コロナウイルスの影響で自転車に乗らず、歩いて出かけている。歩きついでに、地元の神社の桜を見に行こうとするが今一歩気が進まない。
昨日から学校が再開されたニュースが入る。我が家の横にある小学校も授業が再開されたのか、校内アナウンスが聞こえてくる。学校も本格的に始まれば図書館もプールも再開?と思ってしまう。だが、これも県内のウイルス感染者が日に日に増えれば、いつの再開かも危ぶまれる。
今、ブレーク中のお笑い芸人のブログを見ると今日から仕事がストップ、とある。テレビ局もコロナ感染を考慮して出演者を減らしている。これも仕事がなくなる原因かもしれない。
仕事に関しては個人的にはとっくに別世界になった。何はともあれコロナに感染しないように気を付けなければならない。島根と鳥取は都会からのコロナ疎開が増えているとか。疎開、をこういうことで使うのもなんか変。そういえば美輪明宏は昨日、ごごナマ出演でコロナを恐慌と話していた。恐慌もあまり言葉として使わないので違和感を抱いてしまう。疎開も恐慌も平穏無事な日常では必要ないキーワード。今、起こっている現実がいかに怖いことかこのキーワードからも見えてくる。
モノゴト、あれこれ考えず地元の神社付近の桜を見に行こう!
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2020年4月7日火曜日
2020年4月6日月曜日
『空海の風景 上』
広島と福岡のJ 〇Bから旅のパンフレットが送られてきた。コロナがなければすぐにパンフに飛びつくはず。だが、どこかへ行こうとしても本気になれずにいる。旅行会社も初夏になればコロナも……と当て込んでパンフを送付するのだろう。本来ならば明日と明後日は吉野の桜や高野山観光に出かけるはずだった。これもコロナでご破算となる。
高野山と言えば空海。先日読んだ『空海の風景 上』(司馬遼太郎 中央公論社、2012年改訂32刷)。気になる箇所を記そう。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★……都へのぼっていくこの少年には、のち歴史に巨大なものを展開するこの種の人物にありがちな年少時の苦艱というものがまったくなく、要するに「偏ニ悲ミ、字シテ、貴物ト号ス」といった波瀾のない生いたちであったことを知りたかったからである。……空海はここの中間階級出身者にふさわしい山っ気と覇気を生涯持続した。43-44p
★「佐伯の宿禰どのが」
といううわさばなしも空海はきいていたにちがいない。佐伯の宿禰とは、空海の家が勝手ながらも佐伯姓の宗家としている中央の佐伯氏のことで、このばあいは佐伯今毛人(さえきのいまえみし)を指す。47p
★深刻な知的煩悶のみがあり、わざわざ演劇的構成でもって『三教指帰』を書くことによって、かれが大学で学ばされている儒教と道教と仏教の三者の優劣を比較し、結論として仏教の方ほうが他の二者よりはるかにすぐれているということをひき出すのである。ひき出しただけではなく、それへ転身してしまう。かれが仏道に入ったのはいわば学科の転科にすぎず、中世の爛熟期に日本にあらわれてくるひ弱な厭世的j情念などはこの精気のあふれた男にはなかった。58p
★空海の才華はひらくべくしてひらいたというより、それに豊饒な土を与えたのはここの期間の叔父であったにちがいなく、とくに空海がその生涯において阿刀氏以外に一人の師に入念に就いたということがなさそうなことを思えば、そういう感がふかい。65p
★かれのこの当時の名前は「真魚」(まいお)」といったらしい。その根拠は、わずかながらある。佐伯真魚である。70p
★空海――仮名乞児――はここで人間存在についての仏教の一般的解釈をいうのである。
人間というものはもともと三界に家がないものだ、あると思っているのは錯覚である。人間の住む六趣の世界をご存じであるか。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、そして天上の六つの世界のことだが、人間はこの世界をくるくると輪廻して定まるところがない、それゆえ私はときに天堂(天国)を国とし、あるときは地獄を家とする。89-90p
★空海によって体系として大完成する密教はその時期以後を純蜜と言い、それ以前の没体系的な、かけらのかたちで伝わってきていた密教を雑蜜として区別した。ついでながらこの雑蜜はその後もこの国の山河に根づき、大和の大峰や出羽の羽黒山などの山林で土俗と習合しつつ歩き巫女、外法の徒、あるいは山伏といったふうなかたちとして生きつづけた。106p
★要するに空海は、大和国高市郡久米寺の東塔下において大日経を発見したのである。161p
★空海はこれがために入唐(にっとう)を決意した。大日経における不明の部分を解くためであった。……久米寺で見た大日経についての疑問点を明したいためというだけのものであり、遣隋・遣唐使の制度がはじまって以来、これほど鋭利で鮮明をもって海を渡ろうとした人物はいない。167p
★空海は淡泊な男ではなかった。というより並外れて執念深い性格をもっていた。そういう性格でなければ、神道的平明さを思想的風土とする倭の土地から、悪魔的なほどに複雑な論理を構築する男として歴史に登場することはできなかったであろう。220p
★「自分の体系を国家が欲しいなら、国家そのものが弟子になってわが足元にひれ伏すべきである」というべきという気持ちがあった。さらにその気持ちをささえていたのは、遣唐使船に乗るにあたってかれが自前で経費を調達し、その金で真言密教のぼう大な体系を経典、蜜具、法器もろとも持ちかえったという意識があったからに違いない。空海は私学の徒であったとさえいえる。222p
★空海は、いう。いま、使者がきて入京が許されないということを承った。……一転して、空海は閻済美の人徳の高さを湛える。……閻済美は結局、空海を入京させることにした。橘逸勢のような男は、すねを挙げ、手を搏(う)って、空海のためによろこんだであろう。
入京する者、葛野麻呂以下、すべて二十三人である。282-282p
★空海も馬上の人になった。
十一月三日、福州を辞した。……長安城までは、唐の里程にして七千五百里である。283p
★「木妖」(もくよう)とよび、時代の衰兆をかぎとった。しかしながら空海が長安に入ったのはこの木妖時代が終了して、その成果のみが坊々に燦然とかがやいているときで、いわば長安の都市美の爛熟期であったといっていい。空海の側からみれば、外国人であるために木妖を憂える必要はなく、ひたすらにそれを讃美すればよかった。空海が長安の都市美が最高潮を保っているときに入ったというだけでも、かれについてまわる幸運がここにも息づいているということができるであろう。302p
★六朝は貴族政治であるために門閥を重んじたが、唐朝は思想として普遍性を尚び、皇帝の補佐をする人材はひろく天下にもとめ、試験でもって登用し、人種を問わなかった。唐の皇帝の原理には、皇帝は漢民族の身の皇帝であるという意識はなく、世界に住むすべての民族を綏撫(すいぶ)するという使命をもち、華夷のわけへだてをするということがない。唐朝において大きく成立したこの普遍的原理を、空海が驚嘆をもって感じなかったはずがないであろう。かれがのちにその思想をうちたてるにおいて、人間を人種で見ず、風俗で見ず、階級で見ず、単に人間という普遍性としてのみとらえたのは、この長安で感じた実感と無縁でないに相違ない。326-327p
★護摩というのは、火をもって供養するということで、釈迦の仏教にはこれがなく、むしろこの種のものを外道として排した。しかし、密教は釈迦が嫌悪した護摩をとり入れたがために、空海の護摩に対する関心がつよい。護摩は、インド古来の土着宗教であるバラモン教から系譜をひいているのであろう。334p
★空海が後年、護摩をも思想家してしまったのは、護摩の火に薪という具体的なもの――煩悩――が焼かれて清浄という抽象化を遂げるという内容を考えたからであった。336p
★繰かえすようだが、比較は空海のもっも好むところであり、しばしば、かれの知的作業の方法でもあった。337p
高野山と言えば空海。先日読んだ『空海の風景 上』(司馬遼太郎 中央公論社、2012年改訂32刷)。気になる箇所を記そう。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★……都へのぼっていくこの少年には、のち歴史に巨大なものを展開するこの種の人物にありがちな年少時の苦艱というものがまったくなく、要するに「偏ニ悲ミ、字シテ、貴物ト号ス」といった波瀾のない生いたちであったことを知りたかったからである。……空海はここの中間階級出身者にふさわしい山っ気と覇気を生涯持続した。43-44p
★「佐伯の宿禰どのが」
といううわさばなしも空海はきいていたにちがいない。佐伯の宿禰とは、空海の家が勝手ながらも佐伯姓の宗家としている中央の佐伯氏のことで、このばあいは佐伯今毛人(さえきのいまえみし)を指す。47p
★深刻な知的煩悶のみがあり、わざわざ演劇的構成でもって『三教指帰』を書くことによって、かれが大学で学ばされている儒教と道教と仏教の三者の優劣を比較し、結論として仏教の方ほうが他の二者よりはるかにすぐれているということをひき出すのである。ひき出しただけではなく、それへ転身してしまう。かれが仏道に入ったのはいわば学科の転科にすぎず、中世の爛熟期に日本にあらわれてくるひ弱な厭世的j情念などはこの精気のあふれた男にはなかった。58p
★空海の才華はひらくべくしてひらいたというより、それに豊饒な土を与えたのはここの期間の叔父であったにちがいなく、とくに空海がその生涯において阿刀氏以外に一人の師に入念に就いたということがなさそうなことを思えば、そういう感がふかい。65p
★かれのこの当時の名前は「真魚」(まいお)」といったらしい。その根拠は、わずかながらある。佐伯真魚である。70p
★空海――仮名乞児――はここで人間存在についての仏教の一般的解釈をいうのである。
人間というものはもともと三界に家がないものだ、あると思っているのは錯覚である。人間の住む六趣の世界をご存じであるか。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、そして天上の六つの世界のことだが、人間はこの世界をくるくると輪廻して定まるところがない、それゆえ私はときに天堂(天国)を国とし、あるときは地獄を家とする。89-90p
★空海によって体系として大完成する密教はその時期以後を純蜜と言い、それ以前の没体系的な、かけらのかたちで伝わってきていた密教を雑蜜として区別した。ついでながらこの雑蜜はその後もこの国の山河に根づき、大和の大峰や出羽の羽黒山などの山林で土俗と習合しつつ歩き巫女、外法の徒、あるいは山伏といったふうなかたちとして生きつづけた。106p
★要するに空海は、大和国高市郡久米寺の東塔下において大日経を発見したのである。161p
★空海はこれがために入唐(にっとう)を決意した。大日経における不明の部分を解くためであった。……久米寺で見た大日経についての疑問点を明したいためというだけのものであり、遣隋・遣唐使の制度がはじまって以来、これほど鋭利で鮮明をもって海を渡ろうとした人物はいない。167p
★空海は淡泊な男ではなかった。というより並外れて執念深い性格をもっていた。そういう性格でなければ、神道的平明さを思想的風土とする倭の土地から、悪魔的なほどに複雑な論理を構築する男として歴史に登場することはできなかったであろう。220p
★「自分の体系を国家が欲しいなら、国家そのものが弟子になってわが足元にひれ伏すべきである」というべきという気持ちがあった。さらにその気持ちをささえていたのは、遣唐使船に乗るにあたってかれが自前で経費を調達し、その金で真言密教のぼう大な体系を経典、蜜具、法器もろとも持ちかえったという意識があったからに違いない。空海は私学の徒であったとさえいえる。222p
★空海は、いう。いま、使者がきて入京が許されないということを承った。……一転して、空海は閻済美の人徳の高さを湛える。……閻済美は結局、空海を入京させることにした。橘逸勢のような男は、すねを挙げ、手を搏(う)って、空海のためによろこんだであろう。
入京する者、葛野麻呂以下、すべて二十三人である。282-282p
★空海も馬上の人になった。
十一月三日、福州を辞した。……長安城までは、唐の里程にして七千五百里である。283p
★「木妖」(もくよう)とよび、時代の衰兆をかぎとった。しかしながら空海が長安に入ったのはこの木妖時代が終了して、その成果のみが坊々に燦然とかがやいているときで、いわば長安の都市美の爛熟期であったといっていい。空海の側からみれば、外国人であるために木妖を憂える必要はなく、ひたすらにそれを讃美すればよかった。空海が長安の都市美が最高潮を保っているときに入ったというだけでも、かれについてまわる幸運がここにも息づいているということができるであろう。302p
★六朝は貴族政治であるために門閥を重んじたが、唐朝は思想として普遍性を尚び、皇帝の補佐をする人材はひろく天下にもとめ、試験でもって登用し、人種を問わなかった。唐の皇帝の原理には、皇帝は漢民族の身の皇帝であるという意識はなく、世界に住むすべての民族を綏撫(すいぶ)するという使命をもち、華夷のわけへだてをするということがない。唐朝において大きく成立したこの普遍的原理を、空海が驚嘆をもって感じなかったはずがないであろう。かれがのちにその思想をうちたてるにおいて、人間を人種で見ず、風俗で見ず、階級で見ず、単に人間という普遍性としてのみとらえたのは、この長安で感じた実感と無縁でないに相違ない。326-327p
★護摩というのは、火をもって供養するということで、釈迦の仏教にはこれがなく、むしろこの種のものを外道として排した。しかし、密教は釈迦が嫌悪した護摩をとり入れたがために、空海の護摩に対する関心がつよい。護摩は、インド古来の土着宗教であるバラモン教から系譜をひいているのであろう。334p
★空海が後年、護摩をも思想家してしまったのは、護摩の火に薪という具体的なもの――煩悩――が焼かれて清浄という抽象化を遂げるという内容を考えたからであった。336p
★繰かえすようだが、比較は空海のもっも好むところであり、しばしば、かれの知的作業の方法でもあった。337p
2020年4月5日日曜日
モミジを描く
日本画教室に出かける。JRの車内は行きも帰りもいつもとは違って人が少ない。この季節、本来ならば下りは宮島や岩国観光で込み合う車内もコロナの影響でさすがに乗客が少ない。コロナの感染者は広島県で15人。その大半は都会からの帰省者や海外からの帰国者。徐々に県内の感染者も増えている。
ところが絵の仲間は暢気なもの。さすがに会場の区民センタ―の会議室やホールは利用者ゼロでも習いものなどはいつも通りの開催だ。モミジが徐々に色づく様子を描いている。昨日は色づけの際、モミジの切込みの葉の先を濃くするため、色づけしながらぼかしていく。1枚ずつのモミジの色付け。ぼかしを入れるとより一層絵になると先生。そのぼかし、何年習っても思うように描けない。お手本として1か所の切込みの葉を先生に描いてもらう。自分の描くのとは違ってさらにモミジらしくなった。
次週は写真通りの色付けでなく、絵の中央あたりのモミジの色を赤くするようにとアドバイスされる。絵はだいぶモミジらしくなったが、バックの色の汚れが目立つ。先生曰く、「絵具と膠の溶き方がよくない」からだそうだ。小さいダマが地塗りに浮き上がる。これもいつものこと。これからは注意して溶かないといけない。教室が終わるといつものごとくカフェタイム。さすがにカフェも人が少ない。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
ところが絵の仲間は暢気なもの。さすがに会場の区民センタ―の会議室やホールは利用者ゼロでも習いものなどはいつも通りの開催だ。モミジが徐々に色づく様子を描いている。昨日は色づけの際、モミジの切込みの葉の先を濃くするため、色づけしながらぼかしていく。1枚ずつのモミジの色付け。ぼかしを入れるとより一層絵になると先生。そのぼかし、何年習っても思うように描けない。お手本として1か所の切込みの葉を先生に描いてもらう。自分の描くのとは違ってさらにモミジらしくなった。
次週は写真通りの色付けでなく、絵の中央あたりのモミジの色を赤くするようにとアドバイスされる。絵はだいぶモミジらしくなったが、バックの色の汚れが目立つ。先生曰く、「絵具と膠の溶き方がよくない」からだそうだ。小さいダマが地塗りに浮き上がる。これもいつものこと。これからは注意して溶かないといけない。教室が終わるといつものごとくカフェタイム。さすがにカフェも人が少ない。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2020年4月4日土曜日
「バイオリニスト 古澤巌」を見る
昨夜のらららクラシックは「バイオリニスト 古澤巌」だった。テレビ欄を見てどうしても見たかった。番組HPを見ると「バイオリニスト 古澤巌~至高の音を求めて~ (1)ベルリン・フィル団員との豪華共演 (2)日本各地での奉納コンサート (3)多彩な趣味もバイオリンのため!? 世界が認めるバイオリニスト古澤巌に密着!クラシックの枠に収まらず、さまざまなジャンルのアーティストと活動してきたバイオリン界のパイオニアに迫る。ベルリン・フィル団員たちとのコンサート、全国津々浦々の寺社仏閣で行う奉納公演、意外な趣味『サーフィン』まで古澤巌の魅力が盛りだくさん!いま古澤が注目する作曲家マリーノ『Side to Side』、ラフマニノフの名曲『ヴォカリーズ』の演奏にも注目!」とある。まさにこの通りのいい番組だった。
番組最後に「今日の自分と明日の自分は違う」みたいなことを話していた。それはいろいろと自分の好奇心のままに行動していることに対しての返答だった。以前、古澤のブログを見ていたころ(今はブログのアップがない)は合気道とカーレースが趣味とあった。今はそれにサーフィンが加わる。全国の神社仏閣に出かけての奉納コンサートは年に40回くらいするという。コンサートホールに出かけられない人たちに気軽にクラシック音楽を聞いてもらいたいからだとか。
古澤の6月の三原での演奏会チラシが手元にある。聞きに行こうと思っているが、コロナで演奏会が危ぶまれるため、チケットは購入していない。旅でも旅費を支払ったのちにキャンセルがあったりする。これを危惧して思うように行動ができない。古澤のいい番組を見てコロナに結び付けるのは嫌なのでもうこの話題はやめよう。
昨夜のバイオリン演奏は素晴らしかった。番組最後に弾いたヴォカリーズ。フルートの楽譜を持っている。これをまた練習しよう。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2020年4月3日金曜日
ダークサイドミステリー「ナチスをだました男 20世紀最大の贋作事件」を見る
新年度がスタートした。テレビも新たな番組が始まる。昨夜のNHK BS新番組「ダークサイドミステリー「ナチスをだました男 20世紀最大の贋作事件」を見る。
番組HPを見ると「芸術の価値は誰が決める?ナチス高官をニセ名画・幻のフェルメールで15億円サギにかけ、世界に衝撃を与えた天才贋(がん)作師メーヘレンが暴いた、芸術と金と欲望の闇!」とある。さらに「ヒトラー率いるナチスドイツの最高幹部が15億円の名画サギに!?世紀のだましを実現したのは、闇の天才贋作(がんさく)師メーヘレン。大人気画家フェルメール幻の作品への金持ちや権力者の欲望を狙いニセ名画を量産した末に、驚くべき数奇な運命で人生を翻弄された伝説の画家だ。タダ同然の絵を数百万倍の名画に仕立てただましテクニックとは?高名な美術研究者までだまされた、意外な落とし穴とは?芸術と金と欲望の闇に迫る!」とある。
このことは番組で初めて知った。メーヘレンも初めて聞く名前で最後に彼は国家反逆罪で捉えられる。オランダ人であるメーヘレン。ナチス率いるヒトラーとその2番手はナチスが略奪した名画を我が物にした。特に2番手の人物はフェルメールの作品を収集していた。フェルメールの作品のある時期のものは行方不明となっている。元来、正当な絵描きだったメーヘレン。時代は正当な作品を評価しなくなる。そんな時、依頼されたのが高名な画家の絵の修復作業だった。これがうまくいき、思いついたのが有名な絵の贋作を描くこと。これが数億の価格で売れた。フェルメールの所在不明の絵をあたかもフェルメールが描いたかの如く描くとその絵が10数億の価格がついて売れた。これに気をよくしたメーヘレンは贋作を描き続ける。だが彼は次第に麻薬におぼれていき、絵も繊細に描けなくなる。
メーヘレンは「ナチスを手玉にとった男」としてオランダ警察に捕まる。番組ゲストの1人は話す。「美術作品は人間の意義・価値を映す鏡のような存在だった」と。だからこそ「自分の物の見方に自信を取り戻すこと」が大切だという。ところが今や「『美』は専門家が語るようになっている」と話す。自分が見て好きな絵がいい絵だと。これは美学の先生も話しておられた。
国家反逆罪で捕まったメーヘレン。最後にこの絵が贋作であることを証明するために皆の前で絵を描いて見せる。描いた絵を見た裁判官らはこれはフェルメールの絵でなくメーヘレンの贋作と証明する。メーヘレンは絵が判明した6週間後に心臓発作でなくなる。なお、メーヘレンの贋作を集めた美術館がオランダにあるそうだ。
この番組に出たゲストの1人は、本当に自分の気持ちをここで話してもいいのかと念を押して話す場面があった。それは有名な絵でもなんでも自分の判断でなく人の判断で絵の良しあしを決める云々のような話だった。これが「『美』は専門家が語るようになっている」ということだろう。美学の講座を受けて一番感じたことは絵は自分の好き嫌いで良しあしを決める、ということだった。音楽だってなんだって人がいい、と言っても自分の好みとずれることがある。それなのに絵は画商の判断で桁外れな金額で取引されている。いい番組だった。次週はもっとミステリーで怖いお話のようだ。
話は変わって昨日は午前中、川岸の桜を見に行き、帰りにマックスバリュに立ち寄る。初めて行くスーパーだが、大手チェーンのスーパーらしく、野菜売り場を見るといきなりフィリピン産が並ぶ。こりゃだめだ、とぐるっと見て外に出る。大手スーパーは大量に外国産を購入して安く売るのだろう。午後はお寺の護持会費を振込に郵貯のATMに向かう。途中、3人とばったり出会う。いずれも下の名が同じでびっくり。コロナの影響で運動不足になるため、なるべく用事を作って外に出るようにしている。出会った3人も同じらしく外に出ていた。そういえば桜の下ではお花見の家族もいた。家にいるように、と言われても皆、外に出たい!?
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2020年4月2日木曜日
ああ、コロナウイルス
今朝のYahooニュースは「荒磯親方、独りぼっちの入学式『みんなに追いつけるように』 早大大学院スポーツ科学研究科修士課程」が目に留まる。荒磯親方とは元横綱稀勢の里で33歳とまだ若い。コロナウイルスの影響で入学式が取りやめとなり、たった1人で入学式に臨んだという。もっと横綱でいてほしかったが、別の形で頑張る姿を見られるのはうれしい限り。
雨もやんで日がさしている。プールに行く途中にイオン改めマックスバリュが開店した。オープンはだいぶ前になるが1度も行っていない。散歩を兼ねて行ってもいいかもしれない。
コロナウイルスは大都市では収束どころか日増しに増え続ける。コロナで動きが制限されている。だが、自分のことをよく考えると、制限されていることは30代半ばまでいずれもやっていなかった。ということは時代を戻して、30代半ばの自分に帰るとどうだろう。制限された生活ではなくなる!?その頃は何をしていたのか。会社と家の往復だけの生活ではなかったはず。今、思い返しても面白くない生活と思ってしまう。
そう思うとやっぱり当時よりも今がいい。たとえ制限された生活であっても、ほかの楽しみを見つけて動いている。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
雨もやんで日がさしている。プールに行く途中にイオン改めマックスバリュが開店した。オープンはだいぶ前になるが1度も行っていない。散歩を兼ねて行ってもいいかもしれない。
コロナウイルスは大都市では収束どころか日増しに増え続ける。コロナで動きが制限されている。だが、自分のことをよく考えると、制限されていることは30代半ばまでいずれもやっていなかった。ということは時代を戻して、30代半ばの自分に帰るとどうだろう。制限された生活ではなくなる!?その頃は何をしていたのか。会社と家の往復だけの生活ではなかったはず。今、思い返しても面白くない生活と思ってしまう。
そう思うとやっぱり当時よりも今がいい。たとえ制限された生活であっても、ほかの楽しみを見つけて動いている。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2020年4月1日水曜日
「役に立たない生産性のない読書」
今朝の地元紙文化欄「4月の随想」に柏木博は「読書の風景」として書いている。見出しには大きく「生産性考えずゆっくり」とある。3年前にがんが見つかって以降、「大きく変化したのは読書だ、そうだ。それは「仕事のために読書するのではなく、読みたいものを読む。役に立たない生産性のない読書である」という。
この「生産性のない読書」はまさに自分自身にも当てはまる、いい表現方法だ。「生産性」を電子辞書で引くと「生産過程に投入される」とある。改めて生産過程とは、を調べると物質的財貨を生産する過程とある。ということは生産=金銭に換算できるモノであり、その真逆は消費!?では消費はムダ!?
何ら生産性のない読書に時間を費やしている。生産性のないのは読書に限らない。自分が楽しみとする趣味すべては生産性がないかもしれない。しかし、この趣味は人から見れば消費するだけのことであっても自分にとっては生きる上で欠かせない。元気で毎日を暮らせるのも趣味のおかげ。お金儲けにならないことはしない、という生活であれば何のために生きているのかわからなくなる。人生、ムダなことは何もない。生産性のない読書であっても自分が本を読んで楽しければそれは何モノにも代えがたい。
今日は一日中雨の日となりそうだ。何もせず、一日を無為に過ごさないためにも生産性のない読書をしてフルートを吹いて……元気に過ごす!?これに尽きそうだ。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!、
この「生産性のない読書」はまさに自分自身にも当てはまる、いい表現方法だ。「生産性」を電子辞書で引くと「生産過程に投入される」とある。改めて生産過程とは、を調べると物質的財貨を生産する過程とある。ということは生産=金銭に換算できるモノであり、その真逆は消費!?では消費はムダ!?
何ら生産性のない読書に時間を費やしている。生産性のないのは読書に限らない。自分が楽しみとする趣味すべては生産性がないかもしれない。しかし、この趣味は人から見れば消費するだけのことであっても自分にとっては生きる上で欠かせない。元気で毎日を暮らせるのも趣味のおかげ。お金儲けにならないことはしない、という生活であれば何のために生きているのかわからなくなる。人生、ムダなことは何もない。生産性のない読書であっても自分が本を読んで楽しければそれは何モノにも代えがたい。
今日は一日中雨の日となりそうだ。何もせず、一日を無為に過ごさないためにも生産性のない読書をしてフルートを吹いて……元気に過ごす!?これに尽きそうだ。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!、
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