を取りに行きたいし、写真も受け取りたい。昨日の午後は暑さに負けて、一歩も家から出なかった。今朝は泳ぎに行かなくても自転車に乗って行動開始!
昨日、北海道の知床峠で写したツアーの全体写真が添乗員から送付される。利用した会社からは7年前にも中国九寨溝・黄龍の写真が送付されてきた。見知らぬ人たちとの団体写真。申し訳ないけど、もらっても嬉しくない。というか、今、自分の全人生の写真の処理をしようとアルバムを投げ出している。
他にも所属する某研究会から刊行物が送られてきた。これは簡単には読めない論文集。ゆっくり読むことにして……。そして次に出かける予定の旅の旅費請求書が送付される。先の話でも請求書の到着は早い。来週、旅行社に出かけてクレジット決済しよう。
暇になると『敦煌』を読む。文庫本で300頁あるうち60頁をを読んだ。ここまで読んで読んだことがある、と気付く。今朝、ネットで「敦煌」の動画を探すとある、ある。西田敏行主演の映画のようだ。映画をみることはほとんど皆無。暇を見てネットで「敦煌」を見よう。ネットによると他にもNHK特集の敦煌のアップがある。これも楽しみ!ロマンがある!
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
昨日、北海道の知床峠で写したツアーの全体写真が添乗員から送付される。利用した会社からは7年前にも中国九寨溝・黄龍の写真が送付されてきた。見知らぬ人たちとの団体写真。申し訳ないけど、もらっても嬉しくない。というか、今、自分の全人生の写真の処理をしようとアルバムを投げ出している。
他にも所属する某研究会から刊行物が送られてきた。これは簡単には読めない論文集。ゆっくり読むことにして……。そして次に出かける予定の旅の旅費請求書が送付される。先の話でも請求書の到着は早い。来週、旅行社に出かけてクレジット決済しよう。
暇になると『敦煌』を読む。文庫本で300頁あるうち60頁をを読んだ。ここまで読んで読んだことがある、と気付く。今朝、ネットで「敦煌」の動画を探すとある、ある。西田敏行主演の映画のようだ。映画をみることはほとんど皆無。暇を見てネットで「敦煌」を見よう。ネットによると他にもNHK特集の敦煌のアップがある。これも楽しみ!ロマンがある!
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2019年8月1日木曜日
『世に棲む日日』(二)
今日の全国の天気を見ると沖縄32度、広島35度、札幌33度とある。これから1週間先の予報を見ても気温は変わらない。北海道の十勝は35度、北見33度と南の沖縄よりも気温が高い。沖縄のこれから1週間は32度で曇り。広島の1週間先までは35~36度となっている。暑いはずだ。
昨日で『世に棲む日日』(三)を読み終える。ぞの(四)は図書館で予約済みだが昨日は月末の休刊日。近いうち借りられそうだ。手にするまでは『敦煌』を読もう。外に出ても暑いだけ。家でゆっくり本を読むに限る!?
以前に読んだ、その(二)。発行年をメモせずに返却してしまった。以下は『世に棲む日日』(二)(司馬遼太郎 文藝春秋)からの抜粋。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★象山の目的は、黒船に乗り移ろうということではなく、黒船に接近し、それを見上げ、装備その他を十分に見ておきたいという、そういうことだった。ついでながら、象山の新事物へのこれほどの行動的な肉薄心というものは、どの時代のどの先駆者にもない。23-24p
★松陰の母親のお滝が、彼女の内孫たちをさとして、
――松陰叔父のようにおなり。
といったというが、その松陰は天下の囚人であった。囚人を少年や少女たちの模範とするのは異様なことだが、この藩ではすこしも異様ではなさそうで、そのあたりの異様さに幕末の長州藩の天地をとどろかすような震動の素地があるのであろう。62-63p
★「久坂玄瑞はわが藩の少年第一流」
と、松陰はのち他藩の友人に書いた。……「久坂玄瑞は防長年少第一流の人物にして、もとより天下の英才なり」とも書いた。
松陰はそれだけでは済まず、十四歳になる妹のお文を久坂に娶(めあわ)せ、ついには自分の義弟にしてしまったが、その縁談を松陰が言いだすのは、いま高杉晋作が松本村へゆこうとしているこの時期から数日前のことである。106p
★縁談が、きまった。
きまってからの晋作は松陰の刑死を知り、目のさきが急に冬の荒れ海になったような、なんとも名状しがたい衝撃を受けた。この日、晋作は松本村に走り、松陰が閉居しいた三畳の室へあがり、お滝があいさつにきてもろくに答礼せず、半日ぼう然として暮らした。
(この人の志を継ぐ者は、自分しかいない)
と、晋作はおもった。なるほど久坂という者がいる。しかし晋作は久坂という者を乱世の雄とはおもえず、治世にあって廟堂のぬしになる男だとおもっていた。いまの世に必要なのは廟堂の才ではなく、馬上天下を斬り従える才であろう。晋作はひそかに自分こそそれであるとおもっている。181p
★晋作は、思想家ではない。
思想とは本来、人間が考え出した最大の虚構——大うそ――であろう。松陰は思想家であった。かれはかれ自身の頭から、蚕が糸をはきだすように、日本国家論という奇妙な虚構をつくりだし、その虚構を論理化し、それを結晶体のようにきらきらと完成させ、かれ自身もその「虚構」のために死に、死ぬことによって自分自身の虚構を後世にむかって実在化させた。それほどの思想家は、日本歴史のなかで二人といない。
晋作は。現実家であるらしい。199p
★晋作ほどその生涯において、「狂」という言葉と世界にあこがれた男もまれであろう。かれ以外の人物では、かれの師匠の松陰がいるくらいのものであった。松陰はその晩年、ついに狂というものを思想にまで高め、「物事の原理性に忠実である以上、その行動は狂たらざるをえない」といったが、そういう松陰思想のなかでの「狂」の要素を体質的にうけついだのは、晋作であった。晋作には、固有の狂気がある。229p
★桂は晩年――といっても四十代だが――、明治政府のうるさい連中と話をしたりするとき、自分の経歴を語る時は口ぐせのように、
「癸丑(きちゅう)以来」という言葉から語った。癸丑(みずのとうし)の年とはぺリーがきた嘉永六年のことである。このペリー来航から幕末の風雲がおこり、攘夷論が流行思想になり、自称他称の志士どもが出てくるのだが、要するに志士経歴としてはこの「癸丑以来」の連中が古いことになる。275-276p
★文久二(一八六二)年の初夏、高杉晋作は海を渡って上海へ「洋行」した。
当時の日本人にとって、驚天動地といっていいほどの重大事件である。
日本人にとって、遣唐使の上古から二十世紀にいたるまで、洋行というのはそれ自体が異変でありつづけている。個人がそれによって大衝撃をうけ、思想が一変し、ときには一国の文化までが変化した。遠く最澄と空海が唐へ行ったがために日本の文化状況が一変したことでもわかるであろう。これほど洋行ということが重大な意味をもった国・民族は、おそらく地球上のどこにもない。285p
★国内にいるときには徳川幕府というのは天地そのものであり、とてもそそれを倒すことなど不可能におもえていたが、上海にきてふりかえると、幕府など単に大名の最大なるものにすぎず、その兵(旗本)は弱兵ぞろいで、二つ三つの大名があつまっても押し倒せば朽木のようにたおせるということを、みずみずしい実感でおもった。このことが、晋作の上海ゆきの最大の収穫であったであろう。晋作の「洋行」はそういういみで奇妙であった。かれは、上海に行ってから革命をもって生涯の事業にしようと決意したらしい。……
「攘夷、あくまでも攘夷だ」
といったのは、攘夷というこの狂気をもって国民的元気を盛りあげ、沸騰させ、それをもって大名を連合させ、その勢いで幕府を倒すしか方法がないと知ったのである。294p
★——長州藩はほろんでもいい。
という覚悟がよこたわっており、むしろ長州一藩をほろぼすことによって日本革命を樹立し、死中に活を得ようというのが晋作のひそかな戦略構想であった。結局、事態は晋作のおもうように進行し、やがて覚悟の前の自滅寸前の現象がおこり、ほどなくして維新が成立した。長州藩でこれだけの構想力をもっていたのは、高杉晋作以外にはない。やはり、歴史に残る人物であるらしい。300-301p
★通商条約によって指定港が開港されて対外貿易をおこなうことになるが、その収入はぜんぶ「徳川家」に入る。じつに奇妙なものであった。このこっけいな形態は、諸外国が、
――徳川家が、日本政府にちがいない。
と、かんちがいしたことからおこった。かれらは日本政府と条約を結んだつもりだが、じつは徳川家と結んだにすぎない……
当然、上海での晋作の実感は、
——日本に公的政府をつくるべきだ。
ということであった。303p
★晋作が議論家から革命家になるのは上海から帰国後であるといっていい。この時季からの彼の行動は、後年、伊藤博文が晋作の碑に碑銘をきざんだように、
――動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し
というようになる。308p
昨日で『世に棲む日日』(三)を読み終える。ぞの(四)は図書館で予約済みだが昨日は月末の休刊日。近いうち借りられそうだ。手にするまでは『敦煌』を読もう。外に出ても暑いだけ。家でゆっくり本を読むに限る!?
以前に読んだ、その(二)。発行年をメモせずに返却してしまった。以下は『世に棲む日日』(二)(司馬遼太郎 文藝春秋)からの抜粋。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★象山の目的は、黒船に乗り移ろうということではなく、黒船に接近し、それを見上げ、装備その他を十分に見ておきたいという、そういうことだった。ついでながら、象山の新事物へのこれほどの行動的な肉薄心というものは、どの時代のどの先駆者にもない。23-24p
★松陰の母親のお滝が、彼女の内孫たちをさとして、
――松陰叔父のようにおなり。
といったというが、その松陰は天下の囚人であった。囚人を少年や少女たちの模範とするのは異様なことだが、この藩ではすこしも異様ではなさそうで、そのあたりの異様さに幕末の長州藩の天地をとどろかすような震動の素地があるのであろう。62-63p
★「久坂玄瑞はわが藩の少年第一流」
と、松陰はのち他藩の友人に書いた。……「久坂玄瑞は防長年少第一流の人物にして、もとより天下の英才なり」とも書いた。
松陰はそれだけでは済まず、十四歳になる妹のお文を久坂に娶(めあわ)せ、ついには自分の義弟にしてしまったが、その縁談を松陰が言いだすのは、いま高杉晋作が松本村へゆこうとしているこの時期から数日前のことである。106p
★縁談が、きまった。
きまってからの晋作は松陰の刑死を知り、目のさきが急に冬の荒れ海になったような、なんとも名状しがたい衝撃を受けた。この日、晋作は松本村に走り、松陰が閉居しいた三畳の室へあがり、お滝があいさつにきてもろくに答礼せず、半日ぼう然として暮らした。
(この人の志を継ぐ者は、自分しかいない)
と、晋作はおもった。なるほど久坂という者がいる。しかし晋作は久坂という者を乱世の雄とはおもえず、治世にあって廟堂のぬしになる男だとおもっていた。いまの世に必要なのは廟堂の才ではなく、馬上天下を斬り従える才であろう。晋作はひそかに自分こそそれであるとおもっている。181p
★晋作は、思想家ではない。
思想とは本来、人間が考え出した最大の虚構——大うそ――であろう。松陰は思想家であった。かれはかれ自身の頭から、蚕が糸をはきだすように、日本国家論という奇妙な虚構をつくりだし、その虚構を論理化し、それを結晶体のようにきらきらと完成させ、かれ自身もその「虚構」のために死に、死ぬことによって自分自身の虚構を後世にむかって実在化させた。それほどの思想家は、日本歴史のなかで二人といない。
晋作は。現実家であるらしい。199p
★晋作ほどその生涯において、「狂」という言葉と世界にあこがれた男もまれであろう。かれ以外の人物では、かれの師匠の松陰がいるくらいのものであった。松陰はその晩年、ついに狂というものを思想にまで高め、「物事の原理性に忠実である以上、その行動は狂たらざるをえない」といったが、そういう松陰思想のなかでの「狂」の要素を体質的にうけついだのは、晋作であった。晋作には、固有の狂気がある。229p
★桂は晩年――といっても四十代だが――、明治政府のうるさい連中と話をしたりするとき、自分の経歴を語る時は口ぐせのように、
「癸丑(きちゅう)以来」という言葉から語った。癸丑(みずのとうし)の年とはぺリーがきた嘉永六年のことである。このペリー来航から幕末の風雲がおこり、攘夷論が流行思想になり、自称他称の志士どもが出てくるのだが、要するに志士経歴としてはこの「癸丑以来」の連中が古いことになる。275-276p
★文久二(一八六二)年の初夏、高杉晋作は海を渡って上海へ「洋行」した。
当時の日本人にとって、驚天動地といっていいほどの重大事件である。
日本人にとって、遣唐使の上古から二十世紀にいたるまで、洋行というのはそれ自体が異変でありつづけている。個人がそれによって大衝撃をうけ、思想が一変し、ときには一国の文化までが変化した。遠く最澄と空海が唐へ行ったがために日本の文化状況が一変したことでもわかるであろう。これほど洋行ということが重大な意味をもった国・民族は、おそらく地球上のどこにもない。285p
★国内にいるときには徳川幕府というのは天地そのものであり、とてもそそれを倒すことなど不可能におもえていたが、上海にきてふりかえると、幕府など単に大名の最大なるものにすぎず、その兵(旗本)は弱兵ぞろいで、二つ三つの大名があつまっても押し倒せば朽木のようにたおせるということを、みずみずしい実感でおもった。このことが、晋作の上海ゆきの最大の収穫であったであろう。晋作の「洋行」はそういういみで奇妙であった。かれは、上海に行ってから革命をもって生涯の事業にしようと決意したらしい。……
「攘夷、あくまでも攘夷だ」
といったのは、攘夷というこの狂気をもって国民的元気を盛りあげ、沸騰させ、それをもって大名を連合させ、その勢いで幕府を倒すしか方法がないと知ったのである。294p
★——長州藩はほろんでもいい。
という覚悟がよこたわっており、むしろ長州一藩をほろぼすことによって日本革命を樹立し、死中に活を得ようというのが晋作のひそかな戦略構想であった。結局、事態は晋作のおもうように進行し、やがて覚悟の前の自滅寸前の現象がおこり、ほどなくして維新が成立した。長州藩でこれだけの構想力をもっていたのは、高杉晋作以外にはない。やはり、歴史に残る人物であるらしい。300-301p
★通商条約によって指定港が開港されて対外貿易をおこなうことになるが、その収入はぜんぶ「徳川家」に入る。じつに奇妙なものであった。このこっけいな形態は、諸外国が、
――徳川家が、日本政府にちがいない。
と、かんちがいしたことからおこった。かれらは日本政府と条約を結んだつもりだが、じつは徳川家と結んだにすぎない……
当然、上海での晋作の実感は、
——日本に公的政府をつくるべきだ。
ということであった。303p
★晋作が議論家から革命家になるのは上海から帰国後であるといっていい。この時季からの彼の行動は、後年、伊藤博文が晋作の碑に碑銘をきざんだように、
――動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し
というようになる。308p
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